第十三章  癩病に就て



 これは癩病らいびゃうの章です。すなはちこゝで生來うまれつきの罪が洗はれることがわかります。聖書において癩病は生來うまれつきの罪のたとへです。又如斯このやうたとへ度々たびたび書いてあります。しへん三十八篇を見まするならば、何處どこにでも癩病のたとへがあります。十一を御覽なさい。自分の罪を癩病のやうに感ずる者です。私共わたくしどもは罪の性質が全くわかりまするならば、如斯このやうに罪の怖るべき事を知りて、それをにくみます。しへん五十一・七を御覽なさい。これは癩病の洗潔あらひきよめらるゝことのたとへを引きて、何卒どうぞわが罪を洗ひ給へと言ふいのりです。此處こゝでダビデは自分の罪が、癩病のやうであることがわかりました。イザヤ一・五、六を御覽なさい。こゝにも癩病の譬話たとへばなしを見ます。罪人つみびとは全く癩病の如く、恐るべ病氣にかゝれる者であることを見ます。イザヤ六・五にも同じことを見ます。一節のウジヤ王は癩病でありました。けれどもイザヤはかへって自分の癩病である事を感じました。王よりも自分の方が恐るべき癩病人である事を深く感じました。イザヤ五十三・四を御覽なさい。『彼はせめられ神にうたれ』のことばがあります。これは原語では癩病人に使ふことばです。何時いつでも癩病人は如斯このやうに神よりうたれたる者といひます。すなはしゅは私共の身代みがはりとなりて、罪の癩病を受け給ひました。御自分の身に罪の癩病を受け入れ給ひました。それよりて主が十字架上私共のために受け入れ給うたる罪を悟ると思ひます。さうですから罪は癩病のやうにいまはしき者であります。私共は癩病をいまはしき者と思ふやうに、罪をいまはしき者と思はねばなりません。又癩病といふ病氣は、本當にその性質からおこる病氣です。ほかの病氣は性質からおこりませんから速く過去すぎさります。又身體からだの健康によりて速くやまひが追ひ出されます。ほかの病氣の有樣ありさま大槪たいがい其樣そのやうですけれども、癩病はその人の性質からおこる病氣です。その人の生來うまれつきの病氣です。

三  節

 そのやうに罪はたゞ表面うはべだけの事ではありません。例令たとへば罪は幾分かその有樣を變へまするならば、えるといふことは言はれません。文明を加へ敎育を施すことによりえるといふことはいはれません。これは人間の性質からおこる病氣です。この三節に記されたる如く、皮よりも深き病氣であります。けれども罪ははじめに小さき者と見えます。恰度ちゃうど癩病のやうはじめは小さき者と見えます。小さき患處くゎんじょから出ます。表面うはべでは餘りわかりません。けれどもその人の性質のうちにありまするならば、必ず漸々だんだんあしくなりて、つひその人を殺します。表面うはべでは餘りわかりませんでも、人間の性質のうちに、如斯このやうな病氣がありますから、し神の奇跡によりいやされませんならば、必ずその人を殺すやうになります。

 八節を御覽なさい。罪も必ずその通りに蔓延ひろがりて參ります。ロマ一章のやうに、罪より罪に愈々いよいよ深く進んで參ります。五節を御覽なさい。如斯このやう蔓延ひろがりませんならば、それは本當の癩病ではありません。それより自己おのれを判斷する事が出來ます。罪の癩病がありまするならば、心のうち生來うまれつきの罪が殘りてりまするならば、必ず蔓延ひろがります。けれども一時いちじやまひのやうな罪でありまするならば、必ず蔓延ひろがらずしてそのまゝとゞまります。

 癩病でありまするならば、必ず肢體からだが腐ります。この十三章は讀むことをも好みません。この癩病の說明は讀むことさへもいまはしき事です。して罪は如何にいまはしき者でせうか。マタイ十五・十九を御覽なさい。本當の癩病の結果を見ます。これは癩病の患處くゎんじょです。心のうち生來うまれつきけがれがありまするならば、必ずさういふ患處くゎんじょきて參ります。表面うはべでそのやうに腐れが見えます。又漸々だんだんその心の力を失ひます。たゞ表面うはべで見るくされのみではありません。性質のくされもあります。三節を見まするならば、『患處くゎんしょの毛もし白くなり』とあります。罪の癩病のために、人間は意志の力を失ひます。性質の力を失ひます。ロマ七章にそれを見ます。本當の力を失ひます。ホセア七・九を御覽なさい。これは漸々だんだん力のけるものゝ繪畫です。白髪しらががその身にまじって參ります。漸々だんだん性質の力を失ひます。がか五・十一を御覽なさい。これは本當に力の性質がある事を示します。癩病は必ずそんな者ではありません。弱きところがありまするならば、白い毛が出來て參ります。又癩病のため漸々だんだんその病氣を感じません。手足に患處くゎんじょがありましても、いたみを感じません。恰度ちゃうど罪のために同じ結果があります。エペソ四・十九をご覧なさい。『はぢしらず』。無感覺の者になります。自分の罪を構はずに置きます。罪のはぢわかりません。神の愛を感じません。罪の癩病はそんな者です。又癩病はいやされません。いやす事が出來ません。恰度ちゃうど罪と同じ事です。私共は如何どうして性質をいやす事が出來ませうか。如何どうして心を治す事が出來ませうか。決して人間の力、あるひは學問によりては出來ません。ロマ七・十三二十四エレミヤ十四・十九を御覽なさい。いやされる事を望みます。けれども自分の力では出來ません。其爲そのため苦痛くるしみを得ます。けれどもエレミヤ十七・九、十四を御覽なさい。心は人間の力ではいやすことは出來ません。けれども神をあふぎていやされます。エレミヤ三十・十二、十三を御覽なさい。又その反對におなじく十七を御覽なさい。何卒どうぞこの二つの事を深く感じとう御座ります。第一に罪は自然にいやさるゝことは出來ません。罪は漸々だんだんあしくなります。罪人つみびと漸々だんだん腐れて參ります。仕方がありません。のぞみがありません。漸々だんだん無感覺となりて構はずに置きます。けれども今一方いまいっぽうから見まする時に、神の力で救はるゝ事が出來ます。神の力できよめらるゝ事が出來ます。何卒どうぞこの二つの事によりて、生來うまれつきの罪の恐ろしき事と、神の完全なるめぐみの力を深く感じとう御座ります。罪は其儘そのまゝに置きまするならば、必ず死に至ります。癩病は死のはたらきはじめです。罪は恰度ちゃうど同じ事です。又地獄は同じ事です。けれども地獄は最早そのはたらきの全うせられたるところです。最早つぼみが全く開きたるものです。罪と死は性質において同じ事です。

 この十三章を見まするならば、祭司たる者は如何どうして癩病を辨別する事が出來るかをしるしてあります。その時代の祭司は深く神のことばを硏究して、癩病と思ふ者が自分のもとに參る時に、神のことばに從うてその人をさばきました。その人が癩病であるや否やを大切にさばきました。私共もほかの人々を判斷せねばなりません。私共は如何どうしてほかの人々を判斷する事が出來ますか。たゞ神の聖書ふみを硏究して、そのうちより光を得て、罪人つみびとであるや否やを判斷する事が出來ます。夫故それゆゑに祭司たる者は、深く神のことばを硏究せねばなりません。又時によりて大膽にこの人は癩病であると定めなければなりません。これは祭司の畏るべきつとめです。けれども神の前になさねばならぬ事です。私共も同じやうに、度々たびたびこの人は罪人つみびとであると判斷して、その人の聖潔きよめはからねばなりません。けれどもこの人は罪人つみびとであると定める時に、おそれつゝしみを抱かねばなりません。この十三章を見まするならば、祭司はその人を丁寧に檢査して、その有樣をさばきます。又全く定める事が出來ませんならば、四節をはりやうに、その患處くゎんじょある人を七日なぬかあひだ禁鎖とぢこめ置きてた檢査せねばなりません。又その人を見て深く思ふ事です。輕々しく定める事ではありません。何卒どうぞ輕々しく人間をさばきませずして、氣を付けてその人をさばとう御座ります。

 またさいはひに癩病人の審判者さばきては、祭司たる者です。審主さばきぬしではありません。祭司です。祭司はなにでありますかならば、癩病の聖潔きよめを助ける者です(十四章)。それを深く考へたう御座ります。もくし三章の如く、主は見透みとほほのほのやうな眼をもって、私共を檢査し給ひます。私共を判斷し給ひます。けれども主は私共がこの世にあひだは、まだ私共の審主さばきぬしでありません。私共の祭司のやうな者です。又主の祭司たる事は力あるつとめです。すなはち癩病をきよむる力をもっ給ひます。主はそんな力をもって、めぐみもって私共の癩病を指し給ひます。それをさばためではありません。むくいを與ふるためではありません。けれども癩病の祭司として、その癩病をいやために私共を檢査し給ひます。

 この章を見まするならば、或るやまひは癩病のやうでした。けれども癩病でありませずして、腫物できものでした。それを深く考へたう御座ります。この六節を見まするならば、できものでした。二十三二十八三十七三十九四十一節をも御覽なさい。癩病のやまひと見えました。けれども癩病でない者があります。如斯このやうな人は神の前にきよき者であります。できものやうな罪が出來ます。けれども性質からの罪ではありません。必ず罪は恐ろしきむべき者であります。けれどもほかの人々を判斷する時に、その人の罪は癩病の罪であるか、あるひできものの罪であるかを見なければなりません。本當に性質からおこる罪であるか、あるひ一時いちじの罪であるか、いづれかと判斷せねばなりません。ユダの罪は癩病でした。滅亡ほろびつける罪でした。ペテロの罪はできものやうな罪でした。表面うはべから見まするならば少しも違はぬかも知れません。けれども性質は全く違ひます。神はめぐみ憐憫あはれみとをもって、罪人つみびとを判斷し給ひます。神は出來るならば、罪人つみびとため申譯まをしわけを言ひ給ひたう御座ります。又神は私共を如何どうしてさばき給ひますかならば、この四節をはりにあるやうに、その患處くゎんじょある人を七日間なぬかかん閉鎖とぢこめ置き給ひます。それゆゑ其間そのあひだ蔓延ひろがりませんならば、きよき者と言ひ給ひます。けれども恐るべき事はなにですかならば、そんなできものからも癩病がおこる事です。

二 十 節

 瘍瘡はれものより癩病がおこります。それは恐ろしき事です。アダムの罪はあるひ瘍瘡はれもののやうな罪であったかも知れません。けれどもその瘍瘡はれものより癩病がおこりました。ある人はきよき者です。けれども罪を犯します。又深く悔改くいあらためませんならば、その瘍瘡はれものより癩病が生じて、けがれたる者となります。今ヨハネ五・十四を御覽なさい。いやされました。けれどもた癩病がおこる事を恐れます。た罪を犯しまするならば、癩病がおこるでせう。尚々なほなほまされるわざはひおこります。さうですから罪を犯さぬやうに氣をお付けなさい。

 この十三・二を見まするならば、癩病のはじめしるしは肉の皮のおちです。イザヤ三・九を御覽なさい。恰度ちゃうどそのやうに性質に癩病がありまするならば、必ず皮にあらはれて參ります。必ず面色かほいろにそれをあらはします。それゆゑその人を祭司のもとに携へかねばなりません。必ずその人は好みません。今罪人つみびとは主にさぐられる事を好みません。けれどもそれはめぐみと奇跡の道ですから、その人は神よりさぐりを受けねばなりません。しへん十九・十二を御覽なさい。何卒どうぞ自分の身を主に携へて、さぐられて罪の有樣を檢査せられねばなりません。ヨハネ二・二十五を御覽なさい。私共の祭司は其樣そのやうに私共の心を知り給ひます。生來うまれつきの有樣を知り給ひます。さうですから主に見て頂かねばなりません。私共は自分の心をさぐることは出來ません。ほかの兄弟は私共の心をさぐることは出來ません。祭司のをさたる主はそれをさぐりて、その有樣を悟らせ給ひます。ヘブル四・十三もくし一・十四を御覽なさい。私共は度々たびたびそんな祭司にきて、審判さばきを得なければなりません。罪を犯しまするならば、患處くゎんじょが見えまするならば、何卒どうぞ主の圓滿ゑんまんなる光のうちに主のみちびきを受けなさい。これは祭司のつとめです。主の祭司たる事を考へまする時に、主は私共の仲保なかだちであることを考へます。いのりを捧げ給ふことを考へます。けれどもそれのみではありません。祭司のつとめは癩病人をさぐる事です。今でも主のつとめは心をさぐり給ふことです。その人に本當の有樣を示し給ふことです。それは主の今のつとめです。夫故それゆゑ何卒どうぞ心を開きて主の足下あしもとき主のさぐりを得たう御座ります。

 オー愛する兄弟姊妹よ、自分の思想かんがへに從うて自分をさばきなさいますな。何卒どうぞ主の足下あしもとちかづきて、聖書の光を得て主のさばきを得なさい。祭司たる主はあなたきよき者といひ給ひますか、あるひけがれたる者といひ給ひますか。これはじつに嚴肅なることです。私共は祭司の前にさぐりを得ます。祭司は今日けふあなたきよき者と言い給ひます。あるひけがれたる者といひ給ひます。

 私共は今聖書のあきらかなる光のうちに判斷せられました。愛する兄弟姊妹よ、主はあなたむかってきよき者と言ひ給ひまするならば、感謝して信仰に堅くお立ちなさい。けれども主はあなたむかってけがれたる者といひ給ひまするならば、おそれもっすみやかに主の聖潔きよめいやしをお求めなさい。さういう事につい機會をりうかゞひませんならば、その病氣は漸々だんだんあしくなりて、つひ滅亡ほろびきます。すみやかに主の奇跡を求めて、主のあかしを聞きて、神の前にきよき者として立つことを得なさい。

 この十三章おいて、如何にして癩病をわきまへることが出來るかについあきらかにしるされてあります。一、二、三節おいある人は多分たぶん癩病人であると思ひます。けれども神はその人をさばき給ひません。四節をはりを見まするならば、『七日なぬかあひだ禁鎖とぢこめおき』とあります。うたがひがありますから、神はめぐみもっ禁鎖とぢこめおき給ひます。時によりて主はその通りに私共を禁鎖とぢこめおき給ひます。あるひは病氣を與へ、あるひほか狀態ありさまを與へ給ひて、禁鎖とぢこめおき給ふ事があります。これはめぐみです。それよりて私共の心を試み給ひます。神はいかる事に遲い者ですから、そのやう罪人つみびとを扱ひ給ひます。夫故それゆゑに私共も同じめぐみの仕方をもっほかの人々を判斷せなければなりません。しんめい十七・四を御覽なさい。容易にその人を死罪に宣告つげません。漸次だんだんそれを調べます。さうですから早く兄弟をさばくことは愼むべきことです。私共はそのやうに念を入れて兄弟をさばかねばなりません。私共は肉につける者ですから、早くその人をさばきます。何卒どうぞれいつける愛をもって、いかりに遲き心をもって、ほかの人を判斷したう御座ります。撤後テサロニケご三・十四、十五を御覽なさい。そのやうに兄弟の如くその人を取扱とりあつかひなさい。私共は時によりて輕々しく、その人はきよめられてらぬとさばくかも知れません。けれども神は其樣そのやうになし給ひません。神は審判さばきに遲う御座ります。もくし二・四、五を御覽なさい。これは本章の四節と同じ事であります。この人の心のうちに、如斯このやうな癩病のしるしが出來ました。すなはち愛を失ひました。けれども本當に癩病のしるしであるかいなやとさばく前に、その人に時を與へ給ひます。本當の癩病でありませんならば、そのことを悔改くいあらためます。あだかも癩病を禁鎖とぢこめおくやうこの人に時を與へ給ひます。神はそのやうに人間を取扱とりあつかひ給ひます。又この五節を見まするならば、祭司は一週間又一週間念を入れて、その人を調べます。六節を見まするならば、『祭司これを潔者きよきものとなすべし』。さいはひにこれは本當に生來うまれつきけがれでありません。一時いちじの罪です。一時いちじおこりたる罪ですから、きよき者となすべし。きよき者でありましても、時によりて感情が出て、生來うまれつきの癩病であるかいなやのうたがひが出ます。さうですから其樣そのやうに念を入れて、兄弟を判斷するに時をうつたう御座ります。

 又格別にこの祭司は、何によりて癩病であるか否やを判斷しますかならば、ひろがるかあるひひろがりませぬかによりてゞあります。罪の運動がとゞまりまするならば、それはだ一時的におこりたる罪です。本當に癩病のやうな生來うまれつきの罪ではありません。けれども生來うまれつきけがれですならば、必ずひろがって參ります。續いて運動して尚々なおなおあしくなります。提後テモテご二・十六、十七を御覽なさい。これは本當の癩病であります。生來うまれつきの癩病でありますならば如斯このやうです。けれどもきよき者でも時によりて罪を犯しまするならば、如何どうしませうか。ガラテヤ六・一を御覽なさい。何卒どうぞ如斯このやうな柔和をもって、自己おのれを省みて、みたまに感じてその人を判斷なさい。又その人を導きなさい。けれども、さうでありませんならば、すなは漸々だんだんひろがって參りまするならば、『その人をけがれたる者となすべし』。これは恐ろしい審判さばきです。最早もはや癩病です。夫故それゆゑその人を人間より離れしめ、神より離れしめねばなりません。

 けれども十二節のやうな癩病ですならばきよき者です。それは如何どういふ意味ですかならば、最早もはや癩病の毒はあまねひろがりました。最早もはや全くあらはれました。この上に毒が出來ません。この上に運動するところがありません。如斯このやうな人は神の前にきよき者です。その癩病のはたらきとゞまりましたならばきよき者です。癩病の結果として醜き感情があります。けれども癩病のはたらきと運動はとゞまりました。その意味はなんですかならば、自分が癩病と知りて全く神にいひあらはすものならば、その罪のはたらきとゞまるならば、神はその人をきよき者と言ひ給ひます。オーさいはひその人は罪を懺悔しますならば、又罪を悔改くいあらためまするならば、今でも前の罪の醜き結果がありましても、神はその醜き者をきよき者といひ給ひます。ロマ五・二十をご覧なさい。この癩病患者のやうに、頭より足に至るまで、全くけがれたる者です。けれども罪の增す所にはめぐみ愈增いやまさります。それによりて神のめぐみわかります。けれども尚々なおなお氣を付くべきところがあります。すなは復一度もういちど罪のはたらきが初まりまするならば、けがれたる者です。その『爛肉たゞれじゝ』の意味について、ロマ七・二十五をご覧なさい。これは爛肉たゞれじゝの意味です。ヤコブ一・二十一を御覽なさい。それは癩病のことです。癩病のはたらきがまたあらはれませぬやうに氣をお付けなさい。又その癩病のはたらき恰度ちゃうどマタイ十五・十九のやうです。

二十一節

 十八節より見まするならば、最早もはや瘍瘡はれものいやされました。けれども危險あやふき人があります。それゆゑ最早もはや自分の心がきよくなりましても、不斷たえず愼んで氣を付けねばなりません。『それ瘍瘡はれものよりおこりし癩病の患處くゎんしょたるなり』。じつに氣を付くべきところです。一度いちどきよめられたる者は、サタンのいざなひために、時によりて罪を犯すかも知れません。きよき者でありまするならば、必ず罪を憎み早くふたゝ聖潔きよめを求めます。けれどもさうでありませんならば、あるひその瘍瘡はれものから、た癩病がおこるかも知れません。ことばを換へていひまするならば、その偶然の罪よりけがれを受くるかも知れません。其爲そのために格別に罪を恐れねばなりません。

二十四、二十五節

 それも氣を付けねばなりません。罪のうちにかういふおそれがあります。罪を犯しまするならば、もとけがれたる有樣になるかも知れません。夫故それゆゑに罪を犯しまするならば、早くその罪のきよめらるゝ事を求めねばなりません。格別にこの火傷やけど』はどういふ罪を示しますかならば、慾の火あるひは心配の火です。さういふ事は火傷やけどです。夫故それゆゑきよめられたる者は、誇るところはありません。かへっ何時いつまでも愼んで氣を付けて罪を恐れねばなりません。

二十九節

 罪はおもひほかに出來ますかも知れません。本節の如くたふとところに、さかえあるところ患處くゎんじょできるかも知れません。哥後コリントご十一・三を御覽なさい。この信者は最早もはやキリストにむかふ眞實のうちに生涯をくらしました。きよき者でありました。けれどもパウロはサタンのいざなひために、けがれがおこることを恐れました。西コロサイ二・十八を御覽なさい。それゆゑに禮拜の場所でも癩病がおこることが出來ます。禮拜の場所でももう一度けがれを受くることが出來ます。テトス一・十五を御覽なさい。その心と良心ともにけがれました。たふとき所なる良心も、けがれを得ます。あたまあるひかみの所に患處くゎんじょを受くるのと同じ事です。さうですから、その人は何をせねばならぬかならば、ることです。ひげあたまかみをもらねばなりません。それはどういふ意味ですかならば、彼前ペテロぜん五・六を御覽なさい。すなは自己おのれひくくすることです。日本ではあまりさういふふうではありませんが、外國では頭をることは自己おのれひくくする意味です。神の大能の手の下に自己おのれひくくして、その全體をあらはすことです。少しも隱さずして全體を打ち明けて神に示す事です。

 彼所かしこにも漸々だんだんその患處くゎんじょ蔓延ひろがりまするならば、その人は癩病である事がわかります。けれども三十七節やうその人はきよき人でありまするならば、祭司は『その人をきよき者となすべし』。神はすみやかその人にあかしを與へ給ひます。祭司の口によりあかしを與へ給ひます。

四 十 節

 癩病のやうに見えますけれども、神の前にきよき者であります。幾分かその身に弱き所があります。夫故それゆゑその毛が落ちます。けれども癩病ではありません。今も、きよき者のうちにさういふ弱點よわみを見ます。けれどもそれは心の癩病のゆゑではないかも知れません。ガラテヤ四・十三を御覽なさい。弱きことを見ました。哥前コリントぜん二・三を御覽なさい。さういふ事は不信仰のやうに見えます。この禿頭はげあたまのやうに幾分か肉の弱きところがあります。けれども本當に肉のけがれではありません。きよき兄弟は幾分か肉につける癖が見えましても、あるひは弱き點がありましても、その人は癩病であると速く定めることは出來ません。あるひは神はきよき者といひ給ふかも知れません。

四十四〜四十六節

 本當の癩病人は如何どうせねばならぬかゞ、此處こゝしるされてあります。これはこの章の一番大切なる所です。癩病の恐ろしき有樣がこゝにあらはれてあります。その性質のうちに癩病の恐ろしきやまひがありまするならば、漸々だんだんからだの力が衰へてひたひが落ちて參ります。神の前に全くけがれたる者です。しへん三十八篇は自分の癩病がわかる者のさけびです。今その十一を御覽なさい。これは癩病人のさけびです。自分の心のいたみわかる者のさけびです。癩病人はその衣をさかねばなりません。夫故それゆゑ何人たれでもその癩病を知ることが出來ます。裂けたるころもを着てりますから、必ずさかえがありません。少しも誇るところなくして、何時いつかなしんでらねばなりません。ころもを裂くことはかなしみしるしです。ヨエル二・十三そのほかにこれを見ます。癩病人はそのやうに自分の有樣をかなしんでらねばなりません。又そのかしらおほひません。それをあらはしてります。それはその國とその時代の人々のはぢです。人々はかしらおほひます。かしらあらはすならば、全く榮光さかえを失うたることをあらはします。又その口におほいを當てゝります。すなはきよことばふことの出來ぬ意味です。その氣息いきけがれたる者です。口よりづる氣息いきけがれのおほいなる氣息いきでありますから口をおほひます。

 又『けがれたる者 けがれたる者』といひます。罪人つみびとそれを自然にいひます。そのことばよりて自然に自分のけがれたる者である事がわかることが出來ます。明白あきらかけがれたる者といひませんでも、そのことばの流れを聞きまするならば、それがわかります。ヨブ四十・四を御覽なさい。申譯まをしわけはありません。自分の癩病がわかりました。イザヤ六・五を御覽なさい。自分の癩病がわかりてけがれたる口でありますから、その口をおほはねばならぬと思ひました。ロマ三・十九を御覽なさい。自分の癩病が定められました。口をおほはねばなりません。神の前にすこし申譯まをしわけはありません。

 『えいそと住居すまゐをなすべきなり』。癩病人はえいの外にすまふべき者です。前のしへん三十八・十一やうに、ほかの人とまじはらずしてほかところに住みます。哥前コリントぜん五・五を御覽なさい。これは癩病人をえいの外に置く事です。その人は神とまじはる事は出來ません。

 『人に離れてるべし』。又人間とまじはることは出來ません。イザヤ五十九・二を御覽なさい。罪人つみびと相互たがひまじはることは出來ません。だ神につけきよき者のみが、本當に人間のまじはりを經驗します。

 えいの外に置くことについて、もくし廿二・十五マタイ廿五・卅二を御覽なさい。相互たがひに離れしめ給ひます。すなはけがれたる者を離れしめ給ひます。夫故それゆゑけがれたる者は人間とまじはることは出來ません。マタイ廿五・四十一を御覽なさい。『我を離れて』。神をも離れねばなりません。神を離れ兄弟を離れなければなりません。これは罪人つみびとの恐ろしき有樣です。今でもそれを經驗することが出來ます。未來において全き成就を見ます。けれども今この世の有樣はじつ反對さかさまになって仕舞しまひました。神のの外に追出おひいだされたる癩病人が多くありますから、癩病人のえいもあります。それゆゑ罪人つみびときよめられて癩病人のえいを離れて神のえいに參りまするならば、罪人つみびとを離れなければなりません。罪人つみびとは自分のえい本營ほんえいとしましたから、きよめられたる者はそのえいを離れて神のえいに參らねばなりません。ヘブル十三・十三を御覽なさい。神のきよえいに歸るために、癩病人のえいを離れねばなりません。これはじつさいはひなることです。神のえいに歸ることはさいはひです。けれども癩病人はきよめられたる癩病人を迫害します。そのため苦痛くるしみがあるかも知れません。迫害せられたる者はそれを省みずして、自分は癩病をきよめられて、神のえいに歸りることを感謝せねばなりません。

四十七〜五十節

 『衣服ころもに癩病の患處くゎんしょおこるあらん時は』。さうですから人間の罪のためおこる所の病氣は衣服ころもにまで及びます。人間の罪のためすべての造られたる物はけがれを得ました。今よろづの造られたる物は主の再臨をちて、その時のまったあがなひを望んでります。格別にこの衣は私共の平生へいぜい行爲おこなひと習慣を指します。これは自分の事ではありません。自分のころもの事ですから、親しき關係があります。ユダ二十三を御覽なさい。このころもといふことばは同じ意味であります。けがれたることもの如き者、すなはけがれたる癖、けがれたる習慣をにくみなさい。その反對にもくし三・四を御覽なさい。そのころもけがしません。きよき心ばかりではありません。そのおこなひも皆きよくあります。その習慣も皆きよくあります。しへん百九・十八を御覽なさい。『ころものごとくのろひをきる』。けがれたることばのろはれたるころものやうです。さういふことがおこりまするならば、あるひはそれは癩病であるかも知れません。人間の力でいやすことは出來ぬかも知れません。さういふけがれがありまするならば、それを全く燒きつくさねばなりません。五十二節を御覽なさい。『その物を火にやくべし』。そのころもを癩病のやうににくまねばなりません。例令たとへばそのけがれたる癖、そのけがれたる習慣を、癩病のやうににくまねばなりません。これは恰度ちゃうどしんめい七・二十五のやうです。偶像は癩病の用ひてる者でありますから、全くそれを燒きつくさねばなりません。金銀あるひ價値ねうちあるものがあるかも知れません。けれどもそれを燒きつくさねばなりません。しとぎゃう十九・十九、二十を御覽なさい。この人々はその書物を賣ることが出來ました。けれども癩病のいてる者ですから、全くそれを燒きつくしました。私共はそのやうに癩病のいてるものを、全く燒きつくさねばなりません。すこしもそれによりて利益を得ませずして、全くほろぼして仕舞はねばなりません。しさうしませんならば、あるひその癩病が漸々だんだんひろがりて、つひに全くあしくなるに至りませう。

 けれども癩病であるかいなやが本當にわかりませんならば、五十三、四節やうに、第一にそれを洗はねばなりません。ハガイ一・四〜六を御覽なさい。この人々はだ世につけかんがへもって、自分の安易やすらかなることばかりをはかりて働きました。さうですからじつに不滿足がありました。成効せいかうがありません。その世につける心は本當の癩病であるかいないまだ知れません。それゆゑに神は第一に悔改くいあらたむるやうに命じ給ひます。家を燒きつくわけはありません。本當の癩病であるかいなやを知りませんから、はじめにこの例話たとへばなしのことをりて、それを洗はねばなりません。悔改くいあらためて惡いところを捨てゝ、これから神のために生涯をくらつもりを致さねばなりません。もう一度その洗ひたる者のうちに、世につけかんがへおこりまするならば、全くその家又はさういう事を燒きつくさねばなりません。この五十五節のやうにけがれたるところ蔓延ひろがりて參りまするならば、それは癩病でありますから、全くそれを燒きつくさねばなりません。仕方がありません。それを燒きつくしませんならば、漸次だんだん蔓延ひろがりてつひその人全體をけがしますから、それを燒きつくさねばなりません。マタイ五・二十九、三十を御覽なさい。夫故それゆゑに右の眼又は右の手に癩病がおこりまするならば、全くそれを棄てる方がよろしう御座ります。火に燒きつくさねばなりません。この五十七節に『再發なり』とのことばがあります。全くその物を燒きつくさねばなりません。オー其樣そのやうに罪の癩病を恐れなさい。度々たびたび同じ罪がおこりまするならば、斷然そのけがれたるところを火にてお燒きなさい。けれども五十八節に、『あらふところの衣服ころも……の患處くゎんしょぬけさらば云々うんぬん』とあります。本當に悔改くいあらためたるのちに、その病氣がおこりませんならば、きよき者となりましたから、そのまゝで神のためつくすことが出來ます。



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