第  六  日



ひとつこひつじあさに……これをさゝぐべし …… これすなはちなんぢらが代々よゝたえず集會の幕屋の門口かどぐちにてヱホバの前に献ぐべき燔祭はんさいなり われ其處そこにて汝等なんぢらに會ひなんぢものいふべし』(出エジプト記二九・三九四二

 あしたに献ぐる常燔祭じょうはんさいなる燔祭はんさいのほかに献ぐる罪祭(民二八・二〇〜二三)はただキリストのみのひな形であります。又、酬恩祭しゅうおんさいは私共と私共の神に献ぐる物とに関した意味を持つのでありますが、燔祭はんさいはキリストと私共と両方に係わった意味を持っておるのであります。

 燔祭はんさいの取り分けきわだった点は、それが全部祭壇の上にのせられ、その全体が火となって神の聖前みまえに昇りく点にありました。他の祭物そなえものは時折携え来られたのでありますが、朝の燔祭はんさいは、日毎、携え来らるべきでありました。それがその一日の神への奉仕の始めであったのであります。

 しかしてクリスチャンもまた、毎朝、その燔祭はんさいを携え来るべきはずであります。如何どういう意味でありますか。すなわち、毎朝、おのが罪のために献げられし神のこひつじに眼をそそぎつつ神に近づききたります。又、如何いかにイエスが自らを全き燔祭はんさいとして神に献げ給いしかを眺めつつ、自らもまたくなすべきであることを学ぶのであります。

 私共はその死に於てキリストとひとつであります。又私共の生涯もしゅのそれの全き模倣でなければなりません。しかも同じ霊は私共のうちにも宿りい給います。さればこそ私共は、キリストのいさおある壇の上に、神によろこばるるきよける祭物そなえものとして自らを横たえて神に献ぐるは当然のことであります。すなわち自らを全く神にまで犠牲いけにえとなし奉るのであります。

 クリスチャンよ! 毎朝この犠牲を成し果すはおおいなることであります。栄えあることです。福祉さいわいなる一日の秘密であります。御霊みたまの火はかかる犠牲の上にこそくだりたまいます。心を静め、ただわれひとりある中に、充分時を取ってついに内心に確かめられなさい、『わが祭物そなえものは壇上にあり、聖父みちちよろこびてこれを受納うけいれ給う。火はこれを焼き尽したまえり』と。



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