これは癩病の章です。即ちこゝで生來の罪が洗はれることが分ります。聖書に於て癩病は生來の罪の譬です。又如斯な譬が度々書いてあります。詩三十八篇を見まするならば、何處にでも癩病の譬があります。五、七、十一を御覽なさい。自分の罪を癩病のやうに感ずる者です。私共は罪の性質が全く解りまするならば、如斯に罪の怖るべき事を知りて、それを惡みます。詩五十一・七を御覽なさい。これは癩病の洗潔めらるゝことの譬を引きて、何卒我罪を洗ひ給へと言ふ祈です。此處でダビデは自分の罪が、癩病のやうであることが分りました。賽一・五、六を御覽なさい。こゝにも癩病の譬話を見ます。罪人は全く癩病の如く、恐るべ病氣に罹れる者であることを見ます。賽六・五にも同じことを見ます。一節のウジヤ王は癩病でありました。けれどもイザヤは却て自分の癩病である事を感じました。王よりも自分の方が恐るべき癩病人である事を深く感じました。賽五十三・四を御覽なさい。『彼はせめられ神にうたれ』の言があります。これは原語では癩病人に使ふ言です。何時でも癩病人は如斯に神よりうたれたる者といひます。即ち主は私共の身代となりて、罪の癩病を受け給ひました。御自分の身に罪の癩病を受け入れ給ひました。夫に由て主が十字架上私共の爲に受け入れ給うたる罪を悟ると思ひます。さうですから罪は癩病のやうに忌はしき者であります。私共は癩病を忌はしき者と思ふ樣に、罪を忌はしき者と思はねばなりません。又癩病といふ病氣は、本當に其性質から起る病氣です。他の病氣は性質から起りませんから速く過去ります。又身體の健康に由て速く病が追ひ出されます。他の病氣の有樣は大槪其樣ですけれども、癩病は其人の性質から起る病氣です。其人の生來の病氣です。
そのやうに罪は只表面だけの事ではありません。例令罪は幾分か其有樣を變へまするならば、癒えるといふことは言はれません。文明を加へ敎育を施すことに由て癒えるといふことはいはれません。これは人間の性質から起る病氣です。此三節に記されたる如く、皮よりも深き病氣であります。けれども罪は始に小さき者と見えます。恰度癩病の如に始は小さき者と見えます。小さき患處から出ます。表面では餘り分りません。けれども其人の性質の中にありまするならば、必ず漸々惡くなりて、竟に其人を殺します。表面では餘り分りませんでも、人間の性質の中に、如斯な病氣がありますから、若し神の奇跡に由て癒されませんならば、必ず其人を殺すやうになります。
八節を御覽なさい。罪も必ずその通りに蔓延りて參ります。羅一章のやうに、罪より罪に愈々深く進んで參ります。五節を御覽なさい。如斯に蔓延りませんならば、それは本當の癩病ではありません。夫に由て自己を判斷する事が出來ます。罪の癩病がありまするならば、心の中に生來の罪が殘りて居りまするならば、必ず蔓延ります。けれども一時の病のやうな罪でありまするならば、必ず蔓延らずしてその儘に止ります。
癩病でありまするならば、必ず肢體が腐ります。この十三章は讀むことをも好みません。この癩病の說明は讀むことさへも忌はしき事です。况して罪は如何に忌はしき者でせうか。太十五・十九を御覽なさい。本當の癩病の結果を見ます。これは癩病の患處です。心の中に生來の汚れがありまするならば、必ずさういふ患處が生きて參ります。表面でその如に腐れが見えます。又漸々その心の力を失ひます。只表面で見る腐のみではありません。性質の腐もあります。三節を見まするならば、『患處の毛もし白くなり』とあります。罪の癩病の爲に、人間は意志の力を失ひます。性質の力を失ひます。羅七章にそれを見ます。本當の力を失ひます。何七・九を御覽なさい。これは漸々力の脫けるものゝ繪畫です。白髪がその身に雜って參ります。漸々性質の力を失ひます。歌五・十一を御覽なさい。これは本當に力の性質がある事を示します。癩病は必ずそんな者ではありません。弱き處がありまするならば、白い毛が出來て參ります。又癩病の爲に漸々その病氣を感じません。手足に患處がありましても、痛を感じません。恰度罪の爲に同じ結果があります。弗四・十九をご覧なさい。『恥を知ず』。無感覺の者になります。自分の罪を構はずに置きます。罪の耻が解りません。神の愛を感じません。罪の癩病はそんな者です。又癩病は癒されません。癒す事が出來ません。恰度罪と同じ事です。私共は如何して性質を癒す事が出來ませうか。如何して心を治す事が出來ませうか。決して人間の力、或は學問に由ては出來ません。羅七・十三、二十四、耶十四・十九を御覽なさい。癒される事を望みます。けれども自分の力では出來ません。其爲に苦痛を得ます。けれども耶十七・九、十四を御覽なさい。心は人間の力では癒すことは出來ません。けれども神を仰ぎて癒されます。耶三十・十二、十三を御覽なさい。又其反對に同十七を御覽なさい。何卒この二つの事を深く感じ度御座ります。第一に罪は自然に癒さるゝことは出來ません。罪は漸々惡くなります。罪人は漸々腐れて參ります。仕方がありません。望がありません。漸々無感覺となりて構はずに置きます。けれども今一方から見まする時に、神の力で救はるゝ事が出來ます。神の力で潔めらるゝ事が出來ます。何卒この二つの事に由て、生來の罪の恐ろしき事と、神の完全なる惠の力を深く感じ度御座ります。罪は其儘に置きまするならば、必ず死に至ります。癩病は死の働の始です。罪は恰度同じ事です。又地獄は同じ事です。けれども地獄は最早その働の全うせられたる處です。最早莟が全く開きたるものです。罪と死は性質に於て同じ事です。
此十三章を見まするならば、祭司たる者は如何して癩病を辨別する事が出來るかを錄してあります。其時代の祭司は深く神の言を硏究して、癩病と思ふ者が自分の許に參る時に、神の言に從うて其人を審きました。其人が癩病であるや否やを大切に審きました。私共も他の人々を判斷せねばなりません。私共は如何して他の人々を判斷する事が出來ますか。只神の聖書を硏究して、其中より光を得て、罪人であるや否やを判斷する事が出來ます。夫故に祭司たる者は、深く神の言を硏究せねばなりません。又時に由て大膽にこの人は癩病であると定めなければなりません。これは祭司の畏るべき務です。けれども神の前になさねばならぬ事です。私共も同じやうに、度々此人は罪人であると判斷して、その人の聖潔を圖らねばなりません。けれども此人は罪人であると定める時に、畏と愼を抱かねばなりません。此十三章を見まするならば、祭司はその人を丁寧に檢査して、其有樣を審きます。又全く定める事が出來ませんならば、四節の終の如に、その患處ある人を七日の間禁鎖置きて復た檢査せねばなりません。又其人を見て深く思ふ事です。輕々しく定める事ではありません。何卒輕々しく人間を審きませずして、氣を付けて其人を審き度御座ります。
また幸に癩病人の審判者は、祭司たる者です。審主ではありません。祭司です。祭司は何でありますかならば、癩病の聖潔を助ける者です(十四章)。それを深く考へ度御座ります。默一、二、三章の如く、主は見透す熖のやうな眼を以て、私共を檢査し給ひます。私共を判斷し給ひます。けれども主は私共が此世に在る間は、まだ私共の審主でありません。私共の祭司のやうな者です。又主の祭司たる事は力ある務です。即ち癩病を潔むる力を以て居給ひます。主はそんな力を以て、恩を以て私共の癩病を指し給ひます。それを審く爲ではありません。報を與ふる爲ではありません。けれども癩病の祭司として、其癩病を癒す爲に私共を檢査し給ひます。
此章を見まするならば、或る病は癩病の如でした。けれども癩病でありませずして、只だ腫物でした。それを深く考へ度御座ります。この六節を見まするならば、只だ癬でした。二十三、二十八、三十七、三十九、四十一節をも御覽なさい。癩病の病と見えました。けれども癩病でない者があります。如斯な人は神の前に潔き者であります。癬の如な罪が出來ます。けれども性質からの罪ではありません。必ず罪は恐ろしき忌むべき者であります。けれども他の人々を判斷する時に、其人の罪は癩病の罪であるか、或は癬の罪であるかを見なければなりません。本當に性質から起る罪であるか、或は一時の罪であるか、孰れかと判斷せねばなりません。ユダの罪は癩病でした。滅亡に屬る罪でした。ペテロの罪は只だ癬の如な罪でした。表面から見まするならば少しも違はぬかも知れません。けれども性質は全く違ひます。神は恩と憐憫とを以て、罪人を判斷し給ひます。神は出來るならば、罪人の爲に申譯を言ひ給ひ度御座ります。又神は私共を如何して審き給ひますかならば、此四節の終にある如に、其患處ある人を七日間閉鎖置き給ひます。それ故其間に蔓延りませんならば、潔き者と言ひ給ひます。けれども恐るべき事は何ですかならば、そんな癬からも癩病が起る事です。
瘍瘡より癩病が起ります。それは恐ろしき事です。アダムの罪は或は瘍瘡のやうな罪であったかも知れません。けれども其瘍瘡より癩病が起りました。或人は潔き者です。けれども罪を犯します。又深く悔改めませんならば、其瘍瘡より癩病が生じて、汚れたる者となります。今約五・十四を御覽なさい。癒されました。けれども復た癩病が起る事を恐れます。復た罪を犯しまするならば、癩病が起るでせう。尚々優れる禍が起ります。然ですから罪を犯さぬ樣に氣をお付けなさい。
この十三・二を見まするならば、癩病の初の徵は肉の皮の落です。賽三・九を御覽なさい。恰度その樣に性質に癩病がありまするならば、必ず皮に顯はれて參ります。必ず面色にそれを顯はします。それ故に其人を祭司の許に携へ行かねばなりません。必ず其人は好みません。今罪人は主に捜られる事を好みません。けれどもそれは恩と奇跡の道ですから、その人は神より捜りを受けねばなりません。詩十九・十二を御覽なさい。何卒自分の身を主に携へて、捜られて罪の有樣を檢査せられねばなりません。約二・二十五を御覽なさい。私共の祭司は其樣に私共の心を知り給ひます。生來の有樣を知り給ひます。さうですから主に見て頂かねばなりません。私共は自分の心を捜ることは出來ません。他の兄弟は私共の心を捜ることは出來ません。祭司の長たる主はそれを捜りて、其有樣を悟らせ給ひます。來四・十三、默一・十四を御覽なさい。私共は度々そんな祭司に往きて、審判を得なければなりません。罪を犯しまするならば、患處が見えまするならば、何卒主の圓滿なる光の中に主の導を受けなさい。これは祭司の務です。主の祭司たる事を考へまする時に、主は私共の仲保であることを考へます。祈を捧げ給ふことを考へます。けれどもそれのみではありません。祭司の務は癩病人を捜る事です。今でも主の務は心を捜り給ふことです。其人に本當の有樣を示し給ふことです。それは主の今の務です。夫故に何卒心を開きて主の足下に往き主の捜を得度御座ります。
オー愛する兄弟姊妹よ、自分の思想に從うて自分を審きなさいますな。何卒主の足下に近きて、聖書の光を得て主の審を得なさい。祭司たる主は汝を聖き者といひ給ひますか、或は汚れたる者といひ給ひますか。これは實に嚴肅なることです。私共は祭司の前に捜を得ます。祭司は今日汝を聖き者と言い給ひます。或は汚れたる者といひ給ひます。
私共は今聖書の明かなる光の中に判斷せられました。愛する兄弟姊妹よ、主は汝に向って聖き者と言ひ給ひまするならば、感謝して信仰に堅くお立ちなさい。けれども主は汝に向って汚れたる者といひ給ひまするならば、恐を以て速に主の聖潔と癒をお求めなさい。さういう事に就て機會を伺ひませんならば、其病氣は漸々惡くなりて、竟に滅亡に往きます。速に主の奇跡を求めて、主の證を聞きて、神の前に聖き者として立つことを得なさい。
此十三章に於て、如何にして癩病を辨へることが出來るかに就て明かに錄されてあります。一、二、三節に於て或人は多分癩病人であると思ひます。けれども神はその人を審き給ひません。四節の終を見まするならば、『七日の間禁鎖おき』とあります。疑がありますから、神は恩を以て禁鎖おき給ひます。時に由て主はその通りに私共を禁鎖おき給ひます。或は病氣を與へ、或は他の狀態を與へ給ひて、禁鎖おき給ふ事があります。これは恩です。夫に由て私共の心を試み給ひます。神は怒る事に遲い者ですから、その樣に罪人を扱ひ給ひます。夫故に私共も同じ恩の仕方を以て他の人々を判斷せなければなりません。申十七・四を御覽なさい。容易にその人を死罪に宣告ません。漸次それを調べます。さうですから早く兄弟を審くことは愼むべきことです。私共はその樣に念を入れて兄弟を審かねばなりません。私共は肉に屬る者ですから、早く其人を審きます。何卒靈に屬る愛を以て、怒に遲き心を以て、他の人を判斷し度御座ります。撤後三・十四、十五を御覽なさい。その樣に兄弟の如くその人を取扱ひなさい。私共は時に由て輕々しく、其人は潔められて居らぬと審くかも知れません。けれども神は其樣になし給ひません。神は審判に遲う御座ります。默二・四、五を御覽なさい。これは本章の四節と同じ事であります。この人の心の中に、如斯な癩病の徵が出來ました。即ち愛を失ひました。けれども本當に癩病の徵であるか否やと審く前に、其人に時を與へ給ひます。本當の癩病でありませんならば、そのことを悔改めます。恰も癩病を禁鎖おく樣に此人に時を與へ給ひます。神はその樣に人間を取扱ひ給ひます。又此五節を見まするならば、祭司は一週間又一週間念を入れて、その人を調べます。六節を見まするならば、『祭司これを潔者となすべし』。幸にこれは本當に生來の汚れでありません。一時の罪です。一時起りたる罪ですから、潔き者となすべし。潔き者でありましても、時に由て感情が出て、生來の癩病であるか否やの疑が出ます。さうですから其樣に念を入れて、兄弟を判斷するに時を遷し度御座ります。
又格別に此祭司は、何に由て癩病であるか否やを判斷しますかならば、擴るか或は擴りませぬかに由てゞあります。罪の運動が止りまするならば、それは只だ一時的に起りたる罪です。本當に癩病のやうな生來の罪ではありません。けれども生來の汚れですならば、必ず擴って參ります。續いて運動して尚々惡
けれども十二節のやうな癩病ですならば潔きよき者です。それは如何どういふ意味ですかならば、最早もはや癩病の毒は普あまねく擴ひろがりました。最早もはや全く顯あらはれました。此この上に毒が出來ません。此この上に運動する處ところがありません。如斯このやうな人は神の前に潔きよき者です。其その癩病の働はたらきは止とゞまりましたならば潔きよき者です。癩病の結果として醜き感情があります。けれども癩病の働はたらきと運動は止とゞまりました。其その意味は何なんですかならば、自分が癩病と知りて全く神に認いひあらはすものならば、其その罪の働はたらきが止とゞまるならば、神はその人を潔きよき者と言ひ給ひます。オー幸さいはひに其その人は罪を懺悔しますならば、又罪を悔改くいあらためまするならば、今でも前の罪の醜き結果がありましても、神はその醜き者を潔きよき者といひ給ひます。羅ロマ五・二十をご覧なさい。この癩病患者の如やうに、頭より足に至るまで、全く汚けがれたる者です。けれども罪の增す所には恩めぐみも愈增いやまさります。それに由よりて神の恩めぐみが分わかります。けれども尚々なおなお氣を付くべき處ところがあります。即すなはち復一度もういちど罪の働はたらきが初まりまするならば、汚けがれたる者です。その『爛肉たゞれじゝ』の意味に就ついて、羅ロマ七・二十五をご覧なさい。これは爛肉たゞれじゝの意味です。雅ヤコブ一・二十一を御覽なさい。それは癩病のことです。癩病の働はたらきがまた顯あらはれませぬ樣やうに氣をお付けなさい。又その癩病の働はたらきは恰度ちゃうど太マタイ十五・十九のやうです。
十八節より見まするならば、最早もはや瘍瘡はれものが癒いやされました。けれども危險あやふき人があります。それ故ゆゑに最早もはや自分の心が潔きよくなりましても、不斷たえず愼んで氣を付けねばなりません。『其それは瘍瘡はれものより起おこりし癩病の患處くゎんしょたるなり』。實じつに氣を付くべき處ところです。一度いちど潔きよめられたる者は、サタンの誘いざなひの爲ために、時に由よりて罪を犯すかも知れません。潔きよき者でありまするならば、必ず罪を憎み早く復ふたゝび聖潔きよめを求めます。けれどもさうでありませんならば、或あるひは其その瘍瘡はれものから、復また癩病が起おこるかも知れません。言ことばを換へていひまするならば、其その偶然の罪より復また汚けがれを受くるかも知れません。其爲そのために格別に罪を恐れねばなりません。
それも氣を付けねばなりません。罪の中うちにかういふ恐おそれがあります。罪を犯しまするならば、復また素もとの汚けがれたる有樣になるかも知れません。夫故それゆゑに罪を犯しまするならば、早く其その罪の潔きよめらるゝ事を求めねばなりません。格別に此この『火傷やけど』はどういふ罪を示しますかならば、慾の火或あるひは心配の火です。さういふ事は火傷やけどです。夫故それゆゑに潔きよめられたる者は、誇る處ところはありません。却かへって何時いつまでも愼んで氣を付けて罪を恐れねばなりません。
罪は思おもひの外ほかに出來ますかも知れません。本節の如く貴たふとき處ところに、榮さかえある處ところに患處くゎんじょが生できるかも知れません。哥後コリントご十一・三を御覽なさい。この信者は最早もはやキリストに向むかふ眞實の中うちに生涯を暮くらしました。潔きよき者でありました。けれどもパウロはサタンの誘いざなひの爲ために、汚けがれが起おこることを恐れました。西コロサイ二・十八を御覽なさい。それ故ゆゑに禮拜の場所でも癩病が起おこることが出來ます。禮拜の場所でももう一度汚けがれを受くることが出來ます。多テトス一・十五を御覽なさい。其その心と良心ともに汚けがれました。貴たふとき所なる良心も、汚けがれを得ます。頭あたま或あるひは髪かみの所に患處くゎんじょを受くるのと同じ事です。然さうですから、その人は何をせねばならぬかならば、剃そることです。鬚ひげ、頭あたまの髪かみをも剃そらねばなりません。それはどういふ意味ですかならば、彼前ペテロぜん五・六を御覽なさい。即すなはち自己おのれを卑ひくくすることです。日本では餘あまりさういふ風ふうではありませんが、外國では頭を剃そることは自己おのれを卑ひくくする意味です。神の大能の手の下に自己おのれを卑ひくくして、其その全體を顯あらはすことです。少しも隱さずして全體を打ち明けて神に示す事です。
彼所かしこにも漸々だんだん其その患處くゎんじょが蔓延ひろがりまするならば、其その人は癩病である事が分わかります。けれども三十七節の如やうに其その人は潔きよき人でありまするならば、祭司は『その人を潔きよき者となすべし』。神は速すみやかに其その人に證あかしを與へ給ひます。祭司の口に由よりて證あかしを與へ給ひます。
癩病の如やうに見えますけれども、神の前に潔きよき者であります。幾分か其その身に弱き所があります。夫故それゆゑに其その毛が落ちます。けれども癩病ではありません。今も、潔きよき者の中うちにさういふ弱點よわみを見ます。けれどもそれは心の癩病の故ゆゑではないかも知れません。加ガラテヤ四・十三を御覽なさい。弱きことを見ました。哥前コリントぜん二・三を御覽なさい。さういふ事は不信仰のやうに見えます。この禿頭はげあたまのやうに幾分か肉の弱き處ところがあります。けれども本當に肉の汚けがれではありません。潔きよき兄弟は幾分か肉に屬つける癖が見えましても、或あるひは弱き點がありましても、その人は癩病であると速く定めることは出來ません。或あるひは神は潔きよき者といひ給ふかも知れません。
本當の癩病人は如何どうせねばならぬかゞ、此處こゝに錄しるされてあります。これは此この章の一番大切なる所です。癩病の恐ろしき有樣がこゝに顯あらはれてあります。その性質の中うちに癩病の恐ろしき病やまひがありまするならば、漸々だんだん身からだの力が衰へて額ひたひが落ちて參ります。神の前に全く汚けがれたる者です。詩しへん三十八篇は自分の癩病が分わかる者の叫さけびです。今其その三、五、七、十一を御覽なさい。これは癩病人の叫さけびです。自分の心の痛いたみが解わかる者の叫さけびです。癩病人は其その衣を裂さかねばなりません。夫故それゆゑに何人たれでもその癩病を知ることが出來ます。裂けたる衣ころもを着て居をりますから、必ず榮さかえがありません。少しも誇る處ところなくして、何時いつも悲かなしんで居をらねばなりません。衣ころもを裂くことは悲かなしみの徵しるしです。耳ヨエル二・十三その他ほかにこれを見ます。癩病人はその樣やうに自分の有樣を悲かなしんで居をらねばなりません。又其その頭かしらを蔽おほひません。それを露あらはして居をります。それは其その國と其その時代の人々の耻はぢです。人々は頭かしらを蔽おほひます。頭かしらを露あらはすならば、全く榮光さかえを失うたることを顯あらはします。又其その口に葢おほいを當てゝ居をります。即すなはち潔きよき言ことばを發いふことの出來ぬ意味です。その氣息いきも汚けがれたる者です。口より出いづる氣息いきも汚けがれの大おほいなる氣息いきでありますから口を蔽おほひます。
又『汚けがれたる者 汚けがれたる者』といひます。罪人つみびとは夫それを自然にいひます。その言ことばに由よりて自然に自分の汚けがれたる者である事が分わかることが出來ます。明白あきらかに汚けがれたる者といひませんでも、其その言ことばの流れを聞きまするならば、それが分わかります。伯ヨブ四十・四を御覽なさい。申譯まをしわけはありません。自分の癩病が分わかりました。賽イザヤ六・五を御覽なさい。自分の癩病が分わかりて汚けがれたる口でありますから、その口を蔽おほはねばならぬと思ひました。羅ロマ三・十九を御覽なさい。自分の癩病が定められました。口を蓋おほはねばなりません。神の前に毫すこしも申譯まをしわけはありません。
『營えいの外そとに住居すまゐをなすべきなり』。癩病人は營えいの外に住すまふべき者です。前の詩しへん三十八・十一の如やうに、他ほかの人と交まじはらずして別ほかの處ところに住みます。哥前コリントぜん五・五を御覽なさい。これは癩病人を營えいの外に置く事です。その人は神と交まじはる事は出來ません。
『人に離れて居をるべし』。又人間と交まじはることは出來ません。賽イザヤ五十九・二を御覽なさい。罪人つみびとは相互たがひに交まじはることは出來ません。只ただ神に屬つける潔きよき者のみが、本當に人間の交まじはりを經驗します。
營えいの外に置くことに就ついて、默もくし廿二・十五、太マタイ廿五・卅二を御覽なさい。相互たがひに離れしめ給ひます。即すなはち汚けがれたる者を離れしめ給ひます。夫故それゆゑに汚けがれたる者は人間と交まじはることは出來ません。太マタイ廿五・四十一を御覽なさい。『我を離れて』。神をも離れねばなりません。神を離れ兄弟を離れなければなりません。これは罪人つみびとの恐ろしき有樣です。今でもそれを經驗することが出來ます。未來に於おいて全き成就を見ます。けれども今此この世の有樣は實じつに反對さかさまになって仕舞しまひました。神の營の外に追出おひいだされたる癩病人が多くありますから、癩病人の營えいもあります。それ故ゆゑに罪人つみびとは潔きよめられて癩病人の營えいを離れて神の營えいに參りまするならば、罪人つみびとを離れなければなりません。罪人つみびとは自分の營えいを本營ほんえいとしましたから、潔きよめられたる者はその營えいを離れて神の營えいに參らねばなりません。來ヘブル十三・十三を御覽なさい。神の聖きよき營えいに歸る爲ために、癩病人の營えいを離れねばなりません。これは實じつに幸さいはひなることです。神の營えいに歸ることは幸さいはひです。けれども癩病人は潔きよめられたる癩病人を迫害します。その爲ために苦痛くるしみがあるかも知れません。迫害せられたる者はそれを省みずして、自分は癩病を潔きよめられて、神の營えいに歸り得うることを感謝せねばなりません。
『衣服ころもに癩病の患處くゎんしょ起おこるあらん時は』。さうですから人間の罪の爲ために起おこる所の病氣は衣服ころもにまで及びます。人間の罪の爲ために凡すべての造られたる物は汚けがれを得ました。今萬よろづの造られたる物は主の再臨を俟まちて、其その時の完まったき贖あがなひを望んで居をります。格別に此この衣は私共の平生へいぜいの行爲おこなひと習慣を指します。これは自分の事ではありません。自分の衣ころもの事ですから、親しき關係があります。猶ユダ二十三を御覽なさい。この衣ころもといふ言ことばは同じ意味であります。汚けがれたる衣こともの如き者、即すなはち汚けがれたる癖、汚けがれたる習慣を惡にくみなさい。その反對に默もくし三・四を御覽なさい。その衣ころもを汚けがしません。潔きよき心ばかりではありません。其その行おこなひも皆潔きよくあります。其その習慣も皆潔きよくあります。詩しへん百九・十八を御覽なさい。『ころものごとく詛のろひをきる』。汚けがれたる言ことばは詛のろはれたる衣ころものやうです。然さういふことが起おこりまするならば、或あるひはそれは癩病であるかも知れません。人間の力で癒いやすことは出來ぬかも知れません。さういふ汚けがれがありまするならば、それを全く燒き盡つくさねばなりません。五十二節を御覽なさい。『その物を火に燒やくべし』。その衣ころもを癩病のやうに惡にくまねばなりません。例令たとへば其その汚けがれたる癖、其その汚けがれたる習慣を、癩病のやうに惡にくまねばなりません。これは恰度ちゃうど申しんめい七・二十五のやうです。偶像は癩病の用ひて居をる者でありますから、全くそれを燒き盡つくさねばなりません。金銀或あるひは價値ねうちあるものがあるかも知れません。けれどもそれを燒き盡つくさねばなりません。徒しとぎゃう十九・十九、二十を御覽なさい。この人々はその書物を賣ることが出來ました。けれども癩病の屬ついて居をる者ですから、全くそれを燒き盡つくしました。私共はその樣やうに癩病の屬ついて居をるものを、全く燒き盡つくさねばなりません。毫すこしもそれに由よりて利益を得ませずして、全く亡ほろぼして仕舞はねばなりません。若もしさうしませんならば、或あるひは其その癩病が漸々だんだん擴ひろがりて、竟つひに全く惡あしくなるに至りませう。
けれども癩病であるか否いなやが本當に分わかりませんならば、五十三、四節の如やうに、第一にそれを洗はねばなりません。基ハガイ一・四〜六を御覽なさい。此この人々は只ただ世に屬つける考かんがへを以もって、自分の安易やすらかなることばかりを謀はかりて働きました。さうですから實じつに不滿足がありました。成効せいかうがありません。其その世に屬つける心は本當の癩病であるか否いなや未いまだ知れません。それ故ゆゑに神は第一に悔改くいあらたむる樣やうに命じ給ひます。家を燒き盡つくす譯わけはありません。本當の癩病であるか否いなやを知りませんから、初はじめにこの例話たとへばなしのことを藉かりて、それを洗はねばなりません。悔改くいあらためて惡い處ところを捨てゝ、これから神の爲ために生涯を暮くらす積つもりを致さねばなりません。もう一度その洗ひたる者の中うちに、世に屬つける考かんがへが起おこりまするならば、全く其その家又はさういう事を燒き盡つくさねばなりません。此この五十五節のやうに汚けがれたる處ところが蔓延ひろがりて參りまするならば、それは癩病でありますから、全くそれを燒き盡つくさねばなりません。仕方がありません。それを燒き盡つくしませんならば、漸次だんだん蔓延ひろがりて竟つひに其その人全體を汚けがしますから、それを燒き盡つくさねばなりません。太マタイ五・二十九、三十を御覽なさい。夫故それゆゑに右の眼又は右の手に癩病が起おこりまするならば、全くそれを棄てる方が宜よろしう御座ります。火に燒き盡つくさねばなりません。此この五十七節に『再發なり』との言ことばがあります。全くその物を燒き盡つくさねばなりません。オー其樣そのやうに罪の癩病を恐れなさい。度々たびたび同じ罪が起おこりまするならば、斷然其その汚けがれたる處ところを火にてお燒きなさい。けれども五十八節に、『濯あらふところの衣服ころも……の患處くゎんしょ脫ぬけさらば云々うんぬん』とあります。本當に悔改くいあらためたる後のちに、其その病氣が起おこりませんならば、潔きよき者となりましたから、その儘まゝで神の爲ために盡つくすことが出來ます。
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