弟子たちはひそかにイエスのところに来て、
「どうして、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。よく言っておく。
もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって、
「ここから、あそこに移れ」と言えば、移るであろう。
あなたがたにできないことは何もない。
(マタイ17:19, 20)
マタイ福音書10章1節によると、主イエスは弟子たちパレスチナの各方面に送り出すに当たって、二方面に働く力を授けている。汚れた霊を追い出す力と、あらゆる病と弱さを癒やす力である。主が同じように七十人を使わした時には、彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と言いながら喜んで帰ってきた(ルカ10:17)。変貌山での出来事があった日、主がまだ山の上におられる時に、悪霊に取りつかれた息子をもつ一人の父親が弟子たちのところに息子を連れて来て悪霊を追い出してもらおうとしたが、弟子たちにはできなかった。イエスがその子を癒やした後、弟子たちはイエスに、彼らに以前はできていたことがなぜ今日はできなかったのかと尋ねた。イエスは彼らに、「あなたがたの不信仰のためである」と答えた。彼らにできなかったのは神の意志のゆえではなく、彼らの不信仰のゆえであったのだ。
今日、神の癒やしを信じる信仰はほとんど見られない。キリスト教会では神の癒やしということがほぼ完全に消失してしまったからである。その理由として、これまで二通りの説明がなされてきた。癒やしの賜物を含めて奇跡というものは、キリスト教の最初の基礎を確立するためにあるものなので、原始教会に時代にはよく見られたが、それ以降現在までに状況はすっかり変わってしまっている、というのが多くの人の説明である。それに対して次のように躊躇なく反論する人々がいる。教会がこうした賜物を失っているとすれば、それは教会自体の落ち度によるものである。教会において聖霊の働きが弱いのは教会が世俗化してしまったからである。目に見えない世界のすべての力に教会が直接に、日常的に接するということがなくなってしまったからである。そのように主張する人々はまた次のことを信じている。もし教会が、信仰と聖霊による生涯を生き、神に対して全く聖別された男女が次々と起されるのをもう一度目にすることができるならば、その時には教会はまた、原始教会の時代に見られたのと同じ各種の賜物が現れるのをも目にすることになるであろうと。
この二つの意見のうち、神の言葉と一致しているのはどちらであろうか。「癒やしの賜物」が見られなくなったのは、神の意志によるのであろうか、それとも人間の責任なのであろうか。奇跡を起こさせないのが神の御心なのであろうか。そのために奇跡を生み出すほどの信仰を与えることを神はもうおやめになったのであろうか。それとも教会の側に不信仰の罪があるのであろうか。
聖書は何と言っているか?
聖書は、主ご自身の言葉を通しても、また使徒たちの言葉によっても、癒やしの賜物が初代教会の時代にしか与えられないなどと信じることを容認してはいない。反対に、主が昇天される直前に使徒たちにその任務について指示を与えられた時に言われた、マルコ福音書16章15-18節に記されている約束は、時代を問わずに適用されるものと解釈される。パウロは癒やしの賜物を聖霊の働きの一つと位置づけている。またヤコブは癒やしについての細かい指示を述べているが、それは時代を限定したものではない。聖書全体は、これらの恵みは聖霊と信仰の量りに従って与えられるとだけ宣言している。
神は新しい時代を始められるにあたって奇跡を行われるのであって、それは神のふつうの行動様式なのだと主張されることもある。そのようなことは決してない。過去の各時代における神につける人々がどのようであったかを考えてみなさい。アブラハムの時代、またモーセの全生涯、ヨシュアによるエジプトからの脱出行、士師たちとサムエルの時代、ダビデ王とそれからダニエルの時に至るまでの信心深い王たちの時代、この何千年もの間ずっと奇跡が起きていたのである。
キリスト教の初期の時代に比べると、その後の時代には奇跡がはるかに必要とされなくなっていると言われる。しかし今日において福音が戦っている不信仰はどれも、奇跡を必要とするほどのものではないというのだろうか。使徒行伝19章11-12節に描かれているようなエペソで行われためざましい奇跡が、今日のアフリカの不信者たちに対してはもう必要ないと認めることはできない。キリスト教国の内部でさえ広がっている無知と不信仰を考慮するならば、信者たちの証しが受け入れられて神が彼らとともにおられることを世に知らしめるために、神の力の目に見える現れが今なお必要とされていると結論せざるを得ない。まして信者たちの間にさえ大きな疑惑と弱さが蔓延している。彼らの信仰もまた、主が彼らの真ん中におられるという明らかな証拠によって覚醒され励まされることを必要としているのだ。私たちの存在の一方の部分は肉と血からできている。それゆえ神は肉と血において、その臨在を私たちに現されるのである。
癒やしの賜物を喪失した原因が教会の不信仰であることを確認するために、聖書がそれについて語っているところに目を向けてみよう。聖書はしばしば私たちに、私たちを神から離れさせ神に背を向けさせる不信仰に対する防御の必要性を説いている。教会の歴史を見ると、このような警告がなぜ必要であったかが分かるのではないだろうか。そこは世に迎合することによる失敗の実例に満ちている。この世の霊が主導権を握るにつれて信仰は弱まっていった。目に見えない世界に生きる人にしか信仰は維持できないからである。
キリストを信じることによる癒やしの実例は三世紀まではたくさんあったが、それ以後はめっきり減っている。聖書を見ると、神の力ある働きを妨げるものはいつでも不信仰であることを知る。
私たちは神の約束を信じるということを学ばねばならない。神は決してその約束を撤回されたことはない。イエスは今なお心と体をともに癒やしたもう御方である。救いは今日でも私たちに癒やしときよめの両方をもたらす。聖霊はいつでもその力を私たちに現そうと待っておられる。そのような神の力がなぜもっと現れないのか、そう私たちが問うたびに、聖霊は答えられる、「あなたがたの不信仰のためである」と。
信仰による聖化という人格的経験があって、私たちがそれに身を委ねるほどに、私たちはまた信仰による癒やしを経験するようになる。聖化と癒やしという二つのことは相伴って進んでいくのである。信者の心の中に神の霊が生き働くようになるほどに、信者の身体に働く神の奇跡も増し加わるであろう。そしてこの奇跡が世に対して、贖罪が持つ意味を認識させるのである。
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