第三十一章  私たちの至高の特権である完全な救い



子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
ルカ15:31


 しばらく前にノースフィールドでD. L. ムーディ氏と会った時に、彼は二年前のケズィックの集会で聞いた最も印象に残った言葉が、最後の説教者が聖句の最後に引いたこの言葉だと話していた。「なぜもっと早く気付かなかったのだろう」。ムーディ氏はそう自問していた。

 放蕩息子に対する父親の愛について、私たちはよく語りもし、書きもするが、しかし同じ父親がその兄の方をどのように取り扱ったかについて考えると、私たちの心はこの父親の驚くべき愛のいっそう真実な意味に気付くのである。それゆえ私はこの章句について語りたい。

 本書の読者の多くは救われたクリスチャンであると思われる。しかしおそらく半分以上は、完全な救いをもっていないのではないだろうか。もし私があなたに「それをすでに得ましたか?」と尋ねたなら、あなたはおそらく聞き返すであろう。「あなたが言うそれとは何なのかよく分かりません。それとは何のことですか」と。

 私の願いは、完全な救いが今あなたを待っているということにあなたが気付くのを助けることである。あなたがそれを経験することを神は望んでおられる。もしあなたが自分はまだそれを得ていないと感じるのなら、私はあなたに、それが間違った状態であることに気付いてほしい。そしてどうすれば今ここでその間違った生活から正しい生活に移れるのかをあなたに教えたい。どうか、この経験を得ていないすべての人がへりくだって祈るように。「父よ、私を完全な救いの完全な経験に入れてください」と。

 まず、神の子であることの至高の特権の話から始めよう。

 いつも父親と共に暮らしていたこの兄には、彼がそれを好みさえするなら、二つの特権が与えられていた。永続的な親交、そして無制限の協同関係という特権である。しかしこの兄は放蕩息子にもまして間違っていた。なぜなら、ずっと家にいたのに、彼のものであるこれらの特権を知らず、楽しみもせず、理解することもなかったからである。この豊かな交わりがずっと彼を待っていて、彼に差し出されていたのに、彼はそれを受けなかったのだ。放蕩息子は家を離れて遠くの国にいたが、その兄は家にいたのに、それを享受することから遠く離れていたのである。

 永続的な親交──地上の父親はその子を愛して、その子を幸せにすることを喜ぶ。神は愛の神である。神はご自身の本性をご自分の人々に注ぐことを喜ばれる。多くの人は、神は御顔みかおを隠されると言う。しかし神をそのように仕向けるものは二つしかない。罪と不信仰である。ただそれだけなのだ。輝くことは太陽の本性であって、太陽は輝き続けるほかはない。神は愛である。そして、全心からの崇敬を込めて言うが、神は愛せずにおられない。神の善意は邪悪な人間に向けられ、神の憐れみはさまよい出た者に向けられることを私たちは知っている。しかし神の父としての愛は、すべての子たちに向かって現される。『いつも私と一緒にいる』と。しかしあなたは言う、「神といつも一緒でいて幸せでいることなどできるだろうか」と。確かにできる。聖書のたくさんの約束がそれを保証している。ヘブル書には次のように書かれている。『私たちはこの希望を、魂のために安全で確かな錨として携え、垂れ幕の内側へと入っていくのです』(ヘブル6:19)。ダビデはしばしば幕屋の中の隠れ場所について語り(詩27:5)、いと高き方を隠れ場とすること、全能者の䕃に宿ることについて語っている(詩91:1)。

 あなたの神である主は、あなたがいつまでも神の御顔の光の中に生きることを望んでおられる。あなたが妨げになると主張しているあなたの仕事や感情や外的状況は、神よりも強いのだろうか。あなたが来て神に求めさえするなら、神はあなたの中に、そしてあなたの上に、光を輝かせることができ、あなたは信者として毎日終日、神の愛の光のうちを歩むことができるということを、あなたは知り、証しするであろう。これが『完全な救い』なのである。

 無制限の協同関係──『私のものは全部お前のものだ』。兄は、父が弟である放蕩息子を歓待してその帰還のために宴会と歓楽の場を設けたことに不満を抱いた。自分には友だちと宴会をするために子山羊一匹すらくれたことがなかったからである。父親はその愛から来る優しさをもって兄に答えた。『子よ、あなたはいつも私の家にいたではないか。あなたは求めさえすればあなたが願い必要とするものは何でももらえたのだ』。私たちの天の父もそのすべての子たちに対して同じことをおっしゃる。

 しかしあなたは言う、「私はとても弱い者です。私は罪に勝つことができません。義であり続けることもできません。私にはどちらもできないのです」と。否、神にはできる。神は何度でもあなたに言うであろう、「私のものは全部あなたのものだ。キリストにあってあなたに与えたのだからである。すべての聖霊の力も知恵も、すべてのキリストの富も、すべての父の愛もだ。私のものであなたのものでないものは何もない。神である私は、あなたを愛し、保ち、恵む神である」と。神がこのように語られるのをすべてあやふやな夢のようの感じる人がいる。憫れな人よ、神の言葉は確かである。そして神がこのすべてを約束しておられるのではないか。ヨハネ福音書の14章から16章までを読みなさい。そこでは主が、私たちがイエスの名によってイエスにあって祈るならその祈りはすべて驚くべき仕方で答えられると告げておられる。クリスチャンはこのような生を生きることが可能であると、私たちはほんとうに信じているであろうか。

 ここまで私たちはすべての者に与えられている至高の特権について見てきた。ここからは私たちは二番目の問題、すなわち神の愛する子たちの多くが低い経験のうちにとどまっていることに話を移そう。どういうことか? 彼らはただ貧困と飢餓の中に生きているのだ。放蕩息子の兄は、富裕な人の息子であって、父のものはすべて彼のものであったのに、子山羊一匹持てないほどの完全な貧窮の中に生きていた。これはちょうど多くの信徒たちの状態である。主が私たちに求めている生き方は、祝福の主との全き交わりに生きることなのである。それに比べて何たる落差であろうか。

 喜びに満たされて生きているかどうか誰かに聞いてみるがよい。彼らは実に、常に幸いに清く生きることができると、信じることすらしていないのだ。「仕事があるのにそんな生き方ができるでしょうか」と彼らは言う。彼らは、自分たちに可能な最も祝福された生活とは、失望と悲しみと嘆きの生活だと思っている。

 私はケープ州に住む一人の献身した婦人に、日頃どう暮らしているか尋ねたことがある。彼女の答えによると、彼女の経験としては生活はある時は明るく、別の時は暗いのであった。そして彼女は、自然界でも明暗があるのだから、恵みの御国みくにでもそうなるのは仕方ないと思っていた。そのようにして彼女はもっぱら貧相な経験に甘んじていたのである。

 しかし私は聖書の中に、信者の経験に夜や闇があるなどと書かれているのを見たことがない。逆である。『あなたの太陽は再び沈むことがない』とある(イザヤ60:20)。にもかかわらず、自分にとって良いことは何もないかのようにほんとうに信じている人がたくさんいる。すでに述べたように、私たちから神を隠すものは何もない。ただし罪と不信仰は別である。もしあなたが喜びのない霊的貧困の中にあって、罪や激情や迷妄に勝つことができないでいるなら、なぜそうなるのかは分かるのではないだろうか。

 あなたは言う、「ああ、私はとても弱い者です。堕落するほかありません」と。しかし聖書は告げているのではないだろうか。主は『あなたがたを守ってつまずかない者とし、傷のない者として、喜びの内に栄光の御前みまえに立たせることができる方』であると(ユダ24)。ある牧師が、神は『できる方』ではあるけれどもそうする意志をお持ちだとは書かれていないと私に反論したことがある。愛する者よ、神は私たちを茶化したりされない。神がご自分はおできになるとおっしゃるのであれば、それは神はそうする意志を持っておられるという証拠なのである。神の言葉を信じなさい。そしてその光のもとに自分の経験を吟味しなさい。

 話を戻そう。あなたは神のために働いて多くの実を結んでいるだろうか。人々はあなたの生き方を見て言うであろうか。「まことに神がこの人とともにおられる。神はこの人を謙遜にきよく保ち、天国の心を与えておられる」と。それともこう言わざるを得ないだろうか。「この人はまったくただのクリスチャンだ。すぐ怒るし、自分の名誉ばかり気に掛けるし、天国の心など持っていない」と。兄弟姉妹、これは神が私たちに望まれる生き方ではない。私たちは富める父をもっている。実の父親なら自分の子供がぼろを着ていたり、靴を履いていなかったり、まともな服を着ていなかったるするところを見たいとは思わないように、私たちの天の父もそう思われない。天の父は私たちの生活を最も豊かな選りすぐりの恵みで満たしたいと思っておられる。教会学校の教師たちは受け持ちの生徒たちが回心するように教え、それを願っている。しかしそのために神が自分を用いてくださっているという確信の持てない教師も多くいる。神との親しい交わりがなく、罪に対する勝利もなく、世に勝つ力もないのだ。

 あなたはどちらだろうか。低い貧しい者だろうか、完全な富める者だろうか。いま告白しなさい。この箇所に書かれている二人の息子は、クリスチャンの二つの種別を表している。放蕩息子は、神から離れて堕落した者たちである。兄の方は、神との完全な交わりに入れない者たちである。二人はどちらも貧しい。放蕩息子が回心する必要があったように、兄もまた大きく変えられる必要があった。兄は悔い改めなければならず、告白しなければならず、完全な特権を求めねばならなかった。同じように、低い水準にあるクリスチャンたちも悔い改め、告白し、完全な救いを求めなければならない。

 あなたがどちらであるにしても、今日来て言いなさい。『父よ、私は罪を犯しました』と。

 それでは聞こう、この恐るべき落差の原因は何か? なぜ経験にこれほど大きな違いがあるのか? 「私がこの完全な祝福を受けることができないのは何の理由によるのか? 聖書はその祝福について語っているし、他の人々も語っているし、実際にそのような祝福の中に生きている人を見たこともあるのに」と自分に問いなさい。そう、理由を問いなさい。神のもとに来て申し上げなさい、「あなたが私に望んでおられる生活を私が生きることができないのはどうしてですか」と。

 いま読んでいる箇所にその答えがある。兄は子供らしくない精神をもち、父について誤った思いを抱いていた。彼がもし父の実際の性格を知っていたなら、彼の生活はまったく正しいものであったはずだ。しかし彼は言った。「私は楽しみのために子山羊一匹もらったことがない。父は裕福なのに、私には何もくれない。私は何度も祈ったのに、神はお答えにならない。ほかの人たちは神は彼らを満たし満足させてくださると言っている。しかし神は私にはそうしてくださったことがない」。

 ある牧師がかつて私に言ったことがある、そのような満たされた生涯は万人のためにあるわけではなく、神が喜ぶ者にそれを与えることは神の主権に属するのだと。友よ、神に主権があることは確かである。神は望むままにその賜物を与えられる。私たちは誰もがパウロやペテロであるわけではない。誰が神の右左の座に就くかは神がお決めになることである。

 しかし、いま問題にしていることは、神の主権の問題ではなく、子供の相続についての問題なのである。神の愛は、一人ひとりの子供にその実際の経験において神の完全な救いを与えるべく注がれている。地上の父親のことを考えてみなさい。いろいろな年齢の子供がいるとしても、どの子も等しく父の顔を見て喜ぶ権利を持っている。確かに二十歳の子には五歳の子よりも多くの金銭を与え、十五歳の子には三歳の子に対するよりも話すことがたくさんあるだろう。それは真実である。しかし彼らに向けられた愛に関しては、みな同じである。子としての特権に関してはみな同じなのである。

 神の子たちに対する神の愛もみな同じである。神を非難してはならない。むしろこう言いなさい。「神よ、私はあなたに間違った思いを抱いていました。私は罪を犯しました。私は父親として自分の子供に対してしていることを、神が私のためにすることができるとは、またそれを望んでおられるとは信じていませんでした。私は子供のような信仰を失っていました」と。あなたに完全な救いを与えられる神の愛と意志と力とを信じなさい。そうすれば変化は必ず訪れる。

 それでは次に回復の方法について考えよう。どうすればこの貧しい経験から抜け出せるであろうか。放蕩息子は悔い改めた。神の約束を見ていながら味わうことなく生きてきた神の子たちも同じようにしなければならない。回心は突然やってくるものであり、悔い改めずに生きてきた長い期間の後には長い悔い改めが続くのがふつうである。キリスト教会の多くの人々は、完全な救いに入るには長い時間が必要だと思っている。確かに、あなたがもしそれを自分でやろうと思うなら長い時間がかかるであろう。というよりいつまでもできないであろう。友よ、そうではないのだ。もしあなたが来て神を信頼するなら、それは瞬時に達成される。神の恵みによって、自分を神に献げなさい。「何のために? 私など何の役に立つのか」と言ってはならない。あなたが罪と弱さの中にあるがままに、父の胸の中に自分を投げ出しなさい。神はあなたを救われる。そしてあなたは暗闇から光まではたったの一歩であったことに気付くであろう。いま言いなさい、「父よ、私はなんと間違っていたことでしょうか。あなたの中にいながらあなたの私に対する愛を信じていなかったとは」と。

 きょう私が来ているのは、救われていない人たちに対してではなく、赦しを受けなければならない事柄がわかっている人々に対して、悔い改めよと招くためである。あなたはこれまで神に対して間違った思いを抱いて罪を犯したことがあったのではなかろうか。より優れた生涯への願望と飢え渇きがあるのではなかろうか。それなら来て悔い改めなさい。神はあなたの不信仰の罪を拭い去ってくださるとただ信じなさい。あなたはそれを信じられるか。不信仰をもって神を侮ってはならない。きょう来て信頼をもって完全な救いを求めなさい。そして神があなたを保ってくださると神を信任しなさい。或る人にはそれが難しいことのように見えるが、そこには何の困難もない。神はいつもあなたの上に神の光を照らし、言われる、『子よ、お前はいつも私と一緒にいる』と。あなたがしなければならないことは、ただ光の内に住み、光の内を歩むことだけである。

 私は二種類のクリスチャンがあるということから話を始めた。一方は完全な救いを受けているクリスチャンであり、もう一方はそれを理解していないクリスチャンである。もし自分がどちらか分からないのであれば、それを明らかにしてくださるように神に求めなさい。しかしひとたびあなたにそれが分かったなら、なすべきことは決まっている。ただ神の御腕みうでの中に自分自身を任せなさい。神が『私のものは全部お前のものだ』とおっしゃるのを聞きなさい。そして言いなさい。「神をほめたたえよ。私は神を信じ、受け入れ、自分を神に献げる。そして神は今ご自身を私に与えられると信じる」と。



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