第 六 章  信仰の量りにしたがって



イエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどその時、そのしもべは癒やされた。
マタイ8:13


 聖書のこの一節は、神の国の基本法則の一つを明らかにしている。神が神につく人々に働かれる方法と、私たちと主との関係を理解するには、この法則を完全にわきまえてそこから外れないようにすることが必要である。神がその賜物を与えるかどうかが各人の信仰・不信仰によっているだけでなく、与えられる賜物の大きさはそれを受ける信仰の大きさに比例している。神は私たちに選択の権利を与えられ、神はその権利を尊重される。それゆえ神は、私たちが神のわざに自分を明け渡し、神に対して完全に心を開く、その程度に応じて私たちを恵まざるを得ないのだ。神を信じるということは、神からすべてを受けるために完全に心を開くということにほかならない。それゆえ、人はその信仰のはかりに従ってしか神の恵みを受けることができない。この法則は、他のすべての神の恵みと同様に、神の癒やしにも当てはまるのである。

 この真理は、病気から与えられる霊的祝福によって確認することができる。二つの問いがある。神の子たちのうちに長いあいだ病に苦しまなければならない者があるのは、神のご意志なのではなかろうか? また、神の癒やしが病そのものよりも大きな霊的祝福であるはずであることを考えると、神はいったいなぜある人々を長年にわたって病床に伏させ、病床にあるままに彼らを聖別してご自身との交わりを与えるということをなされるのであろうか?

 この二つの問いに対する答えは、神はその子たちの信仰に応じて与えられるということである。私たちがすでに見てきたように、教会が世俗的になるその度合いに従って、神の癒やしに対する教会の信仰が薄れていき、神の癒やしそのものが起こらなくなってしまう。そのような教会の信者たちは、彼らの病の癒やしを神に祈ることができること、その癒やしによって彼らが神のみわざのために清められて相応しい者とせられることが、わからなくなってしまっている。そのような人々は、ただ神の意志に服従して病気は自分を世俗から引き離すために与えられたものと見なすために教会に来ている。このような場合、主はその人たちが求めているとおりに与えられる。主はもっと多くのものを彼らに与えようと備えておられるし、信仰の祈りに応えて彼らを癒やそうとしておられるのだが、その信仰がないので彼らは受けることができないのである。

 神はいつも、神の子らがいるそのところで彼らにお会いになる。彼らが弱い者であるなら、その状態のままでである。心から神を受け入れたいと願ってきた病める人々は、その病気から得られる恵みを神から受けられるであろうが、それは彼らが神の意志に自分を適合させることを望むその望みに応じてなのである。彼らは神が彼らの服従を受け入れた証拠として神の癒やしを受けることもできたであろう。しかしそうならなかったとすれば、それは彼らがそれを求める信仰を持っていなかったということなのである。

 『あなたが信じたとおりになるように』。この言葉は別の疑問にも答えを与える。イエスによって癒やされた人々の多くは、ただその当座の苦しみから解放されただけであって、彼らが霊的な祝福を設けたという証拠は示されていない。そうするとはたして、神の癒やしは必ず霊的祝福をもたらすと言えるのであろうか? この場合もまた、その人々が信じたとおりに彼らになされたのである。

 多くの病人たちは、ほかの病人が癒やされたところを見ると、自分をもちょうど同じように癒やしてくださるであろうとの信頼をイエスに対して抱いた。イエスは彼らが期待しているとおりに答えて、それ以外の祝福、心魂のための祝福を付け加えることはなさらなかったのである。イエスは昇天されるまでは、現在のように自由に人の心に入るということがおできにならなかった。聖霊がまだ与えられていなかったからである(ヨハネ7:39)。その当時は、病の癒やしが身体の祝福以上のものになることは稀であった。しかし後になって、聖霊の時代に入ると、罪の自覚と告白ということが、信者にとって受けるべき最初の恵みとなり、癒やしを得るための必要条件となった。このことは、パウロがコリントの人々に宛てた手紙の中で語っていること(コリント前書11:31-32)や、ヤコブが離散した十二部族の人々に宛てた手紙で語っていること(ヤコブ5:16)を通して知ることができる。このように私たちが受けることのできる霊的恵みは、私たちの信仰の量りに従うのである。外面的な現れを伴う恵みにしても、内的生活に影響を与える恵みにしてもそうなのである。

 私たちはすべて病める者、癒やしを求めている者、イエスを自分の癒やし主として知りたいと思っている者に勧める。自分自身の不信仰で自分を妨げるようなことをしてはならない。神の約束を疑ってはならない。『むしろ信仰によって強められ、神を賛美』しなさい(ローマ4:20)。それが神に対して相応しいことだからである。『あなたが信じたとおりにあなたに成るように』(マタイ8:13)。あなたの心全体が生ける神に対する信頼で満たされるなら、あなたは豊かな祝福を受ける。それを疑ってはならない。

 信仰の働きは、いつも容易に認めることができるのであるが、人間の目には不可能で奇妙なことのように映る。私たちはキリストのゆえに愚かな者と見なされることを敢えて望まなければならない(コリント前書4:10)。俗世間の人々の目から、また無知なクリスチャンたちの目から、弱い精神の持主であるかのように見られることを、私たちは恐れてはならない。なぜなら私たちは、神の言葉を典拠として、他の人々がまだ受け入れることができないことを信じているのだからである。だからたとえ神からの答えが遅れているように見えても、あなたの病が悪い方に向かっていても、そのことゆえに希望を放棄してはならない。あなたは神ご自身の言葉という不動の岩の上にすでに堅く足を据えているのである。神の身体の一部であって聖霊の宮であるあなたの身体に、主が全能の力を現してくださることをあなたは既に主に祈ったのである。それだから神を信じ続けなさい。神がすでにあなたを引き受けてくださっているという堅い確信をもって信じ続けなさい。神はあなたの身体について自ら責任を負われたのであるから、神の癒やしの力が来て、あなたを通して神の栄光が現してくださるであろう。



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