「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが堂々と御言葉を語れるようにしてください。どうか御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行なわれるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。(使徒4:29-31)
「あなたの僕たちが堂々と御言葉を語れるようにしてください。どうか御手を伸ばして、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行なわれるようにしてください」などという祈りによって主に求めることが、現在も許されているだろうか。このことを考えたい。
神の言葉は現在でも、初代教会の時代と同様、多くの困難にさらされているのではないだろうか。欠乏は今でも同じように深刻なのではなかろうか。エルサレムとその不信仰の中にある使徒たちのことを考えてみよう。一方に人々の指導者がおり、その脅しがある。他方には、十字架につけられた者を信じることを拒む盲目の大群衆がある。今日では、世は教会に対してあからさまな敵意を見せないが、それは世が教会を恐れなくなったからである。しかし教会を褒めそやす言葉は、敵意を含む言葉よりもかえって恐るべきものである。同調しないこと、あるいは偽りの見せかけの下に隠れることは、時としてあからさまな暴力よりも悪い。無関心のうちに眠る名前だけのキリスト教は、あからさまな抵抗を示すユダヤ主義と同じように冷たいものではなかろうか。神の言葉を大胆に取り次ぎ、神の力を明らかに世に示す従順な信仰を持つ神の僕がいま必要とされているのだ。
神の助けは、当時と同じように今も必要なのではないだろうか。当時の使徒たちは、彼らの説教が卓越しているだけでは真理が勝利を得ることはないことをよく承知していた。聖霊がその臨在を啓示する奇跡が必要であることを知っていた。生ける神がその手を伸ばしてくださり、聖なる御子イエスの名によって癒やしと不思議な業としるしとがなされることが必要であった。神の僕たちが喜びに溢れ、神の臨在によって強められて堂々と御言葉を語れるようになるために、そして世に神の名を恐れることを教えるためには、神ご自身がその力を目に見せてくださる必要があったのだ。
神の約束は、私たちにも同じように当てはまるのではないだろうか。使徒たちは、主が昇天される前になさった約束を心に握っていた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。…… 信じる者には次のようなしるしが伴う。…… 病人に手を置けば治る』(マルコ16:15, 17-18)。この命令は神が教会に与えられた職務を示している。宣教命令に続く約束は、戦いのために備えられている教会を私たちに示し、主が教会とともに働かれることを私たちに保証するものである。使徒たちが主の臨在の証拠を現すように主に祈り求めたのは、この約束を信じていたからであった。彼らはペンテコステの日にすでに聖霊に満たされていたが、神の力が働いていることをあらわす超自然的なしるしをなお必要としていた。同じ約束は私たちにも当てはまる。福音を宣べ伝えよという命令は、それに伴って与えられる神の癒やしの約束とは切り離せないからである。この約束が未来には当てはまらないなどとは聖書のどこにも書かれていない。いつの時代でも、神にある人々は、神が彼らとともにおられることを知り、その紛れようのない証拠が与えられることを必要としている。それゆえ、この約束は私たちのためのものなのである。それが成就するように祈ろうではないか。
私たちは同じ恵みを期待すべきであろうか。使徒行伝に次のように書かれている。使徒たちが祈り終わると、『皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。…… 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。…… そして、主を信じる者が男も女もますます増えていった』(使徒4:31; 5:12; 5:14)。主が今日もう一度その手をこのように伸べてくださるなら、神の人々はどれほどの喜びと力を受けることであろうか。たくさんの働き手が、その働きの上にもっと多くの結果と祝福を見ることができないために、悲しんで疲れ果て、失望している。もしここに書かれているようなしるしが現れて、神が彼らと共におられることが示されるなら、このような働き手たちの信仰に豊かな生命が与えられるであろう。無関心であった多くの人々が振り向かされるであろう。疑いを抱いていた多くの人々が確信を与えられるであろう。そして不信者たちはみな沈黙せざるを得ないであろう。憐れむべき不信者よ。彼は言葉を通して信じることのできなかった真理を事実によって見せられることになる。クリスチャンの神が奇跡を行う生ける神であること、祝福を与える愛の神であることを見せつけられることになる。そのとき彼はどう思うことであろうか。
目覚めよ、目覚めよ、力をまとえ、キリストの教会よ。あなたは不信仰のためにそれを見ることができなくなっているとしても、御言葉が宣べ伝えられる時には、神の癒やしの御手が伸ばされているのである。主は再びこの恵みを与えられる。その機会をこれまで長いあいだあなたから奪ってきたものはあなた自身の不信仰であることを認めなさい。そして赦しを祈り求めなさい。祈りの力を身にまといなさい。
『目覚めよ、目覚めよ、力をまとえ、主の腕よ。目覚めよ、かつての日々のように。』(イザヤ51:9)
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