恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。…… ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、…… これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。(コリント前書12:4, 8-9, 11)
神の子たちを他の者から区別するものは何か。それは神が彼らとともにいて、彼らに対して力をもってご自身をあらわされるということである(出エジプト33:16, 34:9-10)。新約のもとでは、信者の間に神が住まわれることはそれ以前よりさらに明らかになっている。神はキリストの体である教会に聖霊を遣わされ、聖霊は教会のうちに力をもって働く。教会の生命も繁栄も聖霊によっている。聖霊は教会の中に無制限に、完全な自由をもって働き導く場を見いだすはずである。そして教会はキリストの教会、主の身体と認められなければならない。いつの時代でも、教会は私たちを一つの体、一つの霊とする聖霊の働きを求めることができる(エペソ4:4)。
聖霊は教会のそれぞれの構成員に対してその人なりに働かれる。聖霊に満たされて或る一つのことができるようになるが、他のことについてはそうではないということがある。また教会の歴史の中には、聖霊のある種の賜物は力とともに与えられているけれども、無知や不信仰がほかの賜物が与えられることを妨げているということもあった。しかし聖霊の命が豊かに見いだされるところでは、聖霊がそのすべての賜物をあらわしてくださることを私たちは期待することができる。
癒やしの賜物は、聖霊の最も美しい現れの一つである。イエスについては次のように記されている。『ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです』(使徒10:38)。イエスの中におられた聖霊は癒やしの霊であった。そしてペンテコステの後には、弟子たちのうちに同じ癒やしの霊がとどまられた。聖書を見ると、初期の教会においてはこのことが当たり前の経験であったことが分かる(以下の章句を見よ:使徒3:7; 4:30; 5:12, 15-16; 6:8; 8:7; 9:41; 14:9-10; 16:18-19; 19:12; 28:8-9)。聖霊が豊かに注がれたので、豊かな癒やしがもたらされた。これは今日の教会に対する教訓である。
神癒は聖霊の働きである。キリストの贖罪が身体の中に力をもって働く癒やしを提供し、聖霊がそれを私たちに届け、私たちの内に保つ責任を負っている。私たちの身体は贖いの恵みにあずかっているのであって、今でも神癒によってその約束されたことを受けることができるのだ。聖霊によって癒やし、聖霊を注ぎ、聖霊のバプテスマを与える者はイエスである。同じ霊によるバプテスマを弟子たちに与えたイエスが、地にある私たちに聖霊を送られ、或いは私たちを病から遠ざけ、或いは病に取りつかれている私たちに癒やしを与えられるのである。
神癒は聖霊による聖化を伴う。聖霊が私たちをキリストの贖いにあずかる者とするのは、私たちを聖なる者とするためである。そのために彼は聖霊と呼ばれるのだ。それゆえ聖霊の行う癒やしは、聖霊の使命を構成する不可欠の部分なのである。聖霊は或る場合には病気の人を回心させて信仰に入らせるために癒やしを与える(使徒4:29-30; 5:12, 14; 6:7-8; 8:6-8)。病気の人がすでに回心しているなら、その確信を与えるために癒やされる。そうすることで聖霊はその人を、罪から立ち帰り、神と神のための奉仕に完全に聖別された者となるようにと招くのである。コリント前書10:31に次のように記されている。『食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい』。ヤコブ書5:15、ヘブル書12:10も参照なさい。
神癒はイエスに栄光を帰する結果になる。イエスに栄光が帰せられることこそが神のご意志なのであって、聖霊はそれを実現するために、キリストの贖いが私たちにどれほどのことをなしてくださるかを示すために来られるのである。死すべき身体を贖うことは、不死の魂を贖うことにもまして驚くべきことと映るであろう。しかしこの二つの両方の道を通して、神はキリストによって私たちの内に生き、肉に勝利を収めることを望んでおられる。聖霊によって私たちが神の宮と変えられるのと同時に、イエスは栄光をお受けになるのだ。
神癒は、神の霊が力をもって働かれるところにはどこでも起こる。その証拠は宗教改革者たちの生涯に認めることができるし、また最盛期のモラヴィア兄弟団に属する或る人々のうちにも認めることができる。とはいえ、聖霊が注がれることをめぐっては、まだ成就されていないほかの約束がある。それを主が私たちの中で成就してくださることを祈りつつ、私たちはきよい期待の生活を送らなければならない。
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