第 十 六 章  癒やされた者は神を崇めよ



イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。」
ヨハネ9:3


 多くの人は、敬神の念をもつこと(聖潔または従順)は健康な人にとってよりも病人にとっての方がたやすいと考えている。活動的な生活の散漫さの中にあるよりも、沈黙と苦痛の中にある方が、魂は主を求めるようになるし、主との交わりのうちに過ごそうとする傾向があると人々は思うのである。病気は人をより深く神に依り頼ませるというわけである。この理由から、病人は主に癒やしを求めることをためらう。「病気であり続けることが健康になることよりも自分にとって良いことではないとどうして分かるだろうか」と自問するからである。しかしそのように思う人は、癒やしとその結果も神から来るものだということを忘れている。

 次のことを知らねばならない。通常の医学的方法によって病気から解放される時には、それが神の御手みての働きからも解放する結果になる危険が時折あるが、神の癒やしの場合は反対に私たちをいっそう強く神に結び付けることになる。この理由のため、今日でも、イエス・キリストの伝道の初期と同様に、キリストによって癒やされた信者は、病気のままである者よりもはるかにまさってキリストに栄光を帰することができる。病気が神の栄光を現すのは、それが神の力が現れる機会を提供する限りにおいてである。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』(ヨハネ11:4)とあるのを見るとおりである。

 病人がその苦痛によって神を崇めるようにされているとすれば、それは言わば単に必要に迫られてそうしているのである。もしその人が健康と自由を選ぶことが許されたら、その人の心が世俗性に立ち戻ってしまうであろうことは容易に予想される。このような場合には主はその人を病気のままに留め置かれる必要がある。その人の敬神の念は病気によって保たれているものであるからだ。このことから世の人々は、宗教とは病室でのみ役に立つものだと思うようになる。或いは死を迎える人々にとってのみ、またはもう通常の生活で苦労する必要のなくなった人々にとってのみ意味があるかのように思うようになる。宗教が誘惑と罪に打ち勝つ力を持っていることに世の人々が気付くためには、癒やされた信者が世俗の仕事と活動的な生活の中にあっても静まりと清さの中を歩んでいる様子を、彼らが認める必要がある。多くの病人がその苦痛を耐え忍ぶことによって神の栄光を現してきたことは疑う余地がない。しかし神はご自身が聖別された、癒やされた者を通してさらに豊かに崇められるのである。

 「そうするとなぜ、信仰の祈りを通して癒やされた人々は、医学的な処置によって癒やされた人々にまさって神の栄光を現すのか」。その理由は次の通りである。医学的処置による癒やしは、自然界における神の力を私たちに見せる。しかし私たちを神とのける直接の交わりに導くことはない。神の癒やしは神から出たわざであって、聖霊によってのみなされるものである。

 神の癒やしにおいては神と接することが不可欠であるため、良心による吟味と罪の告白とがそれに先立たなければならない(コリント前書11:30-32; ヤコブ5:15-16)。神の癒やしを受ける者は、自分自身を新しく完全に主に献げるように招かれているのである(コリント前書6:13, 19)。この献身は、主の約束を握って主にお任せし、主に献げたものは主が直ちに自分のものとされることを疑わない信仰の行為によって可能になる。この理由から、神の癒やしによって受けた健康が続くためには、癒やす者である神をいつも喜ばせようとする聖潔と服従の生涯が必要とされる(出エジプト15:26)。

 このようにして受けられた健康は霊的祝福をもたらす。医学的な処置によって回復された健康はそうではない。神が身体を癒やされる時は、その身体を神が所有してご自身の住まう宮となすためにそうされるのである。その時に魂を満たす喜びは口にできないほどのものである。その喜びは単に癒やされたことによる喜びではなく、謙遜と至福とを伴う喜びなのである。神の手が私たちに触れたことに気付き、神からの新しい生命を受け入れる至福である。この喜びに満ち溢れているため、癒やされた者は主を讃美し、言葉と行いによって主の栄光を現し、その生涯全体が神のために聖別されたものとなる。

 このような癒やしの結果はいつも同じように現れるわけではないこともまた明らかである。或る場合には人は後退してしまうこともある。癒やされた人の生活は、周囲にいる信者たちの生活によって影響されるからである。周囲の人々の疑いと不一致が長い間には彼をつまずかせることがあるかも知れない。けれどもその時には新しく始めればよいのである。癒やされた者は毎日、自分の命は主の命であることに気付き、それを再確認するからである。その人は主との親密で喜ばしい交わりにますます入れられる。習慣的にイエスに依り頼んで生きることをその人は学び、献身が完全なものになるほど主から力を受ける。

 教会がこの信仰に生きるようになれば教会はどんなに素晴らしいものとなるであろうか。もしすべての病める者が、聖なる者となって主の臨在される証拠を主に期待するように、病気を通して招かれていることに気付くなら、その時には癒やしは次々と起こり、彼らの中に神の力のあかしが生み出される。そして全員が詩篇の詩人とともに声を上げる。『私の魂よ、主をたたえよ。…… 主はあなたの病をすべて癒やす方』と(詩103:2-3)。



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