第 一 章  赦しと癒やし



「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」
そして、体の麻痺した人に、「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
マタイ9:6


 人間においては二つの本性が結び合わさっている。人間は霊であると同時に物質であり、天とであるとともに地であり、心魂でありかつ身体である。一方において人間は神の子であるが、他方においてはその堕落ゆえに破滅に定められた者である。心魂における罪と、身体における病とは、いずれも死が人間を支配する権を有していることを証言している。この二重の本性がともに神の恵みにより贖われたのだ。詩篇の詩人は、彼の内にあるすべてを挙げて主をその恩恵のゆえにほめたたえる。彼は声を上げる、『私の魂よ、主をたたえよ。…… 主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病をすべて癒やす方』(詩103:1, 3)と。イザヤはその民の救済を預言する中で述べている、『住民は、「私は病んでいる」とは言わず、そこに住む民は罪を赦される』(イザヤ33:24)と。

 この二つの予言は、イエスが贖う者として地に来られた時に、あらゆる想像を超えた形で成就した。地上に天国を創建するために来られたこの人によってどれほど多くの癒やしが行われたことであろうか。この人自身の活動からも、またその後に弟子たちに残されたこの人の命令からも、私たちははっきり知ることができる、この人がもたらした救いにおいては福音宣教と病者の癒やしとが相携えて進むことを。この両方があることが、この人がメシアとして働かれている動かぬ証拠なのである。『目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…… 貧しい人は福音を告げ知らされている』(マタイ11:5)。イエスは人間の心魂と身体とをともにご自身に引き受けられ、罪の働きから両者を同等に解放するのである。

 この真理は、この体の麻痺した人の話において最も明白に示され、証明されている。主イエスはこの人に対して言われた、『あなたの罪は赦された。…… 起きて歩け』と(マタイ9:5)。罪の赦免と病の癒やしとは相互に補完する関係にある。なぜなら、すべてを見そなわす神の目から見ると、心魂と身体が一体であるように、罪と病気も一体であるからである。聖書が教えるところによれば、主イエスは罪と病とを、私たちが見るのとは異なる光において見ておられた。私たちが見るところでは、罪は霊的領域に属する。罪は義なる神の不興を買うのであるから、神によって正当に罰せられる。それに対して病気は単に私たちの体がたまたま現在おかれている状態であって、それは神の罰とも神の義とも関係がないように思われる。病気は神の愛と恵みの証拠であると主張する者さえある。

 聖書も、イエス・キリストご自身も、病気をこのような視点から語ることはない。病気は神の祝福であって神の愛の証拠であるからそれに耐えなければならないなどとは、一言も言ってはいない。主は確かに弟子たちに、彼らが耐えなければならないさまざまな苦しみについて語っている。しかし病気については、それは罪とサタンが引き起こす害悪であるから私たちはそれから逃れるべきであるとされている。彼は確かに弟子たちには自分の十字架を負って彼に従うように命じているが(マタイ16:24)、病人に対してその病気を自分に引き受けるようにと教えられたことはない。イエスは病人を癒やされたのだ。彼は癒やしを、神の国に属する恵みの一つと捉えていた。心魂にとっての罪と身体にとっての病気とは、ともにサタンの力の現れである。そして『神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです』と言われている(ヨハネ一書3:8)。

 イエスは人類を罪と病気から救うために来られた。それは父なる神の愛を知らしめるためであった。イエスの働きにおいても、弟子たちへの教えにおいても、また使徒の働きにおいても、赦しと癒やしとはいつもともに現れている。それが告げられる人々の成長と信仰の程度によっては、どちらか一方がより明らかに見て取られることはあるかも知れない。癒やしが赦しを受けるための準備のようになっている場合はある。赦しが先行して、赦しのしるしとして癒やしが後から来ることもある。

 イエスは、その伝道の初期において、たくさんの病める者を癒やされた。それは、彼らがその癒やしが可能であることを信じる用意ができていることを認められたからである。それと同じようにイエスは、彼を罪を赦すことのできる方として信じ受け入れる心を探し求められた。体が麻痺している人を見て、その人が赦しをすぐに受け入れることができることを見ると、イエスはまずその最も重要なことをなされた。それに続いて、その人にすでに与えられている赦しのしるしとして、癒やしがもたらされたのである。

 福音書の記述を読むと、私たちは、当時のユダヤ人にとっては罪の赦しを信じることは神の癒やしを信じること以上に困難なことであったことを知る。現在はむしろ正反対である。キリスト教会は罪の赦しについての説教をたくさん聞かされていて、渇いた魂はいつでもこの恵みの使信を受けることができる。神の癒やしについてはそうではない。神の癒やしが語られることは稀であり、それを経験したことのある信者は多くはない。

 福音書の時代には、キリストはまだ回心していない多くの人々に癒やしをなされたが、このような癒やしは今日では当時に比べて稀になっていることは事実である。癒やしを受けるためには、罪を告白してきよい生き方を始める決心をする必要がある。このことが、人々が癒やしを受けることは赦しを受けることよりも困難であると感じる理由になっていることは、疑いを容れない。また同じ理由から、癒やしを受けた人々は必ず、それと同時に新しい霊的祝福を受け、主イエスとの一体感を深め、主イエスをより深く愛し彼に奉仕することを学んでいる。不信仰はこの二つの賜物を別々に扱おうとするが、両者はキリストにおいていつも一体なのである。彼はいつでも、心魂と身体の両方を同じように救う救い主であって、赦しと癒やしとをともに与えようと待っておられるのである。贖われた者はいつでも声を上げることができるのだ、『私の魂よ、主をたたえよ。…… 主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病をすべて癒やされる』と(詩103:1, 3)。



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