夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは …… 病人を皆癒やされた。こうして預言者イザヤを通して言われたことが実現した。「彼は私たちの弱さを負い、病を担った。」(マタイ8:16-17)
以前の章で私たちは預言者イザヤの言葉を学んだ。そこで与えた解釈についてなお疑いを持つ読者がいるならば、聖霊が福音書記者マタイによってその預言について記さしめたことを思い出していただきたい。そこにははっきりと記されている。イエスが病める者をみな癒やされたのは、預言者イザヤを通して言われたことが実現するためであったと。イエスが彼らを癒やすことができ、また癒やさねばならなかったのは、イエスが私たちの病をご自分に負われていたからである。もし彼が癒やしをなしたまわなかったなら、その贖いのわざの一部は無力で無益なままにとどまらざるを得なかったであろう。
この箇所の聖書の言葉は一般にはこのように理解されていない。一般に受け入れられている見解は、主イエスが癒やしの奇跡を行われたのは、彼の憐れみ深さの証拠、または霊的な恵みの象徴としてのみ見なされるべきだというものである。それが贖いに必然的に伴う結果であるとは見なされない。聖書がはっきりそう語っているにもかかわらずである。身体と心魂は、ともに神の住まいとなるべく創造されたのである。身体が病んでいる状態というのは、心魂が病んでいる状態と同様、罪の結果なのであり、イエスはそれを負い、贖い、勝利を得るために来られたのだ。
主イエスがこの地上におられた間、病人を癒やされたのは、それが神の子の性質だからというわけではない。そうではなく、自分自身に病を引き受けてそれを担う仲裁者として癒やされたのだ。このことから私たちは、イエスが癒やしのわざのためになぜそれほど多くの時間を使われたのか、また福音書記者たちがなぜそのことを事細かに叙述するのかを理解することができる。例えばマタイが癒やしについて書いているところを読みなさい。
イエスはガリラヤ中を回って、諸街道で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、精神に異常を来した者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。(マタイ4:23-24)
イエスは町や村を残らず回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた。(マタイ9:35)
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。(マタイ10:1)
バプテスマのヨハネの弟子たちが来てイエスにあなたがメシアなのかと尋ねた時、その証拠としてイエスは答えられた。『目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、レプラ患者は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』と(マタイ11:5)。
イエスが萎えた手を癒やされ、それに対してパリサイ派の人々が彼を亡き者にする相談を始めたあと、『大勢の群衆がついて来たので、イエスは彼らを皆癒やされた』(マタイ12:15)。のちに荒野の中に退かれたイエスの後を追って群衆がやって来た時には、『イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた』(マタイ14:14)。さらに後には『人々は付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、せめて衣の裾にでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆、完全に癒やされた』(マタイ14:35-36)。
次の章ではマタイは群衆が『多くの病人たちを連れて来て、イエスの足元に置いたので、イエスはこれらの人々を癒やされた』と書いたあと、次のように付け加えている。『群衆は、口の利けない人がものを言い、不具の人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた』(マタイ15:30-31)。そして最後にイエスがヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた時には『大勢の群衆がついて来たので、イエスはそこで彼らを癒やされた』と書かれている(マタイ19:2)。
イエスによって行われた癒やしの事実を詳細に伝えるこれらの記事を目にした上で我々がなすべきことは、次のように自問することである。これらの癒やしは、単にイエスが地上に生きておられた間に持っておられた力を証拠立てるだけのものなのであろうか。それともそうではなく、これらのことはイエスの憐れみと愛のわざの明らかな一連の結果なのであって、心魂だけでなく身体をも罪の支配から救う彼の贖いの力の発現なのではなかろうかと。
そのとおり、これは神の目的そのものなのである。したがって、イエスが贖いのわざの一部として私たちの病を負われたのであれば、そして彼が病を癒やされたのは預言者イザヤによって言われていたことが実現するためであったのであれば、そしてイエスの救い主としての思いがいつも憐れみと愛で満ちているのだとすれば、私たちは確信をもって信じることができる。今日に至るまで、信仰による祈りに答えて病人を癒やすことはイエスの御心なのであると。
| 総目次 | 緒言と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 |