第 七 章  信 仰 の 道



その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」
(マルコ9:24)


 この言葉は、神の救いと賜物を求める幾千の魂に助けと力を与えてきた。一人の苦しむ子供をめぐってこの言葉が発せられたのは、主イエスからの癒やしを求める信仰の戦いの中でであった。この言葉から、同じ一人の人の心の中に信仰と不信仰との戦いが起こりうることが分かる。そして戦いなしには、主イエスとその全能の力が病を癒やすことができると私たちが信じるようになることはない。この一節には、救い主の力を現実に受けるために必要な励ましを私たちは見いだすことができる。

 私がここで語るのは、病人たちの中でもとりわけ次のような人たちに対してである。その人たちは、主イエスが医学的な治療手段によらずともすぐに癒やしを与える力と意志を持っておられることは疑っていないものの、癒やしを自分のために受け入れる大胆さに欠けている。そのような人々に対してである。その人たちは、キリストの癒やしの力を信じているし、キリストが癒やしをなそうとする善意を持っておられることも一般的な意味では信じている。聖書の言葉を通して、また最近に起きた主による癒やしの実例を通して、主が自分たちを助けることがおできになることを知識としては受け入れているが、彼らは自分で癒やしを受けることに対して遠慮があり、信仰をもって「主は私に聞いてくださった。主は私を癒やされる」と言い表すことにためらいがある。

 まず、信仰がなければ信者は癒やされることがないことに気づく必要がある。苦しんでいる子の父親ははじめイエスに『もしできますなら、私共を憐れんでお助けください』(マルコ9:22)と言ったが、それに対してイエスは『もしあなたが信じることができるなら』と答えている(同9:23)。イエスは癒やす力を持っていたし、その用意もできていたが、彼はその責任をその男に与えた。『「もしできるなら」と言うのか。信じる者には何でもできる』。イエスから癒やしを受けるためには祈るだけでは十分ではない。祈っても信仰がなければ無力である。弱っている人を救うのは信仰による祈りなのだ(ヤコブ5:15)。あなたがすでに主からの癒やしを願い求めたのであれば、あるいは他の人々があなたのためにそれを祈ったのであれば、あなたは何か変化に気付くより先に、まず信仰をもって言うことができなければならない。「私は神の言葉の権威のゆえに、神は私に聞いてくださり私は癒やされると確信している」と。

 この場合、信仰を持つというのは、あなたのからだを無条件に主の手に渡して、あなた自身を完全に主にお任せすることを意味している。信仰は、身体には気付くような変化がないうちから、癒やしを主から来る霊的な恵みとして受け取る。そして『私の魂よ、主をたたえよ。…… 主は私の病をすべて癒やす方』と言って神をほめたたえることができる(詩103:1, 3)。主は癒やしを行われるためにこの信仰を求められるのである。

 しかしどうすればこのような信仰を持つことができるのだろうか。あなたの心の中に不信仰を発見したら、それを神に申し上げなさい。そして神がその不信仰から救ってくださると期待しなさい。信仰は、それを主に支払えば癒やしを買うことができるお金のようなものではない。主はあなたの中に必要な信仰を呼び起し育てることを願っておられる。『私の不信仰をお助けください』とその父親は叫んだのだ。

 自分の信仰がなくならないようにというのがその父親の熱烈な願望であった。主の言葉を頼りに主を信じるということに困難を覚えているなら、その困難をすべて主に告白しなさい。この不信仰を取り除いていただきたいと主に申し上げなさい。そして主のみことばにだけ聞き従う意志をもってその不信仰を主に持ち来りなさい。自分の不信仰を見て悲しむのではなく、イエスに目を向けなさい。主の御顔みかおの光によって、あなたは主を信じる力を見いだすことができる(詩44:3)。主があなたに主を信じることを求めているのである。主に聞き従いなさい。そうすれば主の恵みによって、信仰があなたのうちで勝利を収める。主に申し上げなさい。「主よ、わたしは今でも自分の内に不信仰があることに気付きます。私は信じることに困難を覚えます。自分が癒やされるなどと、癒やしを実現される方を私が持っているなどと、信じることができません。そしてそれでも私はこの不信仰を克服したいのです。主よ、あなたは私に勝利を与えてくださいます。私は信じることを願い、信じようと努め、そしてあなたの恵みによって信じることができると、敢えて申します。そうです、主よ、私は信じます。あなたが私の不信仰を助けるために来てくださるからです」。私たちが主と親密な関係に入り、心と心とが相応じるようになる時に、初めて不信仰が克服され征服されるのである。

 あなたが持っている信仰をはっきり証しすることもまた重要である。主があなたに言われることを信じると、あなたは決意しなければならない。特に、あなたは主の人格を信じると決意しなければならない。主の約束に完全に依り頼みなさい。『信仰による祈りは病人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます』(ヤコブ5:15)。信仰の祈りが病者を救うのだ。『私は主、あなたを癒やす者である』(出エジプト15:26)。イエスに目を注ぎなさい。イエスは私たちの病を担い(マタイ8:17)、彼に来る人を皆癒やされたのである。聖霊に対する期待を心に抱きなさい。聖霊は今は天におられるイエスの臨在をあなたの心にあらわし、あなたの身体に主の恵みの力を及ぼしてくださるのだからである。

 まだ回復を実感することがなくても、今持っている信仰のままで主をほめたたえなさい。ダビデとともに『わが神、主よ、私があなたに叫ぶと、あなたは私を癒やしてくださいました』(詩30:2)と申し上げなさい。神の癒やしとは、それによってからだが回復したと感じられるより先に、霊的に、信仰によってのみ受けることができる霊的な恵みなのである。それを受け入れて神の栄光をあらわしなさい。主がけがれた霊にその子から出て行くように命じた時、『霊はひどく痙攣を起こさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った』(マルコ9:26)。そのようにあなたの病気はすぐには治らないかも知れないし、サタンと不信仰がなおあなたを支配しようとするかも知れないが、そのことを気にかける必要はない。ただ癒やし主であるイエスに親しく依り頼みなさい。彼は必ずあなたを癒やしてくださる。



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