第二十五章  互いに祈り合うこと



癒やされるように(hopos iathete =完全な者となるように)、互いに罪を告白し、
互いのために祈りなさい。正しい人の力ある祈りには偉大な効果があります。
ヤコブ5:16


 ヤコブは初めに教会の長老たちの祈りについて私たちに語ったが、ここではすべての信者に対して『癒やされるように互いに祈りなさい』と命じている。告白と赦罪を命じた後で、彼はなお『互いのために祈りなさい』と付け加える。

 このことが私たちに教えるのは、癒やしを求める信仰による祈りとは、一人の孤立した信者の祈りではなく、キリストの身体を構成する者たちを聖霊の交わりによって一つに結び付けるものだということである。神の子の誰かが活ける信仰をもって神の前に祈りを献げるなら、神は必ずその一人ひとりに対して聞いてくださるが、病気の人が必ずしもこのような信仰を持っているとは限らない。それなので、聖霊に力をもって働いていただくために、キリストの身体である人々のうちの何人かが一緒になって聖霊の臨在を求めるということが、一般には必要とされるのである。

 このように兄弟姉妹に頼ることができるためには、二つのことが必要である。第一に、私たちは自分が不正を行ったかも知れないすべての人に対して自分の過ちを告白して赦しを得なければならない。しかしそれだけではない。もし病床にある人が、かつて自分が犯した罪がその病気の原因になっていることを心に示されていて、その病気が神からの懲罰であることを認めているならば、その人はその場合には、その人のために祈っているキリストにある長老と兄弟たちの前でその罪を言い表さなければならない。そうすれば長老と兄弟たちはより明瞭な光と信仰をもって祈ることができるようになる。このような告白はその人の改悛の真剣さを測る尺度でもある。なぜなら自分の罪を人に対して告白することは、神に告白するよりも難しいからである。告白するに先だって、その人の恥じる思いは真実となっていなければならないし、改悛の気持ちは真剣なものとなっていなければならない。その結果、その病気の人とその人のために執り成しをする人々との間のつながりはいっそう強固なものとなり、彼らの信仰はもう一度強められる。

 『癒やされるように、互いのために祈りなさい』。このことは、私たちがよく耳にする疑問に対する明らかな答えになっているのではないであろうか。「スイスのツェラー氏やアメリカのカリス博士に会いに行くことに、或いはロンドンのベトシャンに行くことに、何の意味があるのか? どこで祈りを捧げようと神は聞いてくださるのではないか?」という疑問である。

 確かにそのとおりではある。活ける信仰による祈りが捧げられるところでは、それを聞いて癒やしを与えられる神をどこにでも見いだすことができる。しかし教会は長い間、この真理を無視してきたので、今日こんにちではこのような祈りができるクリスチャンを目にする機会はめったにない。それゆえ、主がある信者たちを鼓舞して、神の癒やしの真理を証言するために、その生涯の一部を聖別する願いを起させてくださったことに対して、私たちは主にこの上なく感謝しなければならない。このような信者たちの言葉と信仰は多くの病人の心の中に信仰を呼び起す。病人たちは、このような人たちがいなければ、決してそのような信仰に至ることはなかったはずなのである。「神をどこにでも見いだすことができる」といつでも誰にでも言うことができるのはまさにこのような人たちなのである。

 奇跡を起こす神の力のほんの小さな現れでも見逃さないことをクリスチャンは学ばねばならない。そうすれば神はご自分がいつでも『主、あなたを癒やす者』であることを誰にでも示すことができる(出エジプト15:26)。私たちは神の言葉に忠実であるように心がけねばならない。そして癒やされるために互いに罪を告白し、互いのために祈らなければならない。

 ヤコブはここで、祈りが受け入れられるために不可欠なもう一つのことに注意している。それは、祈りは正しい人の祈りでなければならないということである。『正しい人の力ある祈りには偉大な効果があります』。聖書は『義を行う者は、御子が正しいように正しい人です』(ヨハネ一書3:7)と告げている。ヤコブ自身もその聖さと配慮に満ちた良心のゆえに「義人ヤコブ(James the Just)」と呼ばれてきた。長老であっても一信徒であっても、兄弟のために力ある祈りができるためには、その人が完全に神に明け渡されて神への服従のうちに生きる者となっていなければならない。ヨハネも同様に『願うものは何でも、神からいただくことができます。私たちが神の戒めを守り、御心に適うことを行なっているからです』(ヨハネ一書3:22)と語っている。それゆえ『偉大な効果がある』のは、神との親密な交わりのうちに生きている者の祈りなのである。このような祈りに対してのみ神は答えを与えるのであって、このような生き方をしていない神の子たちの祈りには神は答えることができないのだ。

 『正しい人の力ある祈りには偉大な効果があります』というみことばはよく引かれるのであるが、偉大な効果というのが特にいま問題にしているような神の癒やしのことを指しているという文脈で、またはそのことを思い出させるために、引用されることは非常に少ない。活ける信仰によって動かされている『正しい人』を、イエスの神による癒やし主としての栄光を現すために神が用いることのできる人を、どうか神が教会の中にたくさん起こしてくださるように。



| 総目次 | 緒言と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 |