まことに主はあなたを救い出してくださる。
鳥を捕る者の網から、死に至る疫病から。
……
夜、脅かすものも、昼、飛び来る矢も、あなたは恐れることはない。
闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びも。
……
長寿を授けて彼を満たし、私の救いを見せよう。
(詩91:3, 5-6, 16)
彼らは年老いてなお実を結ぶ。命豊かに、青々として。
(詩92:14)
『信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます』という使徒ヤコブの言葉(ヤコブ5:15)に対して、しばしば次のように反論する者がある。信仰による祈りによっていつでも癒やされるという約束が与えられているなら、どうして死というものがあり得るのか。さらに次のように言う人もある。神は人生の長さを決められているのだから、その終わりは病気で死ぬように定められたのではないだろうか。そうではないと病気の人にどうして分かるのか。そのように定められているなら、祈りは無駄であるし、癒やしを祈ることは罪になるのではなかろうか。
この反論に答える前に、次のことは確認しておかなければならない。この反対意見は、イエスを病気からの癒やし主と信じる者に向けられているだけでなく、ヤコブ書やほかの箇所に明白に記されている神の言葉と約束そのものに対して向けられたものであるということを。神の約束が私たちにある種の困難を感じさせるとしても、それを変更したり制約したりする自由を私たちは持っていない。また、約束が意味するところを私たちが信じようと決心する前に、まずその意味が私たちに分かりやすく説明されなければならないなどと要求することもできない。私たちはまず約束を無条件に受け入れることから始めなければならない。その後に初めて神の霊は、私たちの精神が教えを受け入れ、光を与えられることのできる状態にあることを認めるのである。
このヤコブ書の真理は長いあいだ教会において黙殺されてきたものであるが、この真理について言えば、それは聞いてすぐに理解できるようなものではない。ただ段階的にのみ、研究と服従とを通して、その重要性は理解されるのである。この真理が信仰によって受け入れられた後に、それが信者に命を与えるのと比例して、聖霊がその真理に新しい光と悟りとを加えるのである。神の癒やしが教会を離れたのは、教会の不信仰のためであったことを思い出しなさい。聖書の真理は、誰かに説教されたり説明されたりしなければ成り立たないようなものではない。聖書はそれ自身だけで十分なのだ。『正しい人には闇の中にも光が昇る』(詩112:4)。正しい人は神の言葉に従う用意ができているからである。
癒やしの約束があるならなぜ死があり得るのか、と問う人々に対する答えは簡単である。聖書は、七十年か八十年が通常の人間の寿命だと告げている。イエスを病気からの癒やし主として受け入れている信者は、この神の言葉が告げるところに満足して安らうであろう。その人は七十年の命を期待することが許されているからだ。そうならなかったとしても、その信じる人は自分を聖霊の命令に従わせる。聖霊は、もし何事かがその人が七十歳に達するのを阻むとしても、その人に神のご意志を見分ける力を与えるであろう。法則には必ず例外があり、それは地上の物事に当てはまるように天上の物事にも当てはまる。しかし法則としては、私たちの天の父はその子たちが健康であって、彼のご用のために元気で働くことを望んでおられる。このことを、イエスやヤコブの言葉を通して聖書に従って私たちは確信している。
同じように天の父は、病気の人々が罪を告白するなら、或いは信仰によって癒やしを祈るなら、すぐにその人々を病気から解放させたいと望んでおられる。救い主と共に歩んできた信者は、神の癒やしから来る力によって強くされ、その結果、その身体は聖霊の影響下にある。このような人は、死の時を迎えても、病気によって死ぬ必要はない。イエス・キリストのうちに眠りに落ちるのである。それがその人が死の時を迎えた時の死に方である。その人にとって死は労働の後の眠り、安息への没入に過ぎない。『そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる』(エペソ6:3)という約束は、新約のもとで生きる私たちに宛てられたものである。信者は、私たちの弱さを負ってくださる救い主を見上げることを学ぶほどに、約束が文字通りに成就することを求める自由を得ることになる。『長寿を授けて彼を満足させよう』(詩91:16)、『彼らは年老いてもなお実を結ぶ。命豊かに、青々として』(詩92:14)との約束が。
同じ聖句は、次の第二の反問の答えにもなる。なぜ病人は、人の命の長さを定めたもう神が、その病気によって自分が死ぬように定められたのではないと知ることができるのか、もしそのように定められているなら祈りは無駄であるし、癒やしを求めることは罪なのではないのか、という問いである。
病気の人は聖書から、神の子たちがその罪を告白するなら、信仰の祈りに答えて彼らを癒やすことが、神の御心であることを知る。それ以外の試練からは彼らが免除されるということにはならないが、しかし病気に関しては、彼らはそれから癒やされる。なぜなら、病気は聖霊の住まいである身体を攻撃するものだからである。したがって病人は癒やしを求めなければならない。神の力が彼の内に現れて、彼が神の意志を実現することを通して神に仕えるようになるためである。ここでは人は神の現されている意志にすがるのである。現されていない意志については、神は神と共に歩むしもべにご自分のみ思いを知らしめられるということを、彼は知るようになる。
ここで言わなければならない重要なことは、信仰とは、神にその約束に従ってふるまうことを義務づける論拠のようなものとは異なるということである。信仰とはむしろ、自分の父親を崇拝して信任する子供の気持ちに似ている。信仰を持つ者は、神の愛が神を動かしてその約束を成就させることを期待する。彼は、神は誠実な方であって、彼が死に旅立つ瞬間まで、その魂にだけでなく身体にも、贖いから流れ出る新しい力を分け与えてくださるということを知っているのだ。
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