第 十 一 章  身体だけに目を付けないこと



 およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。(ローマ4:19-21


 神はアブラハムに息子を与えると約束されたが、もしこの族長がすでに高齢で力を失っている自分の肉体のことを考えたら、この約束を信じることはとうていできなかったに相違ない。しかし彼は神とその約束だけに目を注ぎ、約束したことを成就する神の力と誠実さ以外のものを見ようとしなかった。

 私たちはこのことから、人間の医療によって期待される治療と、神からのみ得ることができる癒やしとの違いを理解することができる。医学的な治療行為においては、患者の注意は専ら身体に向けられ、身体を配慮する。神の癒やしにおいては、私たちは身体から注意をそらし、自分の魂と体のことを放棄して、主の働きかけに目を向け、主お一人に集中するように導かれる。

 この真理はまた私たちに、祝福を与えることを目的として長引く病気と、主から癒やしを受けることとの違いにも気付かせる。ある人々は、ヤコブ書にある『信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます』(5:15)という約束を文字通りに受け取ることに躊躇する。というのは、その人々は健康になるよりもむしろ病気であり続ける方が魂にとって益になると思っているからである。このことは人間による医療行為で癒やされる場合には当てはまり、健康が回復するよりも病気のままでいる方が恵まれるという人々も多い。しかし神の手から直接受ける癒やしの場合は全く異なる。神癒を受けるためには、人は心から罪を告白してそれを棄てなければならず、自分を完全に主に明け渡さなければならず、自己自身を主の手の中に完全に委ねなければならない。そしてイエスが自ら身体の責任を負ってくださることを深く確信する結果、癒やされることが、主との密接な関係を伴う新しい生涯の始まりとならなければならない1

 このことから、私たちは健康の回復を完全に主にお任せするということを学ぶ。病気がぶり返す小さな兆候であっても、それを自分の体にではなく主にのみ目を向けるようにという警告として受けるのである。

 このような病人と、ただ医療行為による治癒を求めている多くの患者たちの間には、何という対照があることだろうか。病気によってきよめられ、自分自身から目を離すことを学んだわずかばかりの人々があるとすれば、その一方で、同じ病気によって自分自身と自分の身体の状態ばかりにいつもかかりきりにさせられているたくさんの人々がいる。このような人たちは少しばかりの回復または悪化の兆候をつかむために無数の検査を受ける。何を食べ何を飲むべきかという配慮、これやあれは避けるべきだという心配が、いつも彼らの心を満たしている。その人たちは自分が他の人々から何をしてもらえるか、自分たちが配慮されているか、十分に看護を受けられているか、頻繁に見舞いに来てもらえるか、というようなことばかり気にかけている。このようにして彼らは自分の体とその要求を考えることにばかり時間を使い、主が彼らの魂との交わりを持とうとしておられることなど全く考えない。病気によってほとんど自分のことしか考えられなくなっている人々がいかに多いことであろうか。

 信仰によって愛である神から癒やしを求めようとする時には、こうした状況は全く異なるものとなる。その時にまず最初に学ぶことは、自分の身体の状態について心配することをやめることである。あなたはそれを主にお任せし、主が責任を負われたのである。たとえすぐには目覚ましい回復が認められなくても、あるいはかえって病状が悪化するようであっても、あなたは既に信仰の道に足を踏み入れていることを思い出しなさい。あなたは自分の体のことを考えるはずではなく、ただ活ける主にすがるはずなのである。

 『自分の体のことで思い煩うな』(マタイ6:25)というキリストの命令はここで新たな光の下に現れる。神がアブラハムに自分の体のことで思い煩わないように導きを与えられたのは、アブラハムを可能な限り大きな信仰の実践へと召し出して、神とその約束だけに目を留めることを学ばせるためであった。その信仰にとどまることで、アブラハムは神は約束されたことを必ず成し遂げられると確信して、神に栄光を帰したのである。

 神の癒やしは、私たちを主に結び付ける奇跡の帯である。初めは私たちは神がその全能の御手みてを伸ばして私たちの身体に触れられると信じることに恐れを抱くかも知れない。しかし魂は、神の言葉を学ぶことによって勇気と確信を得る。そしてついに人は決心して、「私はわたしのからだを神の御手に委ねる。体の世話を神にお任せする」と言うようになる。その時には体とその感覚は視界から消え、ただ主とその約束だけが見えるようになる。

 読者よ、あなたもまたこの信仰の道、私たちが自然の道と呼ぶものよりはるかに高みを通っているこの道に入りたいであろうか。それならばアブラハムの道を歩みなさい。自分の体についての思い煩いと不信仰による疑いとを避けることを、彼から学びなさい。体についての思い煩いが不信仰を生むのである。しかし神の約束に依り頼み、ただ神にのみ目を注ぐことは、私たちを信仰の道に入るように導く。それは神の癒やしの道であり、神に栄光を帰する道なのである。


  1. 校注:すべての病気が罪の結果というわけではないことは心に留める必要がある。ある種の病気は、ただ癒やされた人を通して主の栄光が現れるためにある。(→ 本文に戻る


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