今まで七日目に安息の日がありました。又七日を祝うてそれを安息の日と守らねばならぬ事を見ました。本章に於て安息の年、又ヨベルの年、即ち五十年目の年を祝ふべき事に就て敎へられます。
神は何時でもユダヤ人の眼の前に安息を示し給ひます。一旦失はれたる安息を紀念せしめ給ひます。又來るべき榮光の安息を望ましめ給ひます。神は安息を與へて心の中に安息を慕はしめ給ひ度御座ります。毎週一日の安息があります。けれどもそれを經驗しました時に、七月の一箇月を俟望ましめ給ひます。又それを經驗しました時に、ヨベルの安息を俟望ましめ給ひます。神は安息を經驗したるユダヤ人に、尚々安息を望ましめ給ひます。今神は私共に安息を與へ給ひます。けれども私共が經驗する所の安息の中に、種々なる階段があります。例令或人は罪の爲に恐と失望を以て自己を汚しました。けれども福音の敎に由て幾分か安息を得ました。それから本當にキリストを受入れまするならば、尚々深き安息を經驗する事が出來ます。それから全き聖潔と聖靈に充されまするならば、尚々深き安息を經驗します。如斯に神は不斷私共を安息に導き給ひ度御座ります。救の特質は安息です。世に屬る者に由て本當の安息を得る事は出來ません。神は私共に此天に屬る賜物を與へ給ひ度御座ります。又毎でもそれを與へ給ふ事に由て、私共に尚々全き安息を望ましめ給ひます。
これは安息の命令です。ユダヤ人は之を成就したる時に、實に敎へられたる事が多くありました。神を信ずる事を學びました。一年間毫も種を播きません。働きませずして神の手より無くてならぬものを頂戴しました。實にそれに由て信仰を學びました。又神の活ける神である事を學びました。又それのみではありません。其年には何人もこれはわが地なり、わが畑なりといふことは出來ません。何人も何處でゞも實を取ることを許されます。然ですから何人も同じ樣です。他の年に廣き地面を有つ者は富者と見えます。けれどもこの年に於ては悉く平等です。皆神の子でありまして神の手より養はれます。それに由て失はれたるパラダイスの有樣を顯します。實に幸なる有樣でありました。
神は六年の間働く事を願ひ給ひます。一年の間安息む事を願ひ給ひます。働に於ても安息に於ても、共に神を信ずる信仰を願ひ給ひます。けれども人間は自分の働のありまする時に、神を信じませんかも知れません。けれども格別に安息の年に信仰を學びます。如斯に安息の年に敎へられましたから、この殘の六年間に信仰を以て働きました。
『何を食はんやと言か』。これは不信仰の問です。そんな事に就て思煩ひまするならば、不信仰です。神は父であります。地面の持主であります。さうですから必ず優に惠を與へ給ひます。安息の一年の間にそれを敎へられました。さうですからイスラエル人は六年間に於て、其樣な事を覺えて、不斷思煩はずして、信仰を以て神より惠を戴きましたらう。必ず神は此六年間に惠を與へ給ひます。此產物は神の惠です。又イスラエル人は一年の安息に由て格別にそれを學びました。さうですから格別に不斷信仰を以て生涯を暮す事を敎へられました。私共は其樣に信仰を以て生涯を暮さなければなりません。或人は働いて自分の働の結果として無くてならぬ者を得ます。或人は單純なる信仰を以て、神の手より得ることを俟望んで居ります。けれども兩つながら只だ恩に由て養はれます。さうですから孰れに致しても、只だ信仰を以て神の恩なる事を思うて感謝せねばなりません。
この二十三節に『地は我の有なればなり』。神は格別にイスラエル人にそれを敎へ給ひ度御座ります。あなたは其所有主ではありません。私は所有主です。あなたは唯だそれを耕す者ですと教へ給ひ度御座ります。神は地主にして私共は小作人です。神は私共にも其樣な事を教へ給ひ度御座ります。さうですから萬殊の物を有て居る者、財寳を有て居る者は、さういう物が自分の屬であると思ふことは大なる間違です。神は其人にそれを貸し給ひました。その人はそれを借受けたる者です。それを考へて神の爲に又人間の爲に、それを用ひねばなりません。
他の人の所有物を見まするならば、それは其人の所有物であると思はねばなりません。けれども自分の所有物を考へてみまする時に、これは自分の屬ではなく神のものであると思ふ筈です。神は榮光の爲に用ふる樣にそれを委ね給ひました。此世に憐憫と慈愛とを顯はす爲に、これ程の所有物を貸し給ひしことを思はねばなりません。
此安息の年に、イスラエル人は神の前に客の樣な者でした。神の手より惠を得て養はれました。皆神の客でありました。然ですから神は其責任を負ひ給ひました。
六年の間御働きなさい。一年の間安息をなさい。二つとも神の命令であります。私共は時に由て働かねばなりません。時に由て休んで神の恩を得なければなりません。靈の恩を得度御座りまするならば同じ事であります。時に由て働いて、即ち力を盡し祈の力を盡し、惡を追ひ出す力を盡して、神の聖旨を成就せねばなりません。また時に由て只だ休んで、只だ信じて、神の前に恩を俟望まねばなりません。この二の有樣を覺えねばなりません。
二十一節を見まするならば、安息の年の豐なる恩がありました。多分不信仰の者はそんな年に格別に植ゑやうと思ひました。けれども恩は格別に溢れました。人間の種を蒔く事よりは神の祝福は勝れる事です。自分の働を休みまするならば、只だ神の働を俟望みますから、夫に由て豐かなる恩を頂戴します(來四・九、十)。
私共が只今學びました事は實に大切であります。何卒聖書の硏究と思はずして、その硏究したる事を成就せねばなりません。私共は如斯に不斷神の前に喜の節を祝ひ、又不斷神の前に休んで信仰を伸ばして、神の恩を俟望むものです。何卒深く祈を以て敎を受入れなさい。
ヨベルの節。さうですから、其年に神は何人にも自由を與へ給ひました。今までイスラエル人は奴隷の有樣でありましたならば、其ラッパを吹く時から自由を得ました。三十九〜四十二を御覽なさい。さうですからラッパの年に自由を得ました。奴隷たる有樣に陷りましたならば、其時に復一度全き自由を得ました。又自由の爲に交を得ます。奴隷の有樣でしたならば、愛する妻子と交る事が出來ません。家に居る事は出來ません。けれども自由を得たる爲に、復一度交が出來ます。美しき家庭が出來ます。
又四十一節の終に『產業に歸るべし』とあります。廿九節より見まするならば、貧乏人となりましたから、產業を賣りました。けれどもヨベルの年に先祖等の產業に歸る事が出來ます。一旦それを失ひました。けれども今再びそれを得る事が出來ます。然ですから優かなる暮を得て、優かなる喜を得て、神の前に息む事を得ます。
それは實に幸なる譬話であります。福音は靈のヨベルの年であります。福音を聞くことゝ、ヨベルのラッパの音を聞くことゝは同じことです。その音を聞くと同時に、全き奴隷の有樣を棄てゝ、自由を得る筈です。貧乏の有樣を棄てゝ、優なる恩を得る筈です。勞して働く有樣を棄てゝ、息む筈です。其時にイスラエル中の人々は、そのラッパを聞きました。始めてエルサレムの殿に於てラッパを吹きました。それを聞きたる四周の人は、同じくラッパを吹きました。又
詩篇八十九・十五を御覽なさい。此この『よろこびの音おと』はヨベルのラッパであります。それを知る者は幸さいはひです。或ある人はそれを聞きましても、其その意味が分わかりませんから、格別にそれに由よりて恩めぐみを得ません。けれどもそれを知る者は幸さいはひです。さういふ人は神の聖顏みかほの光の中うちに步む事が出來ます。此これは不斷たえず神の光の中うちに步むことの秘密です。私共はヨベルの年の意味が分わかりまするならば、不斷たえず神の聖顏みかほの光の中うちに步みます。
エルサレムの殿みやに於おいて始めてラッパを吹きました樣やうに、主イエスは始めてヨベルのラッパの福音を吹き給ひました(路ルカ四・十八、十九)。主は此この譬話たとへの意味を以もって福音を宣傳のべつたへ給ひました。主の喜ばしき年は何ですかならば、ヨベルの年です。ヨベルの年の靈の意味であります。又此この年に、この樣やうに貧しき者も、心の痛める者も、囚人めしうども瞽者めしひも、皆眞まことの自由を得ました。今も其そのやうな福音のヨベルの年であります。哥後コリントご六・一、二を御覽なさい。今は恩めぐみの時です、今はヨベルの年です。今は奴隷たる者も神の恩めぐみの爲ために自由を得うる事が出來ます。さうですから私共は其そのヨベルのラッパを聞きましたならば、自分もラッパを吹かねばなりません。
此この弟子は主のヨベルのラッパを吹き給うたることを聞きましたから、自分も諸方へ散じて到る處ところにラッパを吹きました。貧しき者に福音を傳へました。囚人めしうどに自由を宣べました。今は恩めぐみの日なり今は神の喜ばしき年なりと宣傳のべつたへました。さうですから太マタイ二十四・十四のやうに、全世界に喜ばしきヨベルが響きました。其そのラッパの音ねに由よりて全世界の罪人つみびとは自由を得うる筈はずです。
この十四節を御覽なさい。これは何なんですかならば、買ひし者をヨベルの年に返さねばならぬことです。そのヨベルの年が近づきました時に、貴たふとき値段を以もって物を買ひましたならば、自分の大おほいなる損であります。今同じ事を見ます。主の再臨の時に、本當の喜よろこびの年が始はじまりまする時に、何人なんぴとも世に屬つける者を返さねばなりません。今或ある人は貴たふとき價段ねだんを以もって世に屬つける者を買ひます。或あるひは財產たから或あるひは名譽、或あるひは學問或あるひは他ほかの世に屬つける者を買入かひいれます。而さうして其爲そのために神の恩めぐみを失ひます。或あるひは自分の安心も失ひます。これは實じつに貴たふとき價格ねだんを以もって、世に屬つける者を買ふ事です。實じつに愚おろかなる事です。必ず本當のヨベルの年が始まる時に、さういう者を全く歸さねばなりません。何時いつまでも保つ處ところの產業は天に屬つける產業です。神が私共に與へ給ふ產業であります。私共はそれを得ますならば滿足する筈はずです。私共はその樣やうに主と王國のことを大切に思ひますならば、私共は必ず主の再臨を待望まちのぞみます。
奴隷たる者は必ずヨベルのラッパの音ねを待望まちのぞみました。漸次だんだん其その日が近付ちかづくに從うて喜びました。オー私共の全きヨベルの年が近ちかづいて參ります。主の再臨が近ちかづいて參りました。其その時に幸さいはひに私共は全き自由を得ます。本當に天に屬つける產業を有もつ事が出來ます。羅ロマ八・二十一、二十三を御覽なさい。今私共は兎とも角かくも敗壞やぶれの奴しもべです。私共は救はれたる事を喜びます。けれども敗壞やぶれの奴しもべとして歎き悲かなしんでをります。私共は其そのヨベルの年、主の再臨を深く待望まちのぞんでおります。其その年には啻たゞに私共のみではありません。造られたる者悉ことごとく自由を得ます。鳥も獸けものも自由を得ます。木も草も自由を得ます。造られたる萬物すべてのものの詛のろひが全く取除とりのぞかれて、相互たがひに交まじはる事が出來ます。相互たがひに美うるはしき有樣ありさまのみです。其その時に此この天地の凡すべての受造物つくられしものは全く自由を得ます。哥後コリントご五・四を御覽なさい。私共は今其樣そのやうに歎いて居をります。ヨベルの年に私共の全き產業に歸る事が出來ます。手にて造られざる產業に歸ることが出來ます。其その產業に就ついて彼前ペテロぜん一・四を御覽なさい。其樣そのやうに私共の產業が天にあります。ヨベルのラッパの聞きこゆる時に、私共は早速それを有もつ事が出來ます。今でも其その產業の初はじめを戴きました。弗エペソ一・十三を御覽なさい。『業げふを嗣つぐの質かたなる約束の聖靈を以もって印いんせらる』とあります。今私共は夫程それほどの產業を得ました。初はじめの恩めぐみを戴きました。未來に於おいて其その產業を全く有もつ事が出來ます。同おなじく十四節を御覽なさい。さうですから私共は罪の爲ために賣うりました產業を贖出あがなひだして戴くまで(until the redemption of the purchased possession)、今約束の聖靈を以もって印いんせられました。賽イザヤ五十二・一〜三を御覽なさい。其樣そのやうに何をも價あたひせぬ罪の爲ために賣うりました者を、今價あたひなくして贖あがなはれます。さうですから今ヨベルのラッパを御聞きなさい。捕虜とらはれの有樣ありさまを棄てゝ、信仰を以もって美うるはしき恩めぐみの有樣ありさまをお衣きなさい。これは一〜三の意味の要點です。さうですからこの來きたるべき榮さかえのヨベルの年に於おいて、私共は全き自由を得、又產業を得る事が出來ます。
又三番目に交まじはりが出來ます。今罪の爲ために又死ぬることの爲ために、全き交まじはりが出來ません。丁度ちゃうど奴隷たる者はヨベルのラッパを聞きました時に、自分の家族に歸る事が出來ました如やうに、主の再臨の時に愛する者と全き交まじはりに入る事が出來ます。撤後テサロニケご二・一を御覽なさい。彼の許もとに集あつまることゝは一家族の集あつまることです。そんなラッパの音ねの聞きこえる時に、又一家族が集あつまって美うるはしき有樣ありさまの交まじはりが出來ます。撤前テサロニケぜん四・十七を御覽なさい。『かれらと偕ともに』。それはヨベルの年の美うるはしき全き交まじはりを指します。
又四番目に受造物つくられしものも安息を得ます。カナンの地はヨベルの年に安息を得ました。種たねが蒔まかれずして安息を得ました。其樣そのやうに主の再臨の時に受造物つくられしものは全き安息を得ます。
これは實じつに美うるはしき福音の譬話たとへばなしであります。私共は子供に、繪畫ゑを見せて物を敎ふる樣やうに、神は此この譬話たとへばなしを以もって私共に福音と又其その秘密を敎へ給ひます。何卒どうぞ本當にそれを味あぢはひなさい。又福音を說く爲ために、かういふ譬話たとへばなしは實じつに適當であります。其その味あぢはひは實じつに美うるはしう御座りますから、深くこれを味あぢはふて說敎をなさい。
今學びましたヨベルの年は、私共の經驗の上に餘程よほど利益があります。今私共はヨベルのラッパを聞きます。さうですから全く奴隷の有樣ありさまを棄てゝ、全き自由を得うる筈はずです。或ある信者はそれを信じませんから、全き自由を得て恩めぐみの產業を經驗しません。これは實じつに殘念なることです。何卒どうぞ神の約束のラッパを本當に信じて、奴隷の有樣ありさまを棄てゝ恩めぐみの產業を得て生涯を御暮くらしなさい。それに就ついて廿七節をご覧なさい。『その產業にかへることを得ん』。これはヨベルの年の有樣ありさまです。これは私共の今經驗すべき有樣ありさまです。神は私共にこの產業を與へ給ひ度たう御座りますから、今其その產業を得なさい。
| 序 | 緒 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19,20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 目次 |