食物は腹のため、腹は食物のためにありますが、神はそのいずれをも無効にされます。
体は淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
(コリント前書6:13)
最も博学な神学者の一人は、神にとって、行く道の窮極にある目標は、現実の物質的な身体を持つこと、あるいは身体として存在することであると語っている。実際、神は人間を創造されたことにおいて一度それを成し遂げられたことをすでに見てきた。天にある諸存在が神の子の栄光を観想する時に驚き賞賛するのは、まさにこの点である。イエスは人間の身体を持ったまま、神の御座の前でその栄光を受けるために永遠にご自分の地位を得られた。このことは神が意志されたことであった。そのことは、いつか、キリストの身体を形造る新たにされた人類が、真に、かつ目に見える形で、生ける神の宮(コリント後書6:16)となり、新しい天と新しい地にあるすべての被造物が神の子たちの栄光にあずかるようになった時に、はっきりとわかるであろう。その時には物質的な身体が完全に清められて、聖霊によって栄光を与えられる。この霊化された身体こそ、主イエス・キリストと彼に贖われた者たちの最高の栄誉となるであろう。
物事がこのように新しい関係性に入ることを見越した上で、主は現在のままの私たちの身体に聖霊が内住することと聖霊がそれを聖化することとに、重大な意義を与えられるのである。この真理が信者たちの間で十分に理解されていないために、彼らは聖霊の力が身体の中に働くことを願わない。多くの人々はこの身体が自分のものであると信じて、それを自分に快を与えるものとして使う。彼らは魂と霊のきよめられることが身体に依存していることを理解していないので、『体は主のためにある』という言葉をへりくだって受けることをせず、その真の意味を把握し損ねるのである。
『体は主のためにある』。このことは何を意味しているのであろうか。使徒は言う、『食物は腹のため、腹は食物のためにありますが、神は腹をも食物をも滅ぼされます』。飲み食いする時は、『体は主のためにある』という真理を実践する機会をクリスチャンに与える。私たちは神の栄光のために飲み食いすることを学ばねばならない。食べることによって、罪と堕落が世に来た。悪魔もまた食べることを通して私たちの主を試みようとした。それでイエスは、父なる神の意志に従ってのみ食べるということ(マタイ4:4)によってご自身の身体を聖別したのである。多くの信者は自分の体に注意を払わない。自分の身体が神の奉仕に相応しくなくなるのを避けるために節制を守ることをしない。飲み食いすることが、神との交わりを妨げるようであってはならない。飲み食いすることの目的は、身体を正常な状態に保つことによって交わりを可能にすることにあるのだ。
使徒は姦淫についても語っている。この罪は身体を汚し、『体は主のためにある』という教えに真っ向から背くからである。姦淫は、婚姻関係の外で自己制御を失ったというだけでなく、婚姻関係そのものにおいて自己制御を失っていることを意味する。あらゆる肉欲、あらゆる種類の節制の欠如は、『あなたがたの体は聖霊の宮である』(コリント前書6:19)という言葉の前に罪なのである。
同様に、身体の維持のためになされることはすべて、衣服を着ることも、体を鍛えることも、眠って休むことも、快楽を与えることも、聖霊による支配のもとに置かれなければならない。旧約のもとでは、神殿はただ神のため、神への奉仕のためだけに建てられた。同様に私たちの身体も主のために、ただ主お一人のために創造されたのである。
神癒を受けることの大きな意義の一つは、私たちの身体は私たち自身の意志の軛から解き放たれて主の所有物となるべきものであるということを、私たちが教えられることにある。神は、神が病を通して達成しようとした目的が果されるまでは、私たちの祈りに対して癒やしを与えることをなさらない。神は私たちが病を通して神ご自身といっそう親しい関係に入ることを望んでおられる。身体は主のものであるのに私たちが自分のものであるかのように思っていたこと、また聖霊は病の作用をすべて善に変えようとしておられること、それらを私たちが理解するのを神は待っておられる。神は私たちを、もし私たちが自分の身体を無条件に聖霊の働きに委ねるなら、私たちは自分の内に聖霊の力を経験するようになるであろうとの理解へと導かれる。そしてその時には、神は私たちの身体の中にイエスご自身の命を与えられることによって私たちを癒やされるであろう。神は私たちが完全な確信をもって『体は主のためにある』と言うことができるまで導かれるのである。
ただ魂と霊のためにのみきよめを求めている人がいる。彼らは無知のために、身体とそのすべての神経組織──手、耳、目、口──は彼らにおける神の臨在と恵みとを直接に証しするためにあるということを忘れている。彼らは『自分の体はキリストの体の一部である』(コリント前書6:15)ということを十分に理解していないのだ。
霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。(ローマ8:13)
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。(テサロニケ前書5:23)
主ご自身が手を触れることによって私たちの身体を癒やされる時、そして主が私たちの身体を所有されて、聖霊によって主が私たちの身体の命となり力となられる時、私たちの内にどれほどの革新がもたらされることであろうか。その時にはその人は言い表せないほどの聖と恐れと喜びとの意識をもって自分の身体を生ける供え物として差し出す。癒やしを受けるために、また『体は主のためにある』という言葉が自分にとって真実となるために。
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