あなたがたの間に、弱い者や病人が大勢おり、また死んだ者も少なくないのは、そのためです。もし私たちが、自分をわきまえていれば、裁かれることはなかったでしょう。しかし、私たちが裁かれているのは、主による懲らしめを受け、この世と共に罪に定められることがないためなのです。(コリント前書11:30-32)
コリントの人々に手紙を書く中で、使徒パウロは、彼らが聖餐にあずかる仕方について、それが神の怒りを招いていると非難する必要を覚えた。この箇所に私たちは、病気が神の裁きであり、罪に対する懲らしめであることを見る。パウロは『主による懲らしめを受け』と書いているように病気が実際に懲らしめであると考えており、彼らが病気にかかるのは、彼らがもっと深く罪に落ちてしまうのを防ぐためであり、彼らが『この世と共に罪に定められる』のを避けるためのものだと説明している。もし彼らが主から裁きや叱責を受けることを望まず、病気の原因を示されなくても罪から立ち帰るなら、主はもはや厳しい手段に訴える必要はなくなるだろうとパウロは言う。このことから、病気は神の裁きであり、罪に対する懲らしめであって、私たちが自分で心を探って罪を咎めることができるならそれを避けることができるということが分からないであろうか。
私たちがそう思っているよりもしばしば、病気は裁きであり、罪の懲らしめなのである。エレミアの哀歌3:33には『人の子らを辱め、苦しめられるのは、御心ではないのだから』とある。主が私たちから健康を奪われるのには、その理由があるのだ。或る場合にはその理由は、私たちが自分で認めることができる罪に対して私たちに警戒させるためである。『もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない』(ヨハネ5:14)と書かれているような場合である。或る場合には神の子が高慢と名声にとらわれてしまっていることが理由である。またはその人の神に対する奉仕の中に自己信頼や何か相容れない要素が混入してしまっていることが理由であるかも知れない。
しかしいっそうあり得ることは、懲らしめは何か特定の罪に対してなされるのではなく、人類全体を覆う罪が増し加わった結果であることである。生まれつき目の見えない人に出会った時に、弟子たちが主に『この人が目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか。それとも両親ですか』と尋ねたことがあったが、主は『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない』とお答えになっている(ヨハネ9:2-3)。主は罪と病気の間に関係がないとおっしゃっているのではない。主はすべての病人をその罪のゆえに責めるのは正しくないとおっしゃっているのである。
いずれの場合にしても、病気はいつでも、私たちを罪に気付かせ、それから立ち帰らせるための訓練として与えられている。それゆえ病気の人はまず自分自身を点検することから始めなくてはならない(コリント前書11:31)。自分自身を天の父の前に出し、もし何か神を悲しませたこと、または懲らしめを必要とさせたことがあれば、それを示してくださるように真摯に願わなくてはならない。そうする中で聖霊の光にまったく委ねるなら、聖霊はその人に過ちをはっきり示されるであろう。その人は聖霊が示されたことを直ちに放棄して、主のお取り扱いに自分をゆだね、完全な服従をもって主にお従いするように、心を決めなければならない。しかし自分の努力によってその罪を克服できるかのように想像してはならない。否、それは不可能なのだ。その人はすべての思いを尽して神の側に立ち、神の目に罪と映るものから離れなければならない。そして神が自分を受け入れてくださると信じなければならない。そうすることでその人は自分を明け渡し、もう一度神に対して自分を聖別して、何事においても神の聖なる御心だけを行うことを望むようになる。
私たちがこのようにして自分をわきまえているなら、主は私たちを裁かれることはないと聖書が保証している。父はただ必要な限りにおいてその子を懲らしめる。神は私たちを罪と自己から救うことを願っておられる。私たちがその神を理解して罪と自己から離れるなら、直ちに病気はやむ。病気は用が済んだのである。私たちは来て病気が何を意味するのかを見なければならない。そしてそれが神の訓練であることを認めなければならない。人は自分が罪を犯していることにぼんやりと気付きながらも、それが罪であることをはっきりとは認めようとしないことがある。または仮に認めても、その罪を放棄することは自分にはできないと思うかも知れない。たとえその罪を放棄しようと決心するとしても、それで神がその懲らしめを終わらせてくださると信じることができないかも知れない。にもかかわらず、冒頭のパウロの言葉が与える保証は確かなのである。
病気の人よ、あなたは天の父があなたの中の何かを正そうとしておられることを理解するであろうか。父はあなたが病気の手を借りてそれを発見することを望んでおられる。そして聖霊があなたの探求を助けてくださる。聖霊があなたに指し示すものをすぐに棄てなさい。そうすればあなたは天の父に近づくことができる。あなたの罪を赦してあなたの病を癒やすことが父の御心なのである。
私たちはイエスのうちに赦しと癒やしとを二つながらに持っている。それらはイエスの贖いの業の両面なのである。イエスはあなたがこれまでにしてきた以上に彼に依り頼む生涯を生きるように招かれる。あなた自身を完全な服従のうちに彼に委ねなさい。そして小さな子供のように彼のあとに従って歩みなさい。天の父は喜んであなたを懲らしめから解放し、ご自分があなたの癒やし主であることを示してくださる。父はこの新しい愛の絆をもってあなたをご自身に引き寄せられる。そしてあなたを従順で誠実な神の礼拝者としてくださる。神はひとりの賢明で誠実な父親としてあなたを訓練しなければならなかったが、今よりのち神は、やはり父親として、あなたを癒やし、祝福し、守ってくださるのだ。
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