さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの衣に触れた。「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。すると、すぐに出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と言われた。弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた女を見つけようと、辺りを見回された。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(マルコ5:25-34)
神が私たちに医師たちを与えられたことを感謝したい。医師という職業は最も高貴な職業である。多くの医師たちが、人類に負わされた罪の結果であるところの病とその苦しみとを和らげるため、愛と同情から誠実にできる限りのことを尽そうとしているのである。彼らの一部はイエス・キリストの熱心な僕でもあって、患者たちの魂に対しても益となるように努めている。けれども、第一にして最高最大の医師は、いつでもイエスご自身なのである。
イエスは人間の医師たちにはどうすることもできない病を癒やされる。父なる神がイエスに我々を贖う任務をお与えになった時に、この癒やしの力をイエスに賜わられたからである。イエスはご自身の上に人間の身体を取られたことによって、人間の身体を罪とサタンの支配から解放したのである。彼は私たちの身体を聖霊の宮となし、ご自身の身体の肢体とされた(コリント前書6:15, 19)。今日でも、医者が匙を投げた不治の病にある多くの人々、また結核や壊疽の患者、麻痺や浮腫のある人々、目の見えない人や耳の聞こえない多くの人を彼は癒やしてきた。病にある人々が癒やしを求めてイエスのもとに赴くことがないとすれば、それは意外とするべきことではなかろうか。
イエスの方法は人間の医師たちの方法とは全く異なるものである。人間の医師たちは神に奉仕するために自然界に見いだされる治療法を利用しようとし、神はそうした治療法を自然法則に従って、それぞれの治療法の特性に応じて用いられる。イエスから来る癒やしはこれとは完全に異なるものである。イエスは神の力によって、聖霊の力によって癒やされる。これら二つの方法の間の違いは非常に大きい。
このことをよく理解するために実例で考えてみよう。信者ではないがその職能に熟達している医師の場合、彼のもとには治験を期待する多くの患者が集まっているが、これは彼の処方する治療法とその医学的知識を通して神が働いておられる結果である。医師が信者であれば、彼の用いる治療法を神が祝福してくださるように祈るであろう。多くの人が癒やされるが、これらいずれの場合も、癒やしには霊的祝福は伴っていない。医師はたとえ信者であっても、どのような医学的治療法を使うかで頭がいっぱいになっていて、主が彼とともに働いてなしてくださることには関心がない。このような時には治療は有益である以上に有害なものとなってしまいかねない。
対照的に、病人にとって癒やしを期待できるのがイエスからだけである時には、その人はもはや医薬品や医術を信頼せず、イエスの愛と全能性の直接的な影響下に自分を置くことを学ぶようになる。癒やしを得るために、その人は自分の罪を告白してそこから立ち帰り、活ける信仰を実践することを始めなければならない。その時には、癒やしは主から直接に与えられることになる。主がその病んだ身体を所有されるからである。その結果、癒やしは身体のためだけでなく心魂のための祝福となる。
しかし人類に医学的知識を与えられたのも神なのではなかろうか。そのように問われるかも知れない。医師の力も神に由来するのではないだろうか。確かにそのとおりである。他方、神はまたあらゆる癒やしの力を備えたひとり子を私たちのために与えられたのではないだろうか。それでもまだ私たちは、キリストを知らない人々と共に、またはキリストを知っていてもその信仰が弱いためにキリストの全能性に自分をゆだねることができない人々と共に、自然法則に基づく方法にのみ従おうとするのであろうか。それとも私たちは、信仰の道に従って、主と聖霊とから直接に癒やしを受け、その癒やしのうちに贖罪の結果と証明を見出すことの方を選ぶべきであろうか。
主イエスによる癒やしは、医師たちによる治療よりも多くの実際の祝福をもたらし、あとに残す。医師による治療は、少なからぬ人々にむしろ害悪となった。病床では病人の心は真剣な思いにとらわれていたのだが、治療が進むと病人はまた主から遠ざかってしまったのである。イエスによる癒やしはこのようなものではない。罪が関係しているのなら、その罪が公になるまでは癒やしは来ない(ヨハネ9:3)。それゆえ癒やしは病人をイエスに近づけ、自分と主との間に新しい関係を樹立するように仕向けるのである。癒やしは癒やされた人に主の愛と力とを体験させ、信仰と聖潔の新しい生涯がその人のうちに始まる。女がキリストの衣のへりに触れて自分が癒やされたことを自覚した時、彼女は神の愛とは何かについて新しい学びを得た。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』(マルコ5:34)というイエスの言葉を握って彼女は立ち去ったのである。
病に苦しんでいる人たちは、至高の癒やし主であるイエスが今でも私たちとともにあることを知りなさい。彼は私たちのすぐ近くにいて、その臨在の新しい証拠を教会に与えようとしておられる。この世との交わりを断って、信仰と確信をもって彼に自分を献げる用意ができているであろうか。それなら心配は要らない。神の癒やしはその信仰の生涯の一部であると知りなさい。あなたを祈りで助けてくれる人が誰もいなくても、信仰の祈りを祈ってくれる長老が一人もそばにいなくても、恐れずに一人で主に行きなさい。ちょうど主の衣の裾に触れようとした女のように、一人で黙って行きなさい。あなたの体のことは主にお任せしなさい。主の前に静まり、あの女のように『私は治していただける』と言いなさい。不信仰の鎖が解けるまでしばらくかかるかも知れないが、主を待ち望む人は誰も恥を受けることがない(詩25:3)とあなたは確信してよいのだ。
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