第 四 日
『汝等……朝にはパンに飽べし 而して我のヱホバにして汝等の神なることを知にいたらんと。…… 人々各その食ふところに循ひて朝每に之を斂めしが日熱なれば消ゆ』(出エジプト記十六・十二、二一)
これらの聖句の中に、マナについての法則が示されております。即ち主はこれを『朝』の中に降し給う。これは朝の中にあつめられるべきでありました。朝の中に自らのマナをあつめることを怠りました者は、終日ひもじい思をしながら暮さなければなりませんでした。
しかし、これは皆、我等の福祉なる救主、主イエスのひな型であり、影でありました。主御自身こそは天より降れるパン、かくれたるマナであります。信仰のまだいたって弱い者でありましても、信者は、まず朝に於てこそ、神に近づきその日の分を頂戴しなければなりません。
聖言を読めばよいというのではありません。聖言はその中にこの生命のパンを供する器であります。信者は聖言を読むばかりでなく、これを味わい、黙想し、にれはまなければなりません。しかしてそのなかに、生命のパンとして活けるキリストを識り奉り、受け納れ奉らなければなりません。イエスは『かくれたるマナ』(黙示録二・十七)であります。かく朝まだきの静けさの中に、聖言の前に、臨在のうちに、心を静めて読んで味わい、味わっては読むその中に、主は自らを顕わして下さいます。触れ、交わり、飽かしめて下さいます。かくて全く新しくなって立ち上がることが出来ましょう。
ですから唯祈るだけでは十分ではありません。祈禱はマナを求めることであります。祈禱は応答えられ、求むるところは得られ、たしかに現実に、生命のパンを見出し奉ったと確信しなければなりません。かくて主は、わが糧、わが力の源泉、終日偕なり下さる活けるおかたとして立上らして下さるのであります。
これは信仰によって成し遂げられます。信仰は見、見出し、語り、又喰います。信仰によって私は、朝に、わが生命としてイエスを見上げ奉ります。信仰によって、私に対する主の愛を十分に感じながら、自らを主に明け渡し奉り、主はその愛の故に今日一日も私の生命となり下さることを確信いたします。これが私の霊魂の全き確信となるまで、私は立上りません。信仰によって、私は今日も終日、彼を所有し奉り得ることを感謝し、──かくて、この一日のために、イエスはわが生命でありたもう、との確信より来る安息と喜悦とのうちに、熱しゆく日中の働きへも出でゆくことが出来るのであります。
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