第二十六章  神 の 意 志



御心が行なわれますように(マタイ6:10

主の御心であれば(ヤコブ4:15


 医師や医学によっては手の施しようがなくなった病気の中にあると、人はここに掲げた聖句に立ち帰ることが多い。そしてこれらの言葉は容易に、神癒が実現する上での躓きの石となる。その人は言う、「私が病気であり続けることが神の意志でないとどうして分かるだろうか。それが分からないのであれば、どうして私は癒やしを信じることができるだろうか。信仰をもって癒やしを祈ることなどできるであろうか」と。

 ここで真理と誤謬が出会う。私たちはそれが神の御心みこころにかなうかどうか確信できない時には信仰をもって祈ることができない。それは確かである。人は言うであろう、「私は神ができることなら私を癒やしてくださることを信じて、神が私に最善をなしてくださるようにと熱心に祈ることはできる」。人がこのように祈っている限り、その人が従順に祈っていることは確かであるが、しかしそれは信仰による祈りではない。信仰による祈りは、私たちが神の意志に従って祈っていると確信できる場合にのみ可能である。そうすると問うべきは、何が神の意志であるかを確かに知ることができるかどうかということに帰着する。ここで、神の子はその癒やしに関する神の意志を知ることができないと考えるのは、大きな間違いなのである。

 神の意志を知るには、私たちは聖書の言葉によって導かれねばならない。私たちに癒やしを約束するのは神の言葉である。ヤコブ書5章の約束は無条件のものであって、それを否定することはできない。この約束は、聖書にあるほかの記事を確認しているだけに過ぎない。それらの記事は同様に強力なものであって、イエス・キリストは私たちの病を負われたのであるから、イエスはすでに私たちのために病からの癒やしを獲得されているのだと私たちに教える。したがってこの約束によると、私たちは癒やされる資格を持っている。なぜなら癒やされることは私たちがキリストの内に有している救いの一部なのであって、それゆえ私たちはそれを確信を持って期待することができるのだからである。聖書が私たちに教えるところでは、病気は、神がその子たちに罪を教え諭すための手段として神の手の内にあるものであって、苦しみにある神の子たちが罪を認めてそこから立ち帰るなら、その試練は直ちに停止されるのである。このことが明白に意味するのは、神が病気を用いることを望まれるのは、ただ迷っている神の子たちを連れ戻すためなのだということである。

 病気のクリスチャンよ、聖書を開いてそのページに書かれていることを学びなさい。すなわち病気は罪と手を切るようにという警告であって、その罪を認めて捨て去る者は誰であれ、キリストのうちに赦罪と癒やしとを見出すということをである。これが聖書に書かれた神の約束なのである。もし主がご自分のもとに立ち帰るように招いておられる神の子たちの或る者に対して別のご計画をお持ちであるなら、主はその人に御心を伝えて、その人がすぐに始めるように聖霊を通して願いを与えられるであろう。ほかの特別な場合には、主は何か特別の確信を与えられるかも知れない。しかし一般則としては、聖書は私たちに信仰による祈りの答えとして癒やしが与えられることを約束しているのである。

 「そうは言っても、万事を神の意志に委ねてしまうのがよいのではなかろうか」と言う人があるかも知れない。その人はあれこれのクリスチャンの事例を引き合いに出して、その人たちは『御心が行なわれますように』と言う代わりに祈ることによっていわば神の手を強いて動かそうとしたけれども、その祈りの答えとして何の祝福を経験することもなかったと指摘する。そして「病気であることが私たちによって健康よりも良いことではないとどうして分かるのだろうか」と言う。注意してほしいのは、私が言っているのは神の手を強いて動かそうとするようなことではないということである。私たちを癒やすのが主の御心であると、聖書がはっきり教えているのだからだ。『信仰による祈りは、病気の人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます』。神の御心は、魂の健康が身体の健康に良い影響を及ぼすことであって、魂におけるイエスの臨在が健康な身体の状態に表れるということなのである。これが神の御心であると知るならば、あなたは、健康よりも病気の方が私たちに益になるのが神の御心なのかも知れないなどと言っている間は、すべてを神にお任せしていると心の底から言うことはできない。あなたが神の約束を握る代わりに、あらゆる可能な医学的な治療法を使ってみようとしているなら、神にすべてをお任せしたことにはならない。神が何をあなたに命じておられるのかを考えるならば、このようなあなた任せの服従の姿勢は、霊的怠惰以外の何ものでもないのだ。

 病気が健康よりも良いものであるかどうかということについては、私たちはためらわずに次のように答える。罪を棄てる結果として、神に向かう聖別の結果として、また神との究極的な交わりの結果として、健康を回復することは、病気にとどまることよりも無限にまさっていると。『神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです』(テサロニケ前書4:3)。このことが現実であることを、神は癒やしによって保証される。イエスは私たちの身体を所有するために来られ、それを奇跡的な方法で癒やされる。そのようにして受けた健康な身体は、日々絶えざるイエスとの交わりによって維持されるはずである。このようにして私たちが受ける救い主の力と愛の経験は、病気が与えるいかなる経験よりもはるかにまさるものなのである。病気は確かに私たちに服従することを教える。しかし神から直接受ける癒やしによって、私たちは主をさらに深く知るようになり、主を深く信任することを学ぶ。またそれによって信者は神を正しく礼拝することができるようになる。

 病んでいるクリスチャンよ、もしあなたがこの病をめぐる神の御心が何であるかを真実に知りたいのであれば、決して他の人々の意見やあなたの過去の考えに影響されてはならない。ただ神の言葉が語るところに耳を傾け、それに学びなさい。神癒はイエスの贖いの一部分であると、また神はすべての信者が神癒を要求する権利を持つように決められたと、聖書に書いてあるかどうかを確かめなさい。この要求が聞かれて聖霊の力によって健康が回復されるようにという神の子の一人一人の祈りが、教会の前で、また世界の前で神の栄光を現すことになると、そのように約束されているかどうかを確かめなさい。このことをあなたが聖書で読むとおりに願いなさい。そうすればあなたは答えられ、知るようになるであろう。病気は罪(または落ち度)が招いた試練であって、神の意志によるものであること、また信仰による祈りに答えて与えられる癒やしは、神が赦し、清め、罪を取り除く恵みの証しをもたらすものであることを。



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