一〜八節の中に大切なる事は『絕ず』といふ言です。四度此言が見えます(二、三、四、八)。さうですから不斷ヱホバの前に光がありました。不斷ヱホバの前に充分なる食事もありました。この光はイスラエル人の助に由て具はりたる光であります。これは神より出たる榮光の光ではありません。言を換へていひまするならば、これは敎會の光であります。敎會は不斷神の前にそんな光があります。又不斷神の前に充分なる養があります。イスラエル人はこの燈火の爲に橄欖の油を備へました。此パンを備へる祭司長は、不斷神の前に其樣な光とパンを整へました。他に如何に暗がありましても、祭司長は神の前に幾分か光を備へました。他に如何に飢饉がありましても、神の前に充分なる食事がありました。私共の祭司長は主イエスです。主が奉仕を爲し給うて、敎會の暗き時にも敎會の冷淡なる時にも、不斷幾分か神の前に光を燃して居給ひます。必ず光が全く消ゆる事はありません。又不斷神の前に充分なる食事がありました。敎會のうちに如何に冷淡なる有樣がありましても、人々は一個人として神に近付きまするならば、充分なる食事を頂戴する事が出來ます。イスラエル人の一人が其時に聖き所に入ることを許されましたならば、其處に神の前に自分の支派の爲にパンを見ることが出來ました。私共は神に近付きまするならば、其處に自分の爲に備はって居るパンを見ることが出來ます。それを頂戴する事が出來ます。其樣に神は不斷慰安と滿足を以てイスラエル人を見給ふ事が出來ました。何故ならば不斷自分の爲に、此樣に光とパンが備へられたる故であります。
他の點からこれを見まするならば、神の殿は私共の心であります。聖靈は不斷神の殿の中に、このやうに聖なる光をも、聖なる靈の糧をも備へ給ひます。私共は不斷それを頂戴する筈です。私共は本當に神の殿ですならば、不斷光と糧がある事を御信じなさい。
神の特權を受入れたる者でも、神の聖名を瀆すことが出來ます。神に惠まれたる者も、そんな罪を犯す事が出來ます。これは神の聖名を瀆す事です。この話を見ますれば、實にそんな罪は詛ふべき罪であることが分ります。さうですから自分も恐れて神の聖名を聖めて自己を愼まねばなりません。羅二・二十四を御覽なさい。これは同じ罪です。ユダヤ人はそんな罪を犯しました。ユダヤ人は表面で大切にヱホバの名を言ひました。けれども本當にヱホバの名を瀆しました。イスラエル人は喜んでこの人を殺しました。又此人は詛ふべき者であると思ひました。けれども自分も矢張そんな罪を犯して居りました。結三十六・二十、二十一を御覽なさい。私共は神に救はれたる者です。神に救はれたる者は罪を犯しまするならば、又神の恩を顯はしませんならば、如斯に重い罪を犯して神の聖名を瀆します。
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