第 十 章  身体のための主



主はわが光、わが救い。私は誰を恐れよう。
主はわが命の砦。私は誰におののくことがあろう。
詩27:1


 神と人との関係には相互性がある。神が私に対してずっとそうあられたように、私も神に対してそうあるべきなのだ。そして私が神のために存在しているように、神も私のために存在することを願われる。もし神がその愛によってご自身を完全に私に与えられるなら、それは私もまた自分自身を喜んで神に献げるようになるためである。私が自分の存在をとにかくも神にほんとうに差し出すなら、ちょうどその分だけ、神も私にご自身を、より真実に与えられる。神はこのことを通して、このやりとりには身体も含まれるということを信者が理解するように導かれる。体は主のためにあるということを証しする生き方を私たちがすればするほど、私たちは主は体のためにあるということを経験するようになる。『体は主のためにある』と言うことによって、私たちは私たちの身体が全く聖別されたものとして見なされること、主に対するいけにえとして献げられ、主によって清められたものと見なされることを願っていることを表明したことになる。そして『主は体のためにある』と言うことによって、私たちはその献げ物が受け入れられたという貴い確信を表明する。それは、主が聖霊によって主の力と聖とを私たちの身体に分け与えてくださるという確信であり、これからは主が私たちを強め守ってくださるという確信でもある。

 このことは信仰にかかっている。私たちの身体は物質であり、弱く、壊れやすく、罪深く、死に定められている。したがって『主は体のためにある』ということのすべての意味をすぐに把握することは難しい。身体と霊とを結び付ける方法を教えるものは神の言葉以外にない。身体は主によって、主のために創られた。イエスもご自身に肉体を取られた。イエスはご自身の体に私たちの罪を負って十字架に上られ、それによって私たちの体を罪の力から解放された。その体はキリストとして再び引き上げられ、神の御座に就かれた。身体は聖霊の住まいである。身体は永遠に天国の栄光に結び付けられるべく召されている。それゆえ、私たちは確信をもって、かつ普遍的な意味で言うことができるのだ。「そうです、主イエス、われらの救い主は、体のためにあります」と。この真理の有する意味は広い。まず第一に、それはきよめの実践のために有益である。ある種の肉体的傾向から生じてくる罪がある。大酒飲みは回心するとアルコール飲料を遠ざけるようになるが、彼の嗜好は時として罠となり、彼の新しい信念に打ち勝ってしまうことがある。しかし彼が戦いの中にあって信任をもって主に身を委ねるなら、飲酒に対するあらゆる嗜好と欲求に打ち勝つことができるであろう。私たちの感情もまたしばしば身体的な体質から現れてくる。神経質で苛立ちやすい体質からは鋭く酷薄で愛に欠ける言葉が出て来る。しかしそのような性向をもつ身体でも、主に明け渡すなら、不寛容な怒りを聖霊が静めてくださり、体を清めて咎められるところのないものとしてくださるのを、すぐに見ることができるであろう。

 『主は体のためにある』という真理はまた、私たちが主のための奉仕に必要とする身体的な力を得るという意味がある。ダビデが詩篇18:32で『神は、私に力を帯びさせる方』と言っているのは、身体的な力のことを言っている。それは彼が続けて『私の足を雌鹿のようにする方。…… 私の腕は青銅の弓を引く』(33-34)と言っていることからも分かる。『主を待ち望む者は新たな力を得る』(イザヤ40:31)という約束が体にかかわるものであって、聖霊が身体的な力を強めてくださったという経験を、多くの信者がしている。

 しかし、『主は体のためにある』という言葉の真実性を何よりもはっきり知ることができるのは、神癒においてである。そう、主イエス、至上にして憐れみある癒やし主が、いつでも救い癒やそうと控えておられるのだ。何年か前のこと、スイスに結核のために死に近づきつつある少女がいた。医師は転地療養を勧めたが、彼女にはもう旅をする力が残っていなかった。しかし彼女はイエスが病の癒やし主であることを聞いて、この福音を信じた。ある夜のこと、彼女がこのことに思いを巡らせていると、彼女には主の体が彼女のすぐ近くに来ているように感じられ、『主の体はわれわれの体のために』という表現を文字通りに受け取るべきであるように思われた。その時から彼女は回復し始めた。しばらくして、彼女は聖書の輪読会を始め、やがて婦人たちの間の熱心で祝福された主の働き手となった。彼女は主は体のためにあると理解することを学んだのだった。

 病んでいる方よ、主はあなたに病気を通して、罪が体に対してどれほどの力をふるうかを教えられた。そして主はまたあなたに、癒やしを通して、体に対する贖いの力を教えようとしておられる。主はあなたを、あなたがこれまで知らなかったこと、すなわち『体は主のためにある』ということを教えようと招いておられる。それゆえあなたの体を主に委ねなさい。あなたの病気と罪もろともに体を主に献げなさい。罪は病気の本源なのである。主がこの体を引き受けてくださったといつも信じなさい。そうすれば主は、主こそまことに体のための主であることを、力をもってあらわしてくださるであろう。主はこの地上で自らご自身に肉体を受けられ、天の高みから肉体を新たに生まれ変わらせて、そしていま天国にあって栄光の体を取っておられる。その主が、私たちの体に主の力を現そうとされて、主の神たる力を私たちに送られるのである。



| 総目次 | 緒言と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 |