今より神は明に罪の事を敎へ給ひます。十章に於て神を拜む時に罪を犯す事、十一章に於て受造物の中に罪がある事、十二章に於て人間は生來より汚れたる者なる事、十三章と十四章に於て人間の生來の汚れ、十五章に於て人間は汚れの泉である事を敎へられました。漸々深く罪の恐るべき事、罪の汚れを敎へ給ひました。今十六章に於て全き贖罪を敎へ給ひます。罪は神の前に如斯に恐るべき者であります。けれども罪の爲に全き贖があります。罪人は如斯に汚れたる者、汚れの泉であります。けれども聖血の力に由て、人間は聖なる神に近く事が出來ます。
イスラエル人は羔の血に由て、エジプトの國より救はれました。私共は第一にそれを學ばねばなりません。即ち羔の血の力を學ばねばなりません。
次に此十六章に於て、奈何して神との交を續くる事が出來るかを敎へられます。即ち聖血の爲に、續いて神と交りて神の屬となる事が出來ます。此十六章の血の爲に、イスラエル人は續いて神の屬といはれました。罪がありましても、續いて神と交る事が出來ました。信者は生更りたる時に、格別に聖血の力が解りました。聖血の爲に救を得ました。けれども生涯の終まで續いて聖血の力がなければなりません。如何なる深き經驗がありましても、聖血に由りませんならば、續いて神と交る事は出來ません。神はイスラエル人の眞中に宿り給ひました。イスラエル人は度々罪を犯しました。度々不信仰がありました。けれども聖なる神は、其中に宿り給ひました。それは何の爲ですかならば、流されたる聖血の爲であります。只だ其聖血に由て、聖なる神はイスラエル人の中に宿り給ふ事が出來ました。私共は如斯に聖血の力を經驗せなければなりません。
出十二章は、聖書中一番大切なる章であるとムーデー氏は申しました。即ちそれは踰越の章であります。けれどもそれと均しく大切なるは、利十六章であります。この二つの章は共に血の力を示しますから、聖書の中に極めて大切なる章であります。
イスラエル人は毎年この二つの節を大切に行ひました。即ち踰越の節と贖の日の節であります。毎年エジプトの國より救はれたる事を紀念しました。又毎年贖の日に於て、聖血の力に由て續いて神と交る事が出來る事を紀念しました。信者は不斷心の中に二つの節を祝はなければなりません。不斷心の中に聖血に由て救はれたる事と、聖血の爲に續いて神に居り、又神が信者の中に居給ふ事を紀念せなければなりません。
格別に
私共は此この十六章に由よりて、如何どうして神に近ちかづいて、神と親しく交まじはる事が出來るかといふ事を學びます。
『贖罪所しょくざいしょ』。こゝは神の寳位みくらゐであります。イスラエル人びとの眞中まんなかに在いまし給ふ神の寳位みくらゐであります。さうですから畏おそれと敬虔つゝしみを以もって入はいらなければなりません。詩しへん八十・一を御覽なさい。卽すなはちこゝはイスラエルの中うちに在います神の聖なる寳位みくらゐでありますから、敬虔つゝしみの念を以もって近ちかづかなければなりません。
此この二節に由よりて、其その時代の贖あがなひが未いまだ完まったき贖あがなひでない事が分わかります。全き贖あがなひがありまするならば、何時いつでも神に近ちかづく事が出來ます。來ヘブル九・七、八を御覽なさい。此この贖あがなひは未いまだ完全ではありません。けれども來ヘブル十・十九を御覽なさい。私共は今憚はゞからずして、聖なる神に近ちかづく事が出來ます。何故なぜなれば私共の爲ために全うせられたる贖あがなひがあるからです。けれども其その時にアロンは罪の爲ために神に近ちかづく事を得ませなんだ。創さうせい三・二十四を御覽なさい。今迄いまゝで人間は神と共に交まじはって、神の美うるはしき處ところに住む事が出來ました。けれども今罪の爲ために隔障へだてが出來て、人間は神に近ちかづく事が出來ません。出エジプト三・五を御覽なさい。これは新約の時代の誡命いましめではありません。これは舊約の誡命いましめです。今贖あがなひが完全まったうせられましたから、神は私共を御自分に招き給ひます。帖エステル四・十一を御覽なさい。これは舊約時代の有樣ありさまの譬喩たとへであります。人間は神に近ちかづく事は出來ません。唯たゞ毎年まいねん一度いちど、神は祭司長さいしのをさに恩めぐみの金圭きんけいを延ばしめ、其その人のみを受入うけいれ給ひます。今私共は全き贖あがなひの爲ために、何時いつでも神の前に出いづる事が出來ます。又不斷たえず神と共に生涯を暮くらす事が出來ます。私共は如斯このやうな特権とくけんがありますから、それを蔑視なみせずに、不斷たえずそれを受入うけいれて、それを經驗せなければなりません。
如斯このやうにアロンは其その日に美うるはしき衣ころもを着ませずして、只ただ白き衣ころもを着ました。出エジプト二十八章に祭司長さいしのをさの美うるはしき衣ころもの話を讀みます。不斷たえず如斯このやうに美うるはしき服裝ころもにて神に近ちかづいて御用を務めました。けれども贖あがなひの日にのみ白き衣ころもを着て働きました。如斯このやうに區別がありました。それは何なにの爲ためですかならば、自己おのれを卑下する爲ためでした。罪の爲ために又罪人つみびとの爲ために自己おのれを卑ひくくしました。來ヘブル二・十七を御覽なさい。如斯このやうに主しゅは自己おのれを卑下して私共の肉の貌かたちを取りて、私共の爲ために贖あがなひを爲なし給ひました。僕しもべの貌かたちを取りて贖あがなひを爲なし給ひました。約ヨハネ十三・四を御覽なさい。主は其その衣ころもを脫いで手巾てぬぐひを取りて御自分を帶おびし給ひました。これは同じ譬喩たとへであります。主は私共を洗はんが爲ために美うるはしき榮光の衣ころもを脫いで、賤いやしき人間の肉の體からだを取り給ひました。さうして私共の祭司長さいしのをさとして、私共の爲ために贖あがなひを爲なし給ひました。
又それのみではありません。此この白き衣ころもに由よりて御自分の潔きよきを顯あらはし給ひました。贖あがなひを爲なし得うる者は潔きよき者でなければなりません。アロンは其その日に白き衣ころもを着た事に由よりて、自分の潔きよき事を顯あらはしました。來ヘブル七・二十六を御覽なさい。それは其その白き衣ころもの意味であります。キリストは如斯このやうに神の前に聖なる者である事を顯あらはし給ひました。
祭司長さいしのをさは如斯このやうに衣ころもを着けて、五節六節の献物さゝげものをさゝげました。
その時に神の前にこの動物を献げました。未いまだこれを屠ほふりませなんだ。たゞ神に献げたるのみでした。
此この二ふたつの山羊は贖あがなひの日の確實なる犧牲いけにへでありました。私共は此この二ふたつの山羊に由よりて、格別に敎へられ度たう御座ります。
アザゼルとは逃れる山羊(the goat that escapes)の意味です。籤くじに當あたれる山羊を神に献げて、籤くじに逃れたる山羊を野に放します。恰度ちゃうど十四・五、七の献物さゝげものと同じ事です。彼處あすこに於おいて一ひとつの雀は殺され一ひとつの雀は逃れました。今此處こゝで同じ事を見ます。一ひとつの山羊は殺されます。一ひとつの山羊は野に放たれます。私共はキリストの爲ために自由を得て、神の刑罸を逃るゝ事が出來ました。
それからアロンは四度よたび贖あがなひを致しました。
第一 自己おのれの爲ためと家族の爲ため、即すなはち他ほかの祭司の爲ために贖あがなひをしました(十一節)。
第二 民たみの爲ために贖あがなひをしました(十五節)。
第三 聖所きよきところの爲ために贖あがなひをしました(十六節)。
第四 ヱホバの壇の爲ために贖あがなひをしました(十八節)。
如斯このやうに四度よたび贖あがなひをしました。第一に自分の爲ために致しました。何故なぜならば自分も罪人つみびとであります。自分も神の前に汚けがれたる者ですから、先まづ自己おのれの爲ために贖あがなひをせなければなりません。次に民たみの爲ために贖あがなひをしました。この贖あがなひの日は、格別に民たみの爲ために贖あがなひをする日ですから、これは一番大切であります。さうですからイスラエル人びと全體が、續いて神と共に步む事が出來ます。又次に聖所きよきところの爲ために贖あがなひをします。何故なぜならばイスラエル人びとは汚けがれたる者であります。祭司も罪人つみびとであります。如斯このやうに此この天幕は汚けがれたる民たみの中うちに建てられたる者ですから、聖所きよきところの爲ためにする贖あがなひをせなければなりません。又其その次に壇の爲ために贖あがなひをせなければなりません。何故なぜならば祭司も汚けがれたる者ですから、其その奉仕の爲ために壇も汚けがれを得ます。然さうですから其その壇の爲ために贖あがなひがなければなりません。如斯このやうに神の前に萬すべての物が贖あがなはれて、復ふたゝび潔きよき者となる事が出來ます。夫それに由よりて聖血ちしほの力が解わかります。私共の爲ために流されたる血は、その樣やうに凡すべての物の爲ために全き贖あがなひをなします。私共は其その贖あがなひの爲ために、憚はゞからずして神に近ちかづく事を得ます。西コロサイ一・廿〜二十二を御覽なさい。如斯このやうに十字架の血の爲ために、萬すべての物は贖あがなはれました。又其爲そのために私共も神に近ちかづく事を得ます。神と和やはらぐ事が出來ます。祭司長さいしのをさは四度よたび贖あがなひをせなければなりません。主は十字架上只ただ一度いちどにて全き贖あがなひをなし畢をはり給ひました。私共は其その全き贖あがなひの爲ために今神に近ちかづいて神と交まじはる事が出來ます。
私共は今主が私共の爲ために其その榮光をすてゝ、人間の貌かたちを取り給ひたることを見ました。主は其その榮光の衣ころもを脫ぎ、白き衣ころもを着て、私共と又萬すべての物の爲ために全き贖あがなひをなし給ひました。人間は汚けがれましたから、萬物まんぶつも汚けがれを得ました。造られたる萬すべての物は、神の前に汚けがれの傳染を得ました。けれども主は今聖血ちしほの爲ために、全き贖あがなひを爲なし畢をはり給ひました。それ故ゆゑに私共は今憚はゞからずして、神に近付く事が出來ます。何卒どうぞ聖靈に由よりて、此この深き意味を敎へられ度たう御座ります。
十一節に於おいて祭司長さいしのをさは最早罪祭ざいさいを献げました。これは當然の事です。毎日天幕に於おいて、さういう犧牲いけにへが献げられました。けれども十二節を見まするならば、其爲そのためにこんな結果を見ます。本當に罪祭ざいさいをさゝげます。又罪祭ざいさいに由よりて贖あがなひをなしましたから、十二節に於おいて祭司長さいしのをさが、神の前に出いづる事を得ます。其その門は平生閉ぢられて居ゐました。祭司長さいしのをさでも神の前に出いづる事は出來ません。けれども其その時に罪祭ざいさいが正しく献げられたる爲ために、神の前に出でて神と親しく交まじはる事が出來ます。
さうですから、祭司長さいしのをさが彼處あすこに入はいる事は實じつに危險なる事でした。死ぬるか生きるかといふ危險な場合でした。けれども此この馨かうばしき香にほひと灑そゝがれたる聖血ちしほの爲ために、『死しぬることあらじ』といひ給ひます。希伯來ヘブル書を見ますれば、此この節の說明があります。希伯來ヘブル書の大體の意味は、此この十三節の說明であります。來ヘブル九・十一、十二を御覽なさい。それ故ゆゑに主が神の前に入はいり給ふたる事は何を示しますかならば、私共の爲ために永遠かぎりなき贖あがなひを成し畢をはり給へる事を指します。さうですから私共は主の昇天を喜ばねばなりません。これは私共の救すくひに親しき關係があります。主が神の前に入はいり給ふことの出來ましたのは、私共に救すくひが成し遂げられたる事の表面うはべの徵しるしです。主は神の子でありますから、自分一人としては何時いつでも入はいる事が出來ました。けれども其その時には人間の祭司長さいしのをさとして入はいり給ひました。即すなはち汚けがれたる者の代理として入はいり給ひました。これは最早贖あがなひの成就せられたる事を示します。若もし贖あがなひが成就せられてありませんならば、必ず入はいる事は出來ません。聖なる神は汚けがれたる者の身代みがはりを受入うけいれ給ふ事は出來ません。贖あがなひが成就せられてありませんならば、主は昇天なし給ふ事は出來ません。世に屬つける話を藉かりまするならば、王は何時いつでも自分の子を皇子わうじとして受入うけいれる事が出來ます。けれども其その子が謀反人の味方となり、其その謀反人を代表して面會を求めまするならば、それを受入うけいれる事は出來ませんでせう。只ただ其その謀反人の全き贖あがなひがありまするならば、初めて其その代表者を受入うけいれる事が出來ます。恰度ちゃうど其樣そのやうに主が天の至聖所いときよきところに入はいり給ふ事が出來ましたことに由よりて、私共の爲ために全き贖あがなひの成就せられたる事を知ります。又それに由よりて自分の安心立命あんしんりつめいを得うる事が出來ることを悟ります。此この十三節は只ただ歷史のみではありません。或あるひは神の律法おきてでもありません。これは實じつに豫言よげんであります。主の昇天の豫言よげんであります。何卒どうぞ其その意味を以もってこれをお讀みなさい。又それに由よりて圓滿なる安慰なぐさめを得なさい。
復一度もういちど來ヘブル九・十二を御覽なさい。『永遠かぎりなき贖あがなひをなすことを得たり』。同おなじく廿四を御覽なさい。『我儕われらの爲ために神の前に顯あらはれんとて眞實まことの天に入いりぬ』。私共の祭司長さいしのをさは私共の身代みがはりとなり給ひました。又幸さいはひにこれは只ただ自分の爲ためのみではありません。イスラエルの祭司長さいしのをさが入はいりました時に、イスラエルの身代みがはりとなりました。けれども只ただ自分一人で入はいる事を得ました。キリストは御自分が入はいり給ふ事に依よりて、私共をも入はいらせ給ひます。此この廿四節の終をはりに我儕われらの爲ためにの言ことばがあります。また來ヘブル十・十九を御覽なさい。私共も至聖所いときよきところに入はいる事が出來ます。私共の祭司長さいしのをさは全き贖あがなひをなし給ひましたから、私共も共に入はいる事が出來ます。
又來ヘブル九・二十五、二十六を御覽なさい。さうですから主の贖あがなひの限かぎりなき功能いさをしを見ます。イスラエルの祭司長さいしのをさは毎年まいねん其樣そのやうに犧牲いけにへを献げなければなりませなんだ。十字架の功績いさをしは永遠限かぎりなき能力ちからであります。私共は今殆ほとんど二千年の後のち、其その流されたる聖血ちしほの爲ために、至聖所いときよきところに入はいる事を得ます。
祭司長さいしのをさは二ふたつの品を以もって入はいりました。即すなはち香かうと血であります。燒たける香かうの煙けぶりの爲ために雲が出來ました。雲は何時いつでも神の宿り給ふことを指します。假令たとへば詩しへん十八・八を御覽なさい。雲は神の在いまし給ふことを示します。又雲は神の性質を表あらはす徵しるしであります。祭司長さいしのをさは其樣そのやうに香かうを燒たいて神の前に出でました。主は神の性質に合かなふ功績いさをしを以もって又榮光を以もって、神の前に出いで給ひました。又此この香かうは馨かうばしき香にほひもあります。即すなはち神を喜ばす所の香にほひが出でました。主は神の前に出いで給ひました時に、神は主御自身を喜び給ふ事が出來ました。創さうせい八・廿一を御覽なさい。彼處あすこに献げたる献物さゝげものの爲ために、神は馨かうばしき香にほひを嗅かぎ給ひました。又其爲そのために凡すべての詛のろひを消し給ふ事が出來ました。主は神の前に御自分から馨かうばしき香にほひとなり給ひました。神を喜ばす者、神を慰める者として神の前に出いで給ひました。夫故それゆゑに神は人間に對して凡すべての詛のろひを消し給ひました。
さうですから、祭司長さいしのをさは血を以もって神の前に出でました。而さうして其その血は贖罪所しょくざいしょの上と其その前の地の上に灑そゝがれました。さうですから祭司長さいしのをさの立つ所に灑そゝがれたる血もあります。私共は其樣そのやうに流されたる血の上に立って、神の前に立つ事を得ます。又流されたる血の爲ために、神と語り合ふ事が出來ます。出エジプト二十五・二十一、二十二を御覽なさい。何故なにゆゑ神は其處そのところに於おいて、人間と語り合ひ給ひますかならば、血が灑そゝがれてあるからです。何故なにゆゑ私共は神と交まじはる事が出來ますか。何故なにゆゑ今聖書に由よりて、或あるひは他ほかの事に由よりて、神の聖聲みこゑを聞くことが出來ますか。夫それは天の處ところに主の血が灑そゝがれてあるからです。其爲そのために神は私共に近ちかづいて私共と語り合ひ給ひます。
此この血は至いと聖なる所に灑そゝがれました。贖罪所しょくざいしょに灑そゝがれてあります。さうですから神は其その血を受入うけいれたることを示し給ひます。神は此この贖あがなひの爲ために滿足を得給ひます。主の十字架を見て滿足を得給ひます。如斯このやうに神が滿足し給ふならば、況まして私共は聖血ちしほを以もって滿足し得られぬことがありませうか。必ず滿足し得うる筈はずであります。
これは二番目の贖あがなひです。イスラエルの民等たみらの爲ためにも同じ贖あがなひが献げられました。其その意味は何ですかならば、其その民も祭司長さいしのをさと同じ惠めぐみを受くる筈はずです。神は祭司長さいしのをさと同じくイスラエルの民たみを、受入うけいれ給ふことを示します。神は最早主を受入うけいれ給ひましたから、同じ喜よろこびと愛を以もって私共を受入うけいれ給ひます。全き贖あがなひの爲ために私共の代理人を受入うけいれ給ひましたから、私共を受入うけいれ給うたる事と同じ事です。私共はそれに由よりて神と交まじはり神の祝福を頂戴することが出來ます。
祭司長さいしのをさを助ける者は一人もありません。祭司長さいしのをさは自分一人にて、此この犧牲いけにへを屠ほふりて、之これを全く献げなければなりません。これは大おほいなる働はたらきであります。これは何を指しますかならば、主は御自分一人にて私共の爲ために贖あがなひを成し遂げ給ひました。主を助ける者は一人もありませなんだ。私共は誤りたる思想かんがへを以もって、度々たびたび幾分か自分の功績いさをしの爲ために、或あるひは自分の働はたらきの爲ために、神に近ちかづく事が出來ると思ひます。これは主の全き働はたらきを助けるといふ過あやまりたる思想かんがへです。主は一人にて全き贖あがなひを成し遂げ給ひました。賽イザヤ五十九・十六を御覽なさい。これは丁度ちゃうど同じ事です。祭司長さいしのをさは自分一人にて、私共の爲ために働はたらきを成し遂げ給ひました。賽イザヤ六十三・三、五を御覽なさい。人間の眼を以もって見ますれば、主は種々いろいろなる友達がありました。けれども其その働はたらきの爲ために事を共にする者は一人もありません。只ただ一人にて進み給はねばなりませなんだ。十字架の爲ために、エルサレムに上のぼり給ふ時に、主は弟子より進み行ゆきて一人も交まじはる者はありませなんだ。ゲツセマネの園そのにて只ただ一人重荷を負ひ給ひました。ピラトの庭にも一人でした。カルバリ山さんにも一人でした。死しに給うたる時も陰府よみに下くだり給うたる時も、只ただ一人でした。主は如斯このやうに一人にて贖あがなひを成し畢をはり給ひました。私共の祭司長さいしのをさは如斯このやうにして全き贖あがなひを立て給ひました。さうですから今全き救主すくひぬしであります(提前テモテぜん二・五)。
これは祈いのりの壇です。主は聖血ちしほの爲ために私共の爲ために祈いのりの處ところを備へ給ひました。出エジプト三十・一、十を御覽なさい。これは祈いのりの壇です。神は人間の爲ために祈いのりの處ところを備へ給ふ事は實じつに感謝すべき事です。私共は神に自分の祈いのりと願ねがひを聞いて頂く事の出來るのは、何よりも幸さいはひなる事であります。
天使てんのつかひは祈る事は出來ないでせう。天使てんのつかひは神に感謝し神を拜む事は出來ます。けれども自分の懇願ねがひを神に聞いて頂く事は出來ないでせう。たゞ人間のみがそんな大おほいなる特權とくけんを有もって居をります。私共は流されたる血の爲ために祈いのりの特權とくけんを頂戴します(來ヘブル四・十四〜十六)。
此この贖あがなひの日に二番目の儀式が始まります。以前に硏究しらべましたやうに、祭司長さいしのをさは二匹の山羊を取りました。一匹を神の前に罪祭ざいさいとして屠ほふりました。其爲そのために祭司長さいしのをさ即すなはちイスラエル人びとの代理人は神の前に出でる事を得ました。又二十〜二十二の山羊の爲ために、イスラエル人びとは自分の罪が全く取除とりのぞかれたる事が分わかりました。彼等は此この山羊を見て何を感じましたかならば、自分の罪と惡が皆除かれて仕舞しまったことを知りました。
如斯このやうに一方に於おいては、屠ほふられたる山羊の爲ために、其その全き贖あがなひが成就せられたる事が解わかりました。私共は主の十字架を見ますれば、全き贖あがなひが最早成就せられたる事が解わかります。又それのみではなく主に由よりて自分の罪が全く取除とりのぞかれたる事を見ます。賽イザヤ五十三・六を御覽なさい。恰度ちゃうど此この祭司は逃れたる山羊の頭の上に、凡すべての罪を承認いひあらはしました如やうに、神は主に私共の罪惡を負はしめ給ひました。然さうですから夫それが全く取除とりのぞかれたる事を見ます。詩しへん百三・十二を御覽なさい。其その時に神は此この山羊を以もってイスラエル人びとの罪を彼等より遠とほざけ給ひました。恰度ちゃうど其樣そのやうに神は主に由よりて私共の罪を遠とほざけ給ひます(米ミカ七・十九)。
これよりは第三の贖あがなひです。若もし私共が本當に十字架を悟りまするならば、最早罪の問題が濟みましたから、私共を神の屬ものとならしめ給ひます。
『水にそゝぎ衣服ころもをつけて出いで』とあります。今輝ける衣服ころもを着て、人々の前に出でます。キリストは永い間人間の贖あがなひの爲ために人の目に見えざる所にて働き給ひました。けれども甦よみがへりの時に此この祭司が出行いでゆきし如く、弟子等たちの前に靈れいの身體からだを以もって出行いでゆき給ひました。祭司は贖あがなひをなす時に只ただ聖きよき衣のみを着けました。今贖あがなひを成し遂げた時に、美うるはしき衣服ころもを着て出行いでゆきました。主も甦よみがへりの後のち、靈れいの衣を着て弟子等たちの前に出いで給ひました。主は私共を潔きよめ神の前に眞まことの燔祭はんさいとなり給ひました。
此處このところの『出いで』といふ言ことばは主の再臨を指します。主キリストは今神の前に至聖所いときよきところにいりて、私共の爲ために仲保とりなしの祈いのりを捧げて居ゐ給ひます。けれども後のちに榮さかえと輝かゞやきとを以もって出來いできたり給ひます。其その時に私共は肉眼を以もって見る事が出來ます。民等たみらが祭司の至聖所いときよきところより出來いできたる事を待って居をりました如やうに、私共も今顯あらはれ出いで給ふ主キリストを待ちます。彼前ペテロぜん四・十三を御覽なさい。主は榮さかえを以もって顯あらはれ給ひます。私共は主の甦よみがへりに與あづかりましたものならば、其その榮さかえの顯あらはれ給ふ時喜び躍ります。
罪祭ざいさいの犧牲いけにへの脂あぶらがまだ殘って居をります。今これを献げます。此これは一番脂あぶらの善き者であります。此この意味は贖あがなひが出來ましたから、誰たれが一番喜びますか。一番喜ぶ者は神であります。神は贖あがなひの脂あぶらを一番喜び給ひます。罪人つみびとの救はれし贖あがなひの脂あぶらであります。
『かの山羊をアザゼルに遣おくりし者は衣服ころもを濯あらひ水に身を滌そゝぎ』ます。私共は度々たびたび他人の罪の承認いひあらはし、又大おほいなる罪人つみびとを導かんとする間うちに、時としては其その罪に傳染する事があります。さうですから如斯このやうな時には必ず聖靈の力を受けて、自分を潔きよめ之これに染うつらぬやうにせなければなりません。
これも同じ意味であります。罪に係かゝはって働きまするならば、復一度もういちど自分を潔きよめねばなりません。
本節以下、如何にして此この式を續いて守るべきやを敎へられます。此この日イスラエル人びとは贖あがなひの日を覺ゆる爲ために如何どうしますか。第一に其その身をなやまします。罪の爲ために苦くるしみを感ずることです。罪の恐るべきを知ることです。詩しへん三十四・十八、五十一・十七を御覽なさい。これは身をなやますことの雛形であります。私共は贖あがなひの結果と雛形を得え度たう御座りまするならば、如斯このやうに身をなやまして、碎けたる心を以もって、悲かなしんで神に近ちかづかねばなりません。詩しへん百四十七・三を御覽なさい。此この贖あがなひの日は大安息日だいあんそくにちですから、心の大安心だいあんしんを得うる日です。私共は贖あがなひの爲ために大おほいなる歡喜よろこびと安心があります。來ヘブル四・九、十を御覽なさい。之これに由よりて私共の心を判斷する事が出來ます。若もし眞まことの贖あがなひを味あぢはうたる者ならば、心の中うちに大おほいなる安息があります。
之これは全く祭司の働はたらきに由よりてゞある事を敎へられます。私共の祭司長さいしのをさは自分一人で贖あがなひをなし給ひました。私共の悔改くいあらためと信仰を以もってしても、彼の働はたらきを助ける事は出來ません。さうですから私共は全く之これを主に委まかせねばなりません。若もし私共が少しでも之これを助けねばならぬならば、其その贖あがなひは必ず幾分か不滿足であります。けれども主は一人にて全く之これを成し給ひました(來ヘブル七・二十三〜二十五)。
私共は只今たゞいま大切なる利未レビ記十六章を終をはりました。兄弟姊妹よ、何卒どうぞ各自めいめい深く之これを硏究し、聖靈に敎へられて、此この章を學び味あぢははれん事を望みます。これは聖書中大切なる章の一ひとつであります。
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