第二十四章  神の名を瀆す者の罰



一〜八節

 一〜八節うちに大切なる事は『たえず』といふことばです。四度よたびこのことばが見えます()。さうですから不斷たえずヱホバの前に光がありました。不斷たえずヱホバの前に充分ゆたかなる食事もありました。この光はイスラエルびとたすけよりそなはりたる光であります。これは神よりいでたる榮光さかえの光ではありません。ことばを換へていひまするならば、これは敎會の光であります。敎會は不斷たえず神の前にそんな光があります。又不斷たえず神の前に充分じうぶんなるやしなひがあります。イスラエルびとはこの燈火ともしびため橄欖かんらんの油を備へました。このパンを備へる祭司長さいしのをさは、不斷たえず神の前に其樣そのやうな光とパンを整へました。ほかに如何にくらきがありましても、祭司長さいしのをさは神の前に幾分か光を備へました。ほかに如何に飢饉がありましても、神の前に充分じうぶんなる食事がありました。私共わたくしども祭司長さいしのをさしゅイエスです。主が奉仕つとめし給うて、敎會の暗き時にも敎會の冷淡なる時にも、不斷たえず幾分か神の前に光をともして給ひます。必ず光が全く消ゆる事はありません。又不斷たえず神の前に充分じうぶんなる食事がありました。敎會のうちに如何に冷淡なる有樣ありさまがありましても、人々は一個人として神に近付ちかづきまするならば、充分じうぶんなる食事を頂戴する事が出來ます。イスラエルびとの一人がその時にきよき所に入ることを許されましたならば、其處そこに神の前に自分の支派わかれためにパンを見ることが出來ました。私共は神に近付ちかづきまするならば、其處そこに自分のために備はってるパンを見ることが出來ます。それを頂戴する事が出來ます。其樣そのやうに神は不斷たえず慰安なぐさめと滿足をもってイスラエルびとを見給ふ事が出來ました。何故なぜならば不斷たえず自分のために、此樣このやうに光とパンが備へられたるゆゑであります。

 ほかの點からこれを見まするならば、神の殿みやは私共の心であります。聖靈は不斷たえず神の殿みやうちに、このやうに聖なる光をも、聖なる靈のかてをも備へ給ひます。私共は不斷たえずそれを頂戴するはずです。私共は本當に神の殿みやですならば、不斷たえず光とかてがある事を御信じなさい。

十〜十四節

 神の特權とくけん受入うけいれたる者でも、神の聖名みなけがすことが出來ます。神に惠まれたる者も、そんな罪を犯す事が出來ます。これは神の聖名みなけがす事です。この話を見ますれば、じつにそんな罪はのろふべき罪であることがわかります。さうですから自分も恐れて神の聖名みなきよめて自己おのれを愼まねばなりません。ロマ二・二十四を御覽なさい。これは同じ罪です。ユダヤびとはそんな罪を犯しました。ユダヤびとは表面で大切にヱホバの名を言ひました。けれども本當にヱホバの名をけがしました。イスラエルびとは喜んでこの人を殺しました。又この人はのろふべき者であると思ひました。けれども自分も矢張やはりそんな罪を犯してりました。エゼキエル三十六・二十、二十一を御覽なさい。私共は神に救はれたる者です。神に救はれたる者は罪を犯しまするならば、又神のめぐみあらはしませんならば、如斯このやうに重い罪を犯して神の聖名みなけがします。



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