十七章は血の大切なる事と、又如何して常にイスラエル人に之を記憶せしめるかを書してあります。利未記は大抵神の言葉ばかりであります。『ヱホバ、モーセに告て言たまはく』という言が到る處に錄されてあります。例令一・一;四・一;五・十四;六・一、八、十九、廿四;七・二十二、二十八;八・一(之より三章は歷史です)、十一章以下廿五章までの各章の始と、それから二十七章の始を御覽なさい。
之は深く考ふべき事であります。之を見ますれば必ず輕々しく利未記を讀む事は出來ません。又之を見ますれば全く神の默示である事が解ります。之は全く神の言であると堅く信じて讀みまするならば、實に益があります。主イエスも之が神の言であることをいひ給ひました。
此樣にイスラエル人が肉を食べました時に、常に自分の爲に流された血を紀念して、其爲に自ら救はれし者である事を覺えました。さうですから神の前に柔和である事が出來ました。さうして此肉を食る毎に酬恩祭を思うて食べました。さうですから美はしき聖き食事をなすことが出來ました。
私共は飮食の時にも、神の聖榮の爲に神の前に神と共にこれをなす事が出來ます。哥前十・三十一、西三・十七、これは同じ意味です。
此時イスラエル人は毎日神よりマナを與へられましたから、度々肉食をしませなんだでせう。けれどもカナンの國に入りて肉食をすることが出來ました。申十二・十五、十六、利十七・十一を見ますれば、何故血を食はざりしかを知ります。これは一番大切です。之に由てイエスの血が奈何に貴きかを知ることが出來ます。此血は萬民を贖ふ程の力があります。
二十圓の金貨と一錢銅貨とは同じ形と同じ大さであります。けれども一枚の金貨を以て、一錢銅貨を二千枚買ふ事が出來ます。如斯に主イエスも、私共人間と同じ形です。けれども主御自身一人にて、私共を悉皆贖ふ價値があります。
血は貴きものですから、常に皆神に歸せねばなりません。
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