第 三 章  酬 恩 祭



 この酬恩祭しうおんさいによりて格別にあがなひの結果を學びます。燔祭はんさいによりては格別にあがなひの順序を見ました。この三章を見ますれば、あがなひによりて神の前によろこびを得ます。又神と共によろこび饗應ふるまひあづかります。宗敎につい人間ひとかんがへを尋ねまするならば、罪人つみびとが神に近づきまする時は、その罪の重荷を負ひ罪の深きを感じてくるしまねばならぬと申します。れども神のかんがへを聞きますれば、又聖書に記してあるすくひの道を見ますれば、罪のあがなひによりまして、私共わたくしどもは神の前によろこびを得ます。感謝と歡喜よろこびとをもって神と共に饗應ふるまひあづかる事が出來ます。このすくひよろこびと平和は實に人間にんげんの思ひ及ばぬ程であります。又これによりてたゞ神のめぐみのみではありません、神の愛をも見ます。神は恩寵めぐみめに罪のばつを取り除き給ひます。又愛のめに歸りました罪人つみびとを喜ばせ給ひます。

 燔祭はんさいによりまして、私共はことどとく神のものとなります。皆燒きつくされてしまひました。すなはち神は全くこれを受けれ給ひます。素祭そさい有樣ありさまを見ますれば、幾分は神にしました、又幾分は祭司にしました。酬恩祭しうおんさいを見ますれば、幾分は神に、幾分は祭司に又幾分はこれを献げる人にしました。さうですから、この犧牲いけにへは格別にあがなひによりまして、親しき交際まじはりをする事をあらはします。これを献げまする者は、神とまじはり又人とまじはる事が出來ます。私共はしゅイエスのあがなひを悟りますれば、悟りまする程、神に近づき又人に近づく事が出來ます。主の全きあがなひを悟るに從ひ、神と人とにうるはしき饗應ふるまひあづかる經驗を與へられます。

 この三章におい酬恩祭しうおんさい神に献げる話を見ます。レビ七・三十一〜三十七に祭司の分を見ます。レビ七・十一から献げる人の分の話があります。それを献げる者は幾分を與へられる事によりて、何を學びますか。すなはそのあがなひによりまして、献げる人が滿足をる事を學びます。

 燔祭はんさいの時にそれを献げまする者は少しも頂戴致しません。神は皆これを取り給ひます。それによりて神は滿足し給ふことを見ます。それを献げまする者が滿足を得ましたかあるひは得ませんかは知る事が出來ません。酬恩祭しうおんさいの話で献者さゝげるものも滿足を得ます。すなはち神と共に主イエスのあがなひによりて滿足を得ます。神はそのあがなひめに滿足を得給ひました。人間もそれによりて滿足を得ます。まことの信仰は主のあがなひによりまして、神と交際まじはりる事です。約壹ヨハネいち一・三その交際まじはりを見る事が出來ます。

一  節

 『牛をとりて』。さうせい十八・七を御覽なさい。アブラハムは神のめに饗應ふるまひを設けました時に、小牛を取りました。これまこと酬恩祭しうおんさいであります。酬恩祭しうおんさいの意味はあきらかにこの創世記十八章でわかると思ひます。これは神を迎へる犧牲ぎせいです。神とまじはる方法です。神に滿足を献げる事です。私共は主のあがなひによりまして、神にまこと酬恩祭しうおんさいを献げる事が出來ます(ヨハネ十四・二十三もくし三・廿)。この牛の酬恩祭しうおんさいによりまして、まことよろこびが出來ました。ルカ十五・二十三を見ますれば、酬恩祭しうおんさいの意味を見る事が出來ます。此處こゝでは父は子のめに牛を屠ほふりて樂しみました。其方そのはうから十字架を見ますれば、神は主のあがなひによりて、私共を喜ばせ給ひます。又私共に親しき交際まじはりを與へ給ひます。

二  節

 『かどにてこれをほふるべし』。イスラエルびとその門口かどぐちにてこの酬恩祭しうおんさいを献げました。そうして神の殿みやる事が出來ました。私共も神とまじはることを願ひまするならば、たゞ主イエスのあがなひにより、信仰によりて、神に近づく事になります。

 又何處どこそれを献げましたか。五節を見まするならば、燔祭はんさいの上に献げました。燔祭はんさいがありませんならば、酬恩祭しうおんさいを献げることは出來ません。すなはち身もたまも献げませんならば、神とまこと交際まじはりをする事は出來ません。又神の前に喜ぶ事が出來ません。さうですから一方より見ますれば、主の流し給ひし血によりて、神とまじはる事が出來ます。又一方より見ますれば、たゞ献身がありますから、神とまじはる事が出來ます。

三、四節

 神にすべてのあぶらを献げました。これは最もたふとき部分です。又最も富める部分です。私共は神に身とたまを献げまするならば、心の最も深い情を神に献げねばなりません。心の力にしたがひて、神に愛を献げ又神の前に喜ぶ筈です。しへん七・九を見ますれば、神は心とむらととを探り給ひます。さうですからたゞ表面うはべの感情を献げるだけではえきはありません。私共の力の限り、最も深い感情を献げねばなりません。その通り身もたまも献げまするならば、神も御自分の心の最もたっとき者を與へ給ひます。しへん六十三・六に『わわがたましひはずゐあぶらとにてもてなさるゝごとくあくことをえ』とあります。誰がこの經驗をる事が出來ますか。神に心の底まで献げたる者です。イザヤ五十五・二を見ますれば、神は私共が此樣このやうに飽くまでにみたさるゝ事をこひねがひ給ひます。神は此樣このやうに御自分の者と共に祝ひ給ひます。神も人間もそれによりて、飽く程に滿足を得ます。その通りに神は人に對して、人は神に對して十分に滿足する事が出來ます。

 これは神のパンです(マラキ一・七、十二)。又神の食物しょくもつです(エゼキエル四十四・七)。すなはち神はキリストの献物さゝげものによりてたのしみと滿足を得給ひます。その犧牲いけにへによりて、主イエスは義を滿足させ給ひました。れどもたゞそれ而已のみではありません。神の聖旨みむねをも滿足させ給ひました。神はたゞそれでなだめられ給ふのみならず、それを喜び給ひます。

 神の祭司も犧牲いけにへを献げる人もこれくらひました。私共は時によりては、あぶらそゝがれたる祭司のやうに、祭司の特權とくけんに從ひて、此樣このやう交際まじはりを頂戴します。又時によりては犧牲いけにへを献げる人のやうに、功績いさをしなきものなれども、たゞ主イエス・キリストのあがなひめに神とまじはる事が出來ます。祭司の特權とくけんを感じません時にても、常に主イエスの犧牲いけにへ依賴よりたのみて神とまじはる事が出來ます。

 さうですから神とまじはる事は如何なる事ですかならば、たゞ神の前にきたりキリスト御自身をもって充たさるゝ事です。

 この酬恩祭しうおんさいは格別に交際まじはりを指す犧牲いけにへです。イスラエルびとは羊の肉をくらめに神の前に參りました。私共はその通りに神と共に、キリストについて滿足を得る事はまこと交際まじはりです。ことばを換へて申しますれば、神の前にキリストの聖旨みこゝろ、キリストの光榮さかえ、キリストのすくひついて深く考へまするならば、神もまたこれを考へ給ふて、それによりてよろこびを得給ひます。考へる事はまこと交際まじはりです。これはすくひを求むる事ではありません。又あるひは救はれたか、如何どうであるかと尋ぬる事でもありません。確信をもって神と共に、キリストの全きあがなひを喜ぶ事です。私共は度々たびたびサタンにいざなはれまして、今迄いまゝでの經驗をもって滿足します。又傳道によりて滿足を得ます。けれどもこれはけがれたる者をくらふのと同じ事です。まことの滿足は神の前に、キリストを喜び、キリストを受けれる事です。どうぞこの酬恩祭しうおんさいによりて神と共に喜び、神と親しき交際まじはりをなす道を學びたう御座ります。



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