燔祭は其人の全靈全生全身を献ぐる献物であります。其人全體神の所有となる式です。原語で此名の意味は「昇る献物」と云ふ事であります。壇の上に献物を置く時には其物は尚物質的です。けれども火に燒けまするならば次第に煙と焰の中に天に昇りて心靈的の者となります。羅十二・一、二の意味は、私共が己を神に献ぐるならば、心を變へて新にいたしますることを敎へます。此變へるという字は、原語でキリストの變貌の時の變貌の文字と同意味です。身も靈も神に献げまするならば、神は其人を受け納れ給ひます。さうして靈の焰を以て、其人を變へて靈に屬ける者とならしめ給ひます(哥後五・十四〜十七)。
燔祭の爲めに如何なる犧牲を用ゐますか。常に馴れたる禽獸であります。決して野生の禽獸ではありません。然ですから其犧牲を安かに壇の上に置く事が出來ます。馴れたる家畜は決して荒れ廻る事はありません。從順に導かれます。野生の禽獣は强ひませんならば、壇に導く事は出來ません。神が燔祭を献ぐる者に要め給ふ精神は此摸型にある通りです。神は決して强ふる事はなし給ひません。けれども私共は恩惠に引かれて、神の所有となりましたから、悅びて壇の上に一切を献ぐる事が出來ます。
燔祭の種類が三つあります。
一 牛の燔祭(三節)
二 羊の燔祭(十節)
三 禽の燔祭(十四節)
神は貧乏なるイスラエル人を顧み給ふて、その貧しき民にも此禮物を献げる機を與へ給ひました。夫れによりて神の恩の深き事を見ます。又其場合にも格別に式を行ふ時に、神は其式を最も大切と見給ひませずして、其人の心を最も大切として見給ひました。然れども此處に又靈の意味もあります。
信仰の淺い者でも、キリストと共に己を十字架に釘けまするならば、此貧しい民が禽をもって參りました樣に、其信仰に從ひて神の前に悅ばれる犧牲を献げる事が出來ます。然れども信仰が進みまするならば、神の前に尚價ある犧牲を献げる事が出來ます。
此燔祭によって何を學びまするかならば、私共は如何して身も魂も神に献げる事が出來ますかといふ事です。神に正しく身も靈も献げますれば、神は必ず其人を受け納れ給ふて、御自身の屬となし給ひます(申二十六・十七、十八;此處に認めてとある言は原語にて利未記一・三の「受納る」の言と同字です)。此燔祭によりて身も靈も献げる爲めに正しき方法を學びます。然ですから只献身の正しき道を學ぶ丈ではありません。又如何して神の祭司となる事が出來るかといふ事を學びます。
此處で罪のことは論ぜられてありません。燔祭を献げる者は愆祭と罪祭の爲めに、最早神の前に義とせられたる者です。私共は神に献身し度御座りまするならば、第一に罪の事を明かに始末せねばなりません。義とせられたる者のみ神に身も靈も献げて、燔祭となる事が出來ます。然れども此處でも主の贖の功績に頼りませんならば献身する事が出來ません。彼前二・五に『イエス・キリストに由て神に悅ばるゝ靈の祭物を献ぐべし』。又弗一・六に『愛する者にありて受け納れらる(accepted in the Beloved =英譯聖書)』とあります。其通りですから只キリストと共に身も靈も献げる事が出來ます。格別に此燔祭を献げる時に、血を流して(五節)其犧牲を燒き盡しました如に、私共もキリストの十字架に釘けられ、キリストと共に死なねばなりません。然ですから献身は心を探りて、私共の物を一つ一つ壇の上に置く事ではありません。献身はキリストと共に十字架に釘けられる事です。神はそのやうに私共を受け納れ、私共に活ける火を與へ、そして私共を全く變りたる者とならしめ給ひます。私共の信仰、私共の熱心の爲めに受け納れ給ふのではありません。只キリストの甦りと昇天の爲めに、キリストによりて來る者を受け納れ給ひます。献身をする爲めにキリストと一になる事は大切です。此處で燔祭を献ぐる者は、其燔祭とする犧牲の上に手を按きました(四節)。是は即ち一となる事です。此燔祭の犧牲と一となりまして、一緖に身も靈も献げて、己れに死ぬる者となり、一緖に神に受け納れらるゝ者となります。哥後五・十四をご覧なさい。『一人衆の人に代りて死たれば』、是は即ち主イエスの身代です。けれども続いて讀みますれば『衆の人すでに死たるなり』。是が則ち一となる事です。是は眞の更生です。此樣に身代によりて一となり、更生りまして眞の献身が出來るのです。
献身は只罪を悔改め、怠を償い、熱心に働くと申す樣な事ではありません。碎けたる靈を以てキリストと一になり、神にキリストを献げる事です。其爲めにキリストの功績を知らねばなりません。神は只其愛する獨子の爲めに私共を受け納れ給ひますから、キリストの榮光を悟らねばなりません。又それによりて次第に信仰が强くなります。次第に多く悟りを得ます。さうですから漸次神に貴き燔祭を献げる事が出來ます。或人はキリストに就きて卑しき信仰を以て參ります。是は禽の如な貧しい信仰です。けれども正しき眞實なる心を以て參りまするならば、神はそれを受け納れ給ひます。けれども私共は決して貧しい信仰を以て滿足してはなりません。全く主イエスの功績と主の榮光を悟りまして、イスラエル人が牛を以て燔祭を献げました如に、神に貴き犧牲を献げねばなりません。然ですから、主イエスと其十字架を深く味いまして、神の喜び給ふ所を見ねばなりません。
來十・五〜十を見ますると、主イエスは父なる神の聖旨を行はん爲めに來り給ひました。又約十・十八を見ますと、キリストは御自分の生命を捐て給ひました。是は眞の燔祭です。又約十七・十九を見ますと、私共を神に献げる爲めに、先づ自らを献げ給ひました。然ですから羅六・十一及び彼前四・一、二の通りに、私共も神に燔祭となる事が出來ます。
此燔祭を献げる時に、利一・五の如に壇の周圍に其犧牲の血を灌ぎました。然ですから神の前にも人の前にも自分は死せる者なりと表さねばなりません。哥後四・十、『常にイエスの死を身に負り』。此爲めに斷えず燔祭的生涯を送りまして、キリストの生命を彰はす事が出來ます。今迄主イエスが私共と一になり給ひし事を話しました。さうですから主が全き犧牲を献げ給ひますれば、私共が献げるのと同じ事です。夫によりて私共も聖き者、神を悅ばす者とせられます。又主イエスの義を分け與へられて、義人となります。是は私共の立脚地です。即ち私共は主イエスによりて義人となりて、神の前に立つ事が出來ました。律法の命令は如此です、「神に受け納れられる爲めに自らを義とせよ」と。然れども福音の義は「既に神に受け納れられたる故に義を行へよ」といふことです。私共は第一に明かに其立脚地を悟らねばなりません。既に主の圓滿なる犧牲の爲めに私共は聖き者となりましたから、聖き心を以て正しき行をせよ。既に主によりて神の子となりましたから、神の子たるに適ふ生涯を送れよ。神は此樣な高尚なる立脚地を私共に與へ給ひましたから、私共は之に適ふ聖き生涯を送る筈です。如何して私共は其樣な聖き生涯を送る事が出來ますか。同じ十字架によりて其力を得ます。私共は十字架によりて神の前に義人となりました。同じ十字架によりて此世の中に在りて聖き步みをする事が出來ます。私共はキリストと居りまするならば、其爲めに神の前に義人です。キリストが私共に居り給ひまするならば、私共は此世に在りて聖き生涯を送る事が出來ます。然ですから私共は犧牲的生涯を送ります。然れども私共の義の爲めに、又私共の献身の爲めに、神に受け納れられたる事は少しも有りません。最早唯主イエスの十字架の爲めに受け納れられたる者ですから、喜んで主に從うて犧牲的生涯を送ります。
然ですから此五つの犧牲は主の犧牲を指します。また私共の献ぐべき犧牲を指します。例へばキリストは私共の爲めに身も靈も献げて燔祭を献げ給ひました。全く神の前に燒き盡されて燔祭となり給ひました。私共もキリストと一になりましたならば、キリストの燔祭によりて自分も身と靈とを燔祭とします。イスラエル人は己れを献げ度御座りまする時には、牛を以て神の前に燔祭といたしました。其樣に私共は身も靈も献げ度御座りまするならば、只キリストによりてのみそれが出來ます。イスラエル人は燔祭の犧牲の頭の上に手を按いて、自分は其燔祭と一になりました事を示しました。私共も十字架にかゝり給ひし主の上に、信仰の手を伸ばして、主と一體になりて己れを燔祭といたします。其樣にして己れは全くキリストと共に十字架に釘けられ、今から我活けるは唯キリスト我にありて活けるなりといふ事の出來る、是が眞の燔祭です。夫によりて心を盡し精神を盡して神を愛する事が出來ます。夫によりて十字架を負うて、キリストに從ふ事が出來ます。何卒深く之を御感じなさい。これは最も大切です。羅十二・一のやうな處を見ますると、熱心なる人は其命令に從はねばならぬと思いまして、もがいて身も靈も献げんと務めます。肉に屬ける力によりて、一時出來た樣に思はれる事があるかも知れません。然ども間もなく無くなります。唯主の十字架の力によりて己れを献げる、是れが眞正の身も靈も献げる献身です。
丁度其通りに私共は神の前に全き素祭を献げる事が出來ます。キリストは私共の爲めに素祭を献げ給ひました。私共はキリストと一になりましたならば、私共は素祭的生涯を送る事が出來ます。
前に硏究ました如に、其樣な生涯は何ですかならば、燔祭は心を盡して神を愛することです。力を盡して人を愛し人を助ける献物です。キリストと共に十字架に釘けられまするならば、キリストの生命を頂戴しまして、キリストの如に人を愛する生涯を送る事が出來ます。此献物は至聖物です(利二・三)。私共は他人の爲めに生涯を送りまするならば、それは神の前に至聖者です。徒四・三十二〜三十五は眞の素祭です。又腓二・十七に、パウロの素祭が書いてあります。又同じ二十節には、テモテの素祭が記してあります。又三十節にはエパフロデトの素祭を見ます。又四・十八には、信者の素祭を見ます。私共は此やうな素祭的生涯を送らねばなりません。門七、これは眞の素祭でした。此兄弟の愛によりて聖徒は喜と慰を得ました。如何して其樣な素祭を献げる事が出來ますか。己れを棄てゝ他人の爲めに身も靈も献げる事です。唯主イエスの自らを献げ給ひし事によりて、十字架によりてのみ神に素祭を献げることが出來ます。太二十六・七。私共は如何して主の肢體なる信者にこのやうに馨しき香の献物を献げる事が出來ますか。信者を慰め喜ばせる事は、即ち馨しき香の献物です。唯私共が主に居り又主が私共に居り給ふならば、此樣な素祭的生涯を送る事が出來ます。
私共も第三の禮物を神に献げねばなりません。即ち酬恩祭を献げねばなりません。前に申しました如に、此禮物は神との全き交際の禮物です。此禮物を献げる時には、神も其一部分を取り給ひます。祭司も一部分を取ります。献者も一部分を取ります。互に同じ犧牲の爲めに交る事が出來ました。私共は如何して神と交る事が出來ますか。主の犧牲によりて、流されたる血の爲めに、顏と顏を合せて神と交ることができます(來十・十九)。主の酬恩祭によりて私共も酬恩祭を献げることが出來ます。又それは眞の主の前に饗應となります。イスラエル人は此酬恩祭を献げる時に、其爲めに饗應に與りました。私共も其通りに神と交る事が出來まするならば、眞に美しき交際です。イスラエル人は其犧牲の肉を食ふと共に、神に犧牲の肉と血を受け納れられる事が出來ました。其通りに主イエスは私共の爲めに酬恩祭を献げ給ふ事が出來ます。然れども私共も亦主によりて、酬恩祭を献げる筈であると思います。
此外に殘り居る二つの禮物は、即ち罪祭と愆祭です。この二つの禮物は格別に只救主のみ献げ給ふ事の出來るものです。必ず私共は自分の罪の爲めに贖をする事が出來ません。然れども主が既に其贖をなし給ひました事を見まして、自分も罪を離れて聖き生涯を送り、神に其悅び給ふ犧牲を献げる事が出來ます。彼前三・十八、四・一。私共もそのやうに、キリストの罪祭によりて罪を離れて神に聖き生涯の禮物を献げる事が出來ます。キリストは私共の罪祭となりて、私共の罪を全く除き給ひましたことを見まするならば、其爲めに聖き者となりて、犧牲的生涯を送る事が出來ます。此樣な信仰は心の武具です。既にキリストと共に死せる者なりと思ふ事は、惡魔の火箭を防ぎて自分を守る信仰の楯であります。加五・二十四、六・十四。其通りで主の罪祭によりまして、私共も十字架に釘けられて、聖き生涯を送ります。主の十字架によりて神の前に義となりました。主の十字架によりて此世に聖き生涯を送ります。腓三・十八、十九をご覧なさい。此信者は口では十字架に依賴むと申しました。然れども十字架に敵したる行をいたしました。何故ですか。主の罪祭が分らぬからです。主は死給ひました。然れども此世に死ぬる事を好みません。又主の罪祭の力を經驗いたしません。何卒此信者と異りて、主の十字架を信じ、主と共に十字架に釘けられ、死たる者として生涯を送りなさい。
最後の禮物は愆祭です。必ず私共は自分の犯せる罪の爲めに贖をしなければなりません。キリストの十字架に依るならば、其爲めに義の僕となります。羅六・二十二、二十三。私共はキリストの愆祭が分りまするならば、必ずそのやうに自分の肢體を義の僕といたします。又イスラエル人の愆祭を献ぐる時に、其隣人に其損害を償ひましたやうに、十字架が分りまする者は、必ず出來る丈け今迄の罪を償うて他人に其損害を償ふ事をいたします。既に十字架によりて恩寵を得ましたから、義を以て恩寵を以て其損害を償ひます。
此樣に私共も此犧牲を一つ一つ献げねばなりません。犧牲的生涯は此五つの犧牲を實行いたします。神に對しても人に對しても全き献物をいたします。力を盡して神を愛し、又己の如く隣人をも愛します。只キリストの十字架によりて、如此生涯を送る事が出來ます。又キリストの十字架によりて、己に死にますれば、其通り神の前に馨香の禮物を献げます。
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