第 十 二 章  訓 練 と 献 身



肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、
霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、
鍛えてくださるのです。(ヘブル12:10

自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、
聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い行いのために
備えられたものとなるのです。(テモテ後書2:21


 何かを聖別するとは、そのものを分離させること、そして聖なるものとして扱うか、もしくは神とその礼拝のために献げることを意味している。エルサレムの神殿が聖なるものであったというのは、それが神のために聖別されて、神の住まいとして神のために献げられたものであることを意味している。神殿で用いられる器具も聖なるものであった。それらは神殿での礼拝のために分かち献げられたものであったからである。祭司たちもまた聖なるものであって、神に仕えるために選ばれ、神のために働くために備えられた者であった。同じように、クリスチャンたちもまた主のご用のために聖別されているのであって、『あらゆる善い行いのために備えられた』者たちなのである。

 イスラエルの人々がエジプトを去った後、主は彼らを鍛錬して主に仕える聖なる民とした。主はパロに『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と命じている(出エジプト7:16)。神によって苛酷な奴隷状態から解放されたイスラエルの子らは神に対して負債を負っており、直ちに神に奉仕する生活に入り、幸いな奉仕者となることが求められていた。彼らの解放は彼らを聖別に導く道だったのである。

 今日こんにち、神は再びご自身のために聖なる人々の群れを形造られる。そしてイエスが私たちを解放されたのは、私たちがその群れに加わるためなのである。『キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです』(テトス2:14)。サタンが私たちを拘束していた鎖を砕いたのは主である。私たちが解放されて完全に自由に主に仕えるようになることを望まれたのは主である。主は私たちを救うことで、私たちの魂だけでなく身体をも解放することを望まれた。それは身体のすべての部分が聖別されて、無条件に主のご用のために用いられるものとなるためである。

 多くのクリスチャンはこのことをすべて理解しているわけではない。自分が解放されたのは自分が聖別されて神のご用のために備えられるためであるということをどう理解すればよいのかを、その人たちは知らない。彼らは自分の命と体を自分の満足を得るために使っている。その結果として彼らは、信仰をもって癒やしを求めるということが、自由にできなくなっているのである。このため彼らは自分の聖別を願うようになるまで鍛錬を受けることになる。それで主は、サタンが彼らを病気で苦しめるままに任せ、彼らを『取りつかれた』『縛られている』状態にとどめておかれるのである(ルカ13:11, 16)。『霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです』(ヘブル12:10)。それは私たちが『主人に役立つもの』(テモテ後書2:21)となるように清められるためである。

 病気の苦しみという鍛錬は、大きな祝福を伴っている。それは病める者に反省を求める呼びかけである。それは病める者を、神がその人のことを心配しておられて、神ご自身からその人を隔てているものが何かを教えようとしておられるということに気付かせる。神はその人に語りかけられる。神はその人に、自分が歩いてきた道を吟味して自分にきよさが欠けていたことに気がつくようにされる。そして現在の苦しみはその人を神の聖性にあずからせるためにあるということを理解するように導かれる。神はその人に、その人の心の奥底まで聖霊の光によって照らされたいという願いを起させる。その人がこれまでいかに自己意志に従う生活を送ってきたか、神が求めるきよい生活とは似ても似つかない生き方をしてきたかを、その人がはっきりと自覚するようになるためである。神はその人を、自分の罪を告白して主イエスの手に委ね、救い主が罪から自分を解放してくださると信じるように導かれる。神はその人に、主に身を委ね、自分の命を主に向かって聖別し、自分に死んで神のために生きる者となるようにさせられる。

 聖別は、あなたが自分で実現できることではない。それをあなたが自分の内に留め置いて観察することができるようなものとしてあなたの中に作ることは、神にさえできない。否、聖霊が、ただ聖なる霊のみが、ご自身の聖をあなたに分与し、絶えず新たにすることができるのだ。したがってあなたがその聖にあずかる者となるのは信仰によらなければならない。イエスは私たちのために知恵となり、義と聖と贖いとなられた(コリント前書1:30)。それはイエスの地上での生涯に現れていたイエスの聖があなたに与えられているということであり、それは聖霊の働きなのである。信仰によって聖霊に自分を差し出しなさい。そうすれば聖霊はあなたが毎時毎刻このような生涯を送ることができるようにしてくださる。主が聖霊によってあなたを導いてこの聖なる生涯、神への奉仕のために献げられた生涯へとあなたを入れてくださり、保ってくださる。そう信じなさい。そしていつも主の声と聖霊の導きに注意を向けて、誠実な服従の生涯を送りなさい。

 病人が父の鍛錬によって聖潔の生涯に至ったのであれば、神の目的は達せられたのである。信仰によって願い求めるその人に神は今、癒やしを与えられるであろう。『肉の父はしばらくの間、鍛えてくれました。…… およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、のちには、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです』(ヘブル12:10-11)。

 信者がその矯正のわざから解放されることができるのは、その人がこの平安な義の実を実現する時である。

 聖別が神への完全な献身を意味することを分かっていない信者が今なおとても多い。彼らが病人の聖別に続いてただちに癒やしが来ることを信じることができないのもそのためである。彼らにとって健康とは自分の満足と快楽の問題であって、自分の望むままに使うことができるものだと、彼らはふつうに考えている。しかし神は人々の利己心のために働くということはおできにならない。神がその子らに『聖なるもの、主人に役立つもの』となることを求められていることを、彼らが理解しているなら、自分の身体が聖霊によって清められて主のご用のために用いられるものとなるために主のお取り扱いに完全に身体を委ねることを学んだ人々に、神が癒やしと新たな力を与えられることを知っても、もはや驚くことはないはずである。癒やしの霊はきよめの霊でもあるのだ。



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