第二十二章  主はあなたを癒やす者



エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。
まことに私は主、あなたを癒やす者である。
出エジプト15:26


 私たちは幾度もこの言葉を読みながら、それを敢えて自分に当てはめようとせず、主がそれを私たちに成就してくださると期待することもしなかったのではないだろうか。私たちはこの書物において、エジプト人に加えられた病気から神の民は免れるはずであったことを読んで知っている。私たちはこの約束が旧約聖書にのみ当てはまるものと信じてきた。そして新約の時代に生きる私たちは、主の直接的な介入によって病気から免れること、或いは病気を癒やされることを期待することはできないと思っていた。私たちはむしろ、新約の方が卓越すると思い込んでいたので、無知のあまり次のように確信するに至ったのだ。すなわち病気はしばしば大きな祝福をもたらすのであるから、神がかつて約束されたことを撤回して、神がイスラエルの民に対してかつてそうであったように『主、あなたを癒やす者』であることを私たちに対してはやめられたのは、正当なことであったと。

 今日こんにち、教会が目を覚まして自らの誤りに気付き始めていることを私たちは見る。新約のもとで主イエスは弟子たちに癒やしの力を伝達されたことを知っている。主が教会にすべての造られた者に福音を宣べ伝えよと命じられた時、主はまた世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいると約束されたのだ(マタイ28:20)。そのことに教会は気付き始めている。そして主が共におられる証拠として、弟子たちは病人に手を置けば彼らは癒やされる(マルコ16:15-18)、そのような力があるはずであった。ペンテコステに続く日々のことも見よ。奇跡による聖霊の注ぎは奇跡による癒やしを伴っていた。そしてこの癒やしこそ祝福をもたらした力が天からのものである明らかな証拠であった(使徒3:16; 5:12; 9:40)。イスラエルにかつて与えられた約束がその後撤回されたと教会が信じる根拠となるような記事は聖書にはない。そして教会は使徒ヤコブから新しい約束を聞くのである。

 『信仰による祈りは病人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます』(ヤコブ5:15)。教会は『イスラエルの聖なる方』(詩78:41)の手をとどめさせてきたのはいつも不信仰であったことを悟り、現在でも不信仰が神の力の現れをとどめているのではないかと自問する。誰がそれを疑い得ようか。責められるべきは神や神の言葉ではない。主の奇跡の力をとどめているのは私たちの不信仰なのだ。かつての時代のように癒やしを行うことから主を遠ざけているのは私たちの不信仰なのだ。信仰を呼び醒まそうではないか。そして『私は主、あなたを癒やす者』とおっしゃる方のすべての力がキリストにあることを認めて驚きの声を上げようではないか。神の言葉が語るところは、神のみわざを通して最もよく理解できるのである。信仰の祈りに答えて与えられる癒やしは、神の約束が真実であることを確認する輝かしいしるしなのである。

 天に挙げられたイエスを神の癒やし手として知ることを学ばねばならない。イエスをそのような方として受け入れなければならない。イエスを私が自分の義、自分の力、自分の知恵として知るためには、イエスが私にとって実際にそのようなすべてであることを信仰によって握らなければならない。同様に聖書が私にイエスこそ至高の癒やし手であると教えるのであるから、私はこの真理を自分自身に適用して「そうです、主よ、あなたこそ私を癒やす方です」と申し上げねばならない。どうして私はこのようなしかたでイエスを持つことができるのか。それは、私たちがイエスと共に植えられて(ローマ6:5=欽定訳)彼と不可分とされるようにイエスがご自身を私に与えられるので、その結果として私は彼の癒やしの力を持つようになるということなのである。イエスはその愛のゆえに、その愛する者たちに愛をもって祝福を授けることを喜び、彼を受け入れることを望む人には誰にでも、喜んでご自身をその心のすべてと共に分かち与えるのである。『主、あなたを癒やす方』、この貴い名を知りそしてそれに頼ることができるすべての者に、主はこの名に含まれる祝福の富を差し出そうとしておられる。そのことを信じようではないか。これが、神の国の法によって指示されるところの、病人に対する処方なのだ。私が主のもとに来て自分の病気を診ていただく時には、私は自分の見るところ、感じるところ、思うところにはよらず、ただ主のおっしゃることに従う。たとえ期待している癒やしとは反対のことが起きているように見えても、たとえ私が期待していた時に期待していたような形で癒やしが起こらないとしても、或いは症状がさらに悪化しているように思われる場合でも、私の信仰は、待つことによってさらに強められて、神の口から発せられた『私は主、あなたを癒やす者である』とのこのみことばに依り頼んで、動いてはならない。神はいつでも私たちがまことの信仰者となることを求めておられる。癒やしとその結果は、それが神の栄光を現すものとならず、私たちを神ご自身にいっそう近く結び付けるのに役立たないのであれば、ほとんど意味がないのだ。癒やしに関しては信仰はいつでもこの点において吟味されねばならない。神の御名みなに心を掛け、イエスが『もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか』(ヨハネ11:40)と自分に語られるのを聞くことができる者は、必ず神ご自身から身体の癒やしを受けるという祝福にあずかるであろう。それが神に相応しい仕方で、神の約束にかなうとおりに与えられることを見るであろう。『私は主、あなたを癒やす者である』という言葉を聞いたら恐れずにお答えしようではないか、『そうです、主よ、あなたこそ主、私を癒やされる方です』と。



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