第 八 章  聖 霊 の 宮



 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのですか。私がキリストの体の一部を取って、娼婦の体の一部にしたりするでしょうか。決してそんなことはない。…… 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、神のものである自分の体と自分の霊で神の栄光を現しなさい。(コリント前書6:15, 19-20


 聖書は、キリストの体とは信じる人々の共同体であると私たちに教える。このことは一般に霊的な意味で理解されているが、一方で聖書は私たちに、私たちの体がキリストの肢体であることを知らないのかと問うている。同じように、聖書が聖霊の内住やキリストの内住について語る時は、それを私たちは霊的に解釈して、聖霊やキリストは私たちの霊的部分に現れるだけだと考える。しかし聖書は明白に『あなたがたの体は聖霊の宮であると知らないのか』と告げている。身体もまたキリストによる贖いの対象なのであって、贖いにより身体はそれが本来あるべき地位に戻され、聖霊の住み場所と変えられるのであって、その結果、身体は聖霊に奉仕する器となり、聖霊の臨在により聖化される。もし教会がこのことを理解するなら、教会は聖書の中に、また神につく人々の言葉の中に、神の癒やしに関係する事柄がたくさんあることを認めるようになるであろう。

 創造の記述は人間が三つの部分から成っていることを教える。神は初めに地の塵から身体を形造られた。それから神はその身体に生命の息を吹き入れられた。神は神ご自身の命、神の霊を、身体に入れられたのである。このように霊と物質とが結びつくことによって、人間は生ける魂となった。魂とは、男または女の唯一性を担保するものであるが、それは身体と霊との間に介在するのであって、両者を結び付ける紐帯なのである。魂は身体を通して外的世界との関係を持つ一方、霊を通して霊的世界と神との関係を保つ。魂を通して霊は身体を天的な力の支配に従属させ、身体を霊化することができる。一方、魂を通して身体もまた霊に働きかけて、霊を地上の世界に引き寄せることができる。魂は、霊と身体との両方からの要求を受けて、霊が語りかける神の声に聞き従うか、感覚を通して語られる地の声に聞き従うかの選択を迫られる立場にある。

 この霊と身体との結合は神の創造の中で唯一無二であって、このことが人間を神の作品の中の宝石としている。ほかの被造物は人間より先に存在していたが、天使のように物質的な身体を持たない全く霊的な存在であるか、または動物のように、生ける魂に動かされる身体は持っているが霊とはかかわりのない単なる肉であるかのいずれかであった。人間は、霊に支配される物質的な身体が、神の霊の力によって変貌させられて天の栄光を現すものとなることができることを、証明するように定められたのである。

 私たちは、この変貌の可能性に対して罪とサタンが何をしたかを知っている。身体を通して霊は試みられ、誘惑され、ついに感覚の奴隷となった。私たちはまた、神がサタンの業を滅ぼして創造の本来の目的を実現するために何をなさったかを知っている。

神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。(ヨハネ一書3:8

神はそのひとり子のために身体を用意された。『私のために、体を備えてくださった』(ヘブル10:5)。

言は肉となった。(ヨハネ1:14

キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、肉体の形で宿っており(コロサイ2:9

そして自ら、私たちの罪を木の上で、その身に負ってくださいました。(ペテロ前書2:24

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。(コリント前書10:16

あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのですか。私がキリストの体の一部を取って、娼婦の体の一部にしたりするでしょうか。決してそんなことはない。(コリント前書6:15

あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。(コリント前書12:27

 信仰は私たちに、キリストがその死と復活によって私たちのために買い取られたすべてのものをもたらすのであって、天に昇られたイエスの命はこの地上において私たちの霊と魂にだけ現れるわけではないのだ。それは信仰の量りに従って働く身体にも現れる。

 『あなたの体は聖霊の宮であることをあなたがたは知らないのですか?』(コリント前書6:19)。このことを、聖霊が家に住むようにして私たちの身体に住むために来られるということだと思っている信者が多い。しかしそうではない。私は家に住んだからと言って、その家が私の存在の一部となるわけではない。何の痛みも感じずに私はその家を去ることもできる。家と私との間には何の生きた関係もないのである。私たちの心や霊が私たちの身体の中にあるというのは、このようなことではない。植物の生命はその各部分の中にあって全体に行き渡っている。私たちの心魂もまた私たちの身体の中のどこかに、例えば心臓の中とか脳の中に、宿っているというものではなく、全身に、最も劣悪な器官の末端にまで、行き渡っているのである。心魂の命は身体全体に浸透しており、身体全体にみなぎる生命が心魂の存在を証ししている。それと同じようにして聖霊もまた私たちの身体に宿られるのだ。聖霊は身体の全体を貫く。私たちが想像するよりもはるかに限りなく、聖霊は私たちを生かし所有するのである。

 聖霊が私たちの心と霊にイエスの命を、そのきよさを、その喜びを、またその力をもたらすのと同様に、聖霊は病める者の身体に、その人が受けるために信仰の手を広げるならすぐに、キリストの力強い生命力をすべてもたらすために来られるのである。

 もし身体が完全にキリストのものとなり、彼とともに十字架につけられ、その自己意志と独立性を放棄し、主の宮となることだけを望むなら、その時に聖霊は天にある救い主の力をその身体にあらわされる。その時に初めて神は、私たちの身体の中にその力を完全に働かせることができるようになり、ご自分の宮を病気と罪とサタンとの支配から解放する方法を知っていることを示される。そのようにして私たちの身体は神の栄光を現すのである。



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