第 十 九 章  イエスは私たちの病を負われた



彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。……
その知識によって私の正しきしもべは多くの人を義とする。
彼は彼らの過ちを負うからである。……
彼は強い者たちに戦利品を分ける。彼は多くの人の罪を負ったからだ。
イザヤ53:4, 11-12


 イザヤ書53章、この第五の福音とも呼ばれる美しい章をあなたは知っているだろうか。神の霊の光によってイザヤは神の小羊の受難を予見して語っているが、またその受難の結果であるさまざまな神の恵みについても語っている。

 負う(bear)というのは運ぶ(carry)という意味であるが、この預言の中では負うという言葉が使われなければならなかった。実際、この言葉は罪を負うという時に必ず使われる言葉である。罪人つみびとが自分が犯した罪を負う場合でも、身代わりの者に罪を負わせる場合でも同じである。違反者と、祭司と、身代わりのいけにえとは、みな罪を負わなければならない。同じように、私たち全員の過ちのゆえに神がその小羊を撃たれたのは、小羊が私たちの罪を負ったからである。小羊の中には罪はなかった。罪は彼の上に置かれたのである。彼は自発的に罪を自分の身に引き受けられた。そして彼は罪を負ったがゆえに、また負うことによって罪に決着を付けたがゆえに、彼は私たちを救う力を持つ。上に引用したイザヤ書53:11-12に読むとおり、イエス・キリストが私たちの罪を負われたがゆえに、この真理を信じさえすれば私たちは罪から解放される。そして私たちはもう自分で罪を負う必要はないのだ。

 同じイザヤ書53章では、負う(bear)という表現が二回、異なるものに対して使われている。12節では神の義の僕が私たちの罪を負われたことが言われているが、それだけでなく、4節では彼が私たちの病を負われたと言われている。このように、彼が私たちの病を負うことと罪を負うこととは、贖いのみわざの一つの全体を形成するのである。彼は自分には罪がないのに私たちの罪を負われたが、病についても同じである。イエスの人間としての本性は聖なるものであったから、病はその体に触れることができなかった。イエスの生涯についての記述の中に病気に関する言及はない。飢え、渇き、疲れ、眠りのような人間の弱さはすべて経験されていたが、病気の兆候は彼には現れなかった。病気は罪の結果であるからだ。彼には罪がなかったので病気が彼に取りつくことはなく、彼が死ぬ時は暴力的な死に方によって、しかも彼ご自身がそれに自発的に同意されることによってのみ、死ぬほかなかったのだ。病気も罪も彼の上に置かれたが、彼の中にあったのではない。彼はご自分の自由な意志によって病気と罪とをご自身に引き受けられ、それらを負われたのである。病気と罪を負い、ご自身に引き受けられることによって、彼はそれらに対して勝利し、彼につく者たちをそれらから解放する権利を得られたのだ。

 罪は心と体とを二つながらに攻撃し、破滅させたのであるが、イエスが両方を救うために来られた。彼は罪だけでなく病気をもご自身に引き受けられたことによって、私たちをその一方だけでなく他方からも解放することがおできになる。この二重の解放を達成するために、彼はただ一つのものを私たちから期待される。すなわち私たちの信仰である。

 病気を患っている信者は、イエスが私の罪を負われたということの意味を理解するや否や、恐れずに次のように言うようになる。「私はもはや自分の罪を負っていない。罪はもう私の上にはない」と。同じように、彼がイエスは私たちの罪を負われたということを自分のこととして完全に受け入れて信じるや否や、恐れずに言うようになる。「私はもはや自分の病気を負っていない。罪を負われたイエスが病気をも負われた。それは、彼が両方のために身代わりとしての支払いを済ませたからである。彼は両方から私を解放されたのだ。」

 かつて私自身、この真理が一人の病気の婦人の上に素晴らしい影響を与えたことを目にしたことがある。彼女は七年間もほとんど寝たきりであった。彼女は結核と癲癇に加え、他の病気も患っていたため、もう回復する望みはないと確信していた。今は亡きW. E. ボードマン氏は病人のための日曜夕拝を開いていたが、彼女はその部屋に運び込まれて、半ば気を失ったような状態でソファに横たえられていた。彼女は何が起きているのかもほとんど分からないほどであったが、やがて次の言葉を耳にした。『彼は私たちの弱さを負い、病を担った』(マタイ8:17)。それから次のように言われるのを聞いたような気がした。「彼があなたの病を負ってくださったのなら、なぜあなたはそれを自分で負うことがあるのか。さあ、起き上がりなさい」。しかし彼女は思った。「いま私が起き上がって床に転げ落ちでもしたら、みんなはどう思うだろう」と。

 しかし内なる声がもう一度語りかけた。「もし彼が私の罪を負ってくださったのなら、どうして私がなおそれを負うことがあろうか」。周囲にいた人全員が驚いたことに、彼女は起き上がり、まだ弱々しくではあったがテーブルの横の椅子に腰掛けた。その瞬間から彼女の急速な回復が始まったのである。ほんの二、三週間の後には、彼女から病人らしさは消えていた。その後、彼女は力を与えられ、一日に何時間も貧しい人々を訪問するまでになった。彼女はその『命の砦』(詩27:1)である主について喜びと愛をもって語ることができるようになった。彼女はイエスが彼女の罪だけでなく病をも負ってくださったと信じ、そしてその信仰は報いられた。イエスに無条件で身を委ねるすべての人々に対して、イエスはこのようにしてご自分が完全な救い主であることを現されるのである。



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