そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。…… 皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなた方の前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。…… この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒3:16, 4:10, 12)
ペンテコステの後、ペテロとヨハネが宮の門の前で足の不自由な男を癒やした時に、その男に『立ち上がって歩きなさい』と彼らが命じたのは、ナザレの人イエス・キリストの名によってであった。人々が驚いて彼らの周りに走って来た時にペテロがまず言ったことは、この男を完全に癒やしたものはイエスの名であるということであった。
この奇跡とペテロの言葉の結果として、多くの人が言葉を聞いて信じた(使徒4:4)。翌日ペテロはサンヘドリンでも同じ言葉を繰り返した。『この人があなた方の前に立っているのは、ナザレの人イエス・キリストの名によるものです』(同4:10)。そして『私たちが救われることのできる名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです』(同4:12)と続けて言った。ペテロはイエスの名が癒やすものであると同時に救うものであることを宣言したのである。ここに私たちが見るものは、神癒についての最も重要な教えである。
ここに私たちは、癒やしとその結果としての健康な身体とは、キリストの救いの一部を形成していることを知る。ペテロが癒やしについて語ってからすぐにキリストの救いに言い及んでいるサンヘドリンでのこの言明に、このことがはっきりと主張されている(使徒4:10, 12)。天国では私たちの身体さえもが救いに参与するのである。私たちの身体がキリストの完全な贖いを受けて、初めて救いが完結するのだ。それでは私たちはこの贖いの業が地上でも行われることを信じてはいけないのであろうか。今この地上でも、私たちの身体の健康はイエスが私たちのために獲得された救いの結果なのである。
私たちは、救いと同様に健康もまた信仰によって得られるものであることを見る。救いの問題においても、人間にはそれを自分の修行によって実現しようとする自然な傾向があり、信仰によってそれを受け入れるようになるのには困難が伴う。身体の健康の問題になると、この同じ真理を理解することはますます困難になる。救いの問題では、天国への扉を開く方法がほかにないとなると、人はこの真理を受け入れざるを得ない。しかし体の問題では、よく知られた治療法があるので、人はそれを使おうとする。なぜ神癒などを恃む必要があろうか。
イエスの力を示し、父としての愛を私たちに現そうとすることは、神の御心である。このことを理解する人は幸いだ。神はそのために私たちの信仰を増し加えて確かなものとするとともに、心魂だけではなく身体にも働く贖いの力を神は現されることを、私たちに教えている。身体は私たちの存在の一部であり、身体もまたキリストによって救われたのだ。それゆえ、私たちの身体において贖いの力を現し、イエスが生きておられることを公衆に知らしめることが、父なる神の御心なのである。
イエスの名を信じようではないか。不具の者に完全な癒やしを与えたものはイエスの名ではなかったろうか。女の体が癒やされた時には『あなたの信仰があなたを救った』とはっきり言われたのではなかったか(マルコ5:34)。それゆえ神の癒やしを受けることを求めようではないか。
聖霊が力をもって働かれるところでは必ず、聖霊は神癒を実現される。満ち溢れる過剰なまでの奇跡がこれまでに現れたことがあるとすれば、それはペンテコステの時であったのではなかろうか。その時には使徒たちの言葉が力をもって働き、聖霊が豊かに注ぎ出されたのである。実際、身体において聖霊の働きが現れるのは、聖霊が力をもって働いておられることの証拠である。逆に、今日において神の癒やしが稀にしか見られないということは、聖霊が力をもって働いておられないことが原因にほかならないと私たちは認めなければならない。人類にある不信仰と、信者の間の不熱心が、聖霊の働きをとどめるのである。神がこの地上で与えられる癒やしは、私たちに約束されている霊的祝福のしるしなのであって、その癒やしを与えるイエスの名の威力を現すものは聖霊だけなのである。それゆえ熱意をもって聖霊を求めなさい。聖霊の指図に無条件で従いなさい。そしてイエスの名に対する信仰が確かなものになるように努めなさい。救いの宣教のためにも、身体の癒やしのためにもそのようにしなさい。
神はイエスの名に栄光を与えるために癒やしを行われる。イエスの名が崇められるために、イエスによって癒やされることを求めようではないか。イエスの名の力があまり知られておらず、それが説教と祈りの目的にも結果にもなっていないとすれば、それは悲しむべきことである。神の恵みの宝はイエスの名のうちにこそ秘められているのであるが、クリスチャンはその信仰と熱心との欠如のゆえに自らそれを失ってしまっているのだ。イエスの名が教会で崇められることは神の御心であって、神は信仰があるところでは必ずそのようになされる。信者の間でも不信者の間でも良心を覚醒させてその魂を服従に導くために、神は上からの力を用意しておられる。御子のすべての力を現して、心魂にだけでなく身体にも明白なしかたでそれを現すべく、神は備えておられるのである。
私たち自身のためにも、また他者のためにも、信者たちの集まりのためにも、また全世界の教会のためにも、私たちがそのことを確信することができるようにと祈る。イエスの名を信じる信仰を堅くしなさい。そして彼の約束を挙げて、彼の名において偉大なわざをなしてくださるように祈りなさい。そうすれば私たちは神が今なおその聖なる御子の名によって奇跡をなされることを見るであろう。
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