第二十五章  ヨベルの年



 今まで七日目なぬかめに安息の日がありました。又七日なぬかを祝うてそれを安息の日と守らねばならぬ事を見ました。本章において安息の年、又ヨベルの年、すなはち五十年目の年を祝ふべき事について敎へられます。

 神は何時いつでもユダヤびとの眼の前に安息を示し給ひます。一旦いったん失はれたる安息を紀念せしめ給ひます。又きたるべき榮光の安息を望ましめ給ひます。神は安息を與へて心のうちに安息を慕はしめ給ひたう御座ります。毎週一日の安息があります。けれどもそれを經驗しました時に、七月の一箇月を俟望まちのぞましめ給ひます。又それを經驗しました時に、ヨベルの安息を俟望まちのぞましめ給ひます。神は安息を經驗したるユダヤびとに、尚々なほなほ安息を望ましめ給ひます。今神は私共わたくしどもに安息を與へ給ひます。けれども私共が經驗する所の安息のうちに、種々いろいろなる階段があります。例令たとへばある人は罪のためおそれと失望をもっ自己おのれけがしました。けれども福音のをしへよりて幾分か安息を得ました。それから本當にキリストを受入うけいれまするならば、尚々なほなほ深き安息を經驗する事が出來ます。それから全き聖潔きよめと聖靈にみたされまするならば、尚々なほなほ深き安息を經驗します。如斯このやうに神は不斷たえず私共を安息に導き給ひたう御座ります。すくひの特質は安息です。世につける者によりて本當の安息をる事は出來ません。神は私共にこの天につける賜物を與へ給ひたう御座ります。又いつでもそれを與へ給ふ事によりて、私共に尚々なほなほ全き安息を望ましめ給ひます。

一〜七節

 これは安息の命令です。ユダヤびとこれを成就したる時に、じつに敎へられたる事が多くありました。神を信ずる事を學びました。一年間すこしたねきません。働きませずして神の手より無くてならぬものを頂戴しました。じつにそれによりて信仰を學びました。又神のける神である事を學びました。又それのみではありません。その年には何人なんぴともこれはわが地なり、わが畑なりといふことは出來ません。何人なんぴと何處どこでゞもを取ることを許されます。さうですから何人なんぴとも同じやうです。ほかの年に廣き地面をつ者は富者とめるものと見えます。けれどもこの年においてはことごとく平等です。皆神の子でありまして神の手より養はれます。それによりて失はれたるパラダイスの有樣ありさまあらはします。じつさいはひなる有樣ありさまでありました。

 神は六年のあひだ働く事を願ひ給ひます。一年のあひだ安息やすむ事を願ひ給ひます。はたらきおいても安息あんそくおいても、共に神を信ずる信仰を願ひ給ひます。けれども人間は自分のはたらきのありまする時に、神を信じませんかも知れません。けれども格別に安息の年に信仰を學びます。如斯このやうに安息の年に敎へられましたから、こののこりの六年間に信仰をもって働きました。

二十〜二十四節

 『何をくらはんやといふか』。これは不信仰のとひです。そんな事につい思煩おもひわづらひまするならば、不信仰です。神は父であります。地面とち持主もちぬしであります。さうですから必ずゆたかめぐみを與へ給ひます。安息の一年の間にそれを敎へられました。さうですからイスラエルびとは六年間において、其樣そのやうな事を覺えて、不斷たえず思煩おもひわづらはずして、信仰をもって神よりめぐみを戴きましたらう。必ず神はこの六年間にめぐみを與へ給ひます。この產物は神のめぐみです。又イスラエルびとは一年の安息によりて格別にそれを學びました。さうですから格別に不斷たえず信仰をもって生涯をくらす事を敎へられました。私共は其樣そのやうに信仰をもって生涯をくらさなければなりません。ある人は働いて自分のはたらきの結果として無くてならぬ者を得ます。ある人は單純なる信仰をもって、神の手よりることを俟望まちのぞんでります。けれどもふたつながらめぐみよりて養はれます。さうですからいづれに致しても、だ信仰をもって神のめぐみなる事を思うて感謝せねばなりません。

 この二十三節に『地は我のものなればなり』。神は格別にイスラエルびとにそれを敎へ給ひたう御座ります。あなたはその所有主もちぬしではありません。わたくし所有主もちぬしです。あなたはだそれを耕す者ですと教へ給ひたう御座ります。神は地主にして私共は小作人です。神は私共にも其樣そのやうな事を教へ給ひたう御座ります。さうですから萬殊いろいろの物をもっる者、財寳たからもっる者は、さういう物が自分のものであると思ふことはおほいなる間違まちがひです。神はその人にそれを貸し給ひました。その人はそれを借受かりうけたる者です。それを考へて神のために又人間のために、それを用ひねばなりません。

 ほかの人の所有物もちものを見まするならば、それはその人の所有物もちものであると思はねばなりません。けれども自分の所有物もちものを考へてみまする時に、これは自分のものではなく神のものであると思ふはずです。神は榮光のために用ふるやうにそれを委ね給ひました。この世に憐憫あはれみ慈愛いつくしみとをあらはすために、これ程の所有物もちものを貸し給ひしことを思はねばなりません。

 この安息の年に、イスラエルびとは神の前に客のやうな者でした。神の手よりめぐみを得て養はれました。皆神の客でありました。さうですから神はその責任を負ひ給ひました。

 六年のあひだ御働きなさい。一年のあひだ安息をなさい。二つとも神の命令であります。私共は時によりて働かねばなりません。時によりて休んで神のめぐみを得なければなりません。靈のめぐみを得たう御座りまするならば同じ事であります。時によりて働いて、すなはち力を盡しいのりの力を盡し、惡を追ひいだす力を盡して、神の聖旨みむねを成就せねばなりません。また時によりだ休んで、だ信じて、神の前にめぐみ俟望まちのぞまねばなりません。このふたつ有樣ありさまを覺えねばなりません。

 二十一節を見まするならば、安息の年のゆたかなるめぐみがありました。多分不信仰の者はそんな年に格別に植ゑやうと思ひました。けれどもめぐみは格別に溢れました。人間のたねを蒔く事よりは神の祝福はまされる事です。自分のはたらきを休みまするならば、だ神のはたらき俟望まちのぞみますから、それよりて豐かなるめぐみを頂戴します(ヘブル四・九、十)。

 私共が只今たゞいま學びました事はじつに大切であります。何卒どうぞ聖書の硏究と思はずして、その硏究したる事を成就せねばなりません。私共は如斯このやう不斷たえず神の前によろこびいはひを祝ひ、又不斷たえず神の前に休んで信仰を伸ばして、神のめぐみ俟望まちのぞむものです。何卒どうぞ深くいのりもっをしへ受入うけいれなさい。

八〜十一節

 ヨベルのいはひ。さうですから、その年に神は何人なんぴとにも自由を與へ給ひました。今までイスラエルびとは奴隷の有樣ありさまでありましたならば、そのラッパを吹く時から自由を得ました。三十九〜四十二を御覽なさい。さうですからラッパの年に自由を得ました。奴隷たる有樣ありさまに陷りましたならば、その時に復一度もういちど全き自由を得ました。又自由のためまじはりを得ます。奴隷の有樣ありさまでしたならば、愛する妻子つまこまじはる事が出來ません。家にる事は出來ません。けれども自由を得たるために、復一度もういちどまじはりが出來ます。うるはしき家庭が出來ます。

 又四十一節をはりに『產業に歸るべし』とあります。廿九節より見まするならば、貧乏人となりましたから、產業をりました。けれどもヨベルの年に先祖たちの產業に歸る事が出來ます。一旦それを失ひました。けれども今再びそれをる事が出來ます。さうですからゆたかなるくらしを得て、ゆたかなるよろこびを得て、神の前にやすむ事を得ます。

 それはじつさいはひなる譬話たとへばなしであります。福音は靈のヨベルの年であります。福音を聞くことゝ、ヨベルのラッパのを聞くことゝは同じことです。そのを聞くと同時に、全き奴隷の有樣ありさまを棄てゝ、自由をはずです。貧乏の有樣ありさまを棄てゝ、ゆたかなるめぐみはずです。勞して働く有樣ありさまを棄てゝ、やすはずです。その時にイスラエル中の人々は、そのラッパを聞きました。始めてエルサレムの殿みやおいてラッパを吹きました。それを聞きたる四周まはりの人は、同じくラッパを吹きました。又そのを聞きたる者は、同じくラッパを吹きました。さうですからあまねく國中に響きました。國中の人々は早速自由とたふとき產業を頂く事が出來ました。待たねばならぬわけはありません。そのラッパのを聞きました時に、信仰をもって奴隷と貧乏の有樣ありさまを棄てゝ、以前の有樣ありさまとなりました。人間は罪のために奴隷となりました。又罪のために神のうるはしきめぐみを失ひました。今福音のために早速自由を得ます。又ゆたかなる產業を得ます。放蕩息子が家に歸りました時に、復一度もういちどゆたかなる產業を得ました。又家に歸りたるイスラエルびとのやうにその家族とまじはる事が出來ました。

 詩篇八十九・十五を御覽なさい。この『よろこびのおと』はヨベルのラッパであります。それを知る者はさいはひです。ある人はそれを聞きましても、その意味がわかりませんから、格別にそれによりめぐみを得ません。けれどもそれを知る者はさいはひです。さういふ人は神の聖顏みかほの光のうちに步む事が出來ます。これ不斷たえず神の光のうちに步むことの秘密です。私共はヨベルの年の意味がわかりまするならば、不斷たえず神の聖顏みかほの光のうちに步みます。

 エルサレムの殿みやおいて始めてラッパを吹きましたやうに、主イエスは始めてヨベルのラッパの福音を吹き給ひました(ルカ四・十八、十九)。主はこの譬話たとへの意味をもって福音を宣傳のべつたへ給ひました。主の喜ばしき年は何ですかならば、ヨベルの年です。ヨベルの年の靈の意味であります。又この年に、このやうに貧しき者も、心の痛める者も、囚人めしうど瞽者めしひも、皆まことの自由を得ました。今もそのやうな福音のヨベルの年であります。哥後コリントご六・一、二を御覽なさい。今はめぐみの時です、今はヨベルの年です。今は奴隷たる者も神のめぐみために自由をる事が出來ます。さうですから私共はそのヨベルのラッパを聞きましたならば、自分もラッパを吹かねばなりません。

 この弟子は主のヨベルのラッパを吹き給うたることを聞きましたから、自分も諸方へ散じて到るところにラッパを吹きました。貧しき者に福音を傳へました。囚人めしうどに自由を宣べました。今はめぐみの日なり今は神の喜ばしき年なりと宣傳のべつたへました。さうですからマタイ二十四・十四のやうに、全世界に喜ばしきヨベルが響きました。そのラッパのよりて全世界の罪人つみびとは自由をはずです。

 この十四節を御覽なさい。これはなんですかならば、買ひし者をヨベルの年に返さねばならぬことです。そのヨベルの年が近づきました時に、たふとき値段をもって物を買ひましたならば、自分のおほいなる損であります。今同じ事を見ます。主の再臨の時に、本當のよろこびの年がはじまりまする時に、何人なんぴとも世につける者を返さねばなりません。今ある人はたふと價段ねだんもって世につける者を買ひます。あるひ財產たからあるひは名譽、あるひは學問あるひほかの世につける者を買入かひいれます。さうして其爲そのために神のめぐみを失ひます。あるひは自分の安心も失ひます。これはじつたふと價格ねだんもって、世につける者を買ふ事です。じつおろかなる事です。必ず本當のヨベルの年が始まる時に、さういう者を全く歸さねばなりません。何時いつまでも保つところの產業は天につける產業です。神が私共に與へ給ふ產業であります。私共はそれを得ますならば滿足するはずです。私共はそのやうに主と王國のことを大切に思ひますならば、私共は必ず主の再臨を待望まちのぞみます。

 奴隷たる者は必ずヨベルのラッパの待望まちのぞみました。漸次だんだんその日が近付ちかづくに從うて喜びました。オー私共の全きヨベルの年がちかづいて參ります。主の再臨がちかづいて參りました。その時にさいはひに私共は全き自由を得ます。本當に天につける產業をつ事が出來ます。ロマ八・二十一二十三を御覽なさい。今私共はかく敗壞やぶれしもべです。私共は救はれたる事を喜びます。けれども敗壞やぶれしもべとして歎きかなしんでをります。私共はそのヨベルの年、主の再臨を深く待望まちのぞんでおります。その年にはたゞに私共のみではありません。造られたる者ことごとく自由を得ます。鳥もけものも自由を得ます。木も草も自由を得ます。造られたる萬物すべてのもののろひが全く取除とりのぞかれて、相互たがひまじはる事が出來ます。相互たがひうるはしき有樣ありさまのみです。その時にこの天地のすべて受造物つくられしものは全く自由を得ます。哥後コリントご五・四を御覽なさい。私共は今其樣そのやうに歎いてります。ヨベルの年に私共の全き產業に歸る事が出來ます。手にて造られざる產業に歸ることが出來ます。その產業につい彼前ペテロぜん一・四を御覽なさい。其樣そのやうに私共の產業が天にあります。ヨベルのラッパのきこゆる時に、私共は早速それをつ事が出來ます。今でもその產業のはじめを戴きました。エペソ一・十三を御覽なさい。『げふつぐかたなる約束の聖靈をもっいんせらる』とあります。今私共は夫程それほどの產業を得ました。はじめめぐみを戴きました。未來においその產業を全くつ事が出來ます。おなじく十四節を御覽なさい。さうですから私共は罪のためりました產業を贖出あがなひだして戴くまで(until the redemption of the purchased possession)、今約束の聖靈をもっいんせられました。イザヤ五十二・一〜三を御覽なさい。其樣そのやうに何をもあたひせぬ罪のためりました者を、今あたひなくしてあがなはれます。さうですから今ヨベルのラッパを御聞きなさい。捕虜とらはれ有樣ありさまを棄てゝ、信仰をもっうるはしきめぐみ有樣ありさまをおなさい。これは一〜三の意味の要點です。さうですからこのきたるべきさかえのヨベルの年において、私共は全き自由を得、又產業を得る事が出來ます。

 又三番目にまじはりが出來ます。今罪のために又死ぬることのために、全きまじはりが出來ません。丁度ちゃうど奴隷たる者はヨベルのラッパを聞きました時に、自分の家族に歸る事が出來ましたやうに、主の再臨の時に愛する者と全きまじはりに入る事が出來ます。撤後テサロニケご二・一を御覽なさい。彼のもとあつまることゝは一家族のあつまることです。そんなラッパのきこえる時に、又一家族があつまってうるはしき有樣ありさままじはりが出來ます。撤前テサロニケぜん四・十七を御覽なさい。『かれらとともに』。それはヨベルの年のうるはしき全きまじはりを指します。

 又四番目に受造物つくられしものも安息を得ます。カナンの地はヨベルの年に安息を得ました。たねかれずして安息を得ました。其樣そのやうに主の再臨の時に受造物つくられしものは全き安息を得ます。

 これはじつうるはしき福音の譬話たとへばなしであります。私共は子供に、繪畫を見せて物を敎ふるやうに、神はこの譬話たとへばなしもって私共に福音と又その秘密を敎へ給ひます。何卒どうぞ本當にそれをあぢはひなさい。又福音を說くために、かういふ譬話たとへばなしじつに適當であります。そのあぢはひじつうるはしう御座りますから、深くこれをあぢはふて說敎をなさい。

 今學びましたヨベルの年は、私共の經驗の上に餘程よほど利益があります。今私共はヨベルのラッパを聞きます。さうですから全く奴隷の有樣ありさまを棄てゝ、全き自由をはずです。ある信者はそれを信じませんから、全き自由を得てめぐみの產業を經驗しません。これはじつに殘念なることです。何卒どうぞ神の約束のラッパを本當に信じて、奴隷の有樣ありさまを棄てゝめぐみの產業を得て生涯を御くらしなさい。それについ廿七節をご覧なさい。『その產業にかへることを得ん』。これはヨベルの年の有樣ありさまです。これは私共の今經驗すべき有樣ありさまです。神は私共にこの產業を與へ給ひたう御座りますから、今その產業を得なさい。



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