第 二 十 五 日
『ヱホバよわれらを惠み給へ われらなんぢを俟望めり なんぢ朝ごとにわれらの臂となり また患難のときにわれらの救となりたまへ』(イザヤ書三三・二)
実業に従事する人が自ら沢山の資本を持ちませんで、経済上の援助を与えてくれる富豪の友人を持っています時、『あの友人は彼に取って強い「腕」だ』といわれることがあります。聖書の中には、『なんぢは大能のみうでをもちたまふ』(詩八九・十三)、『ヱホバ……その大能の臂をさし誓ひて』(イザヤ六二・八)、『もろもろの島は……わがかひなに依賴ん』(イザヤ五一・五)等の聖言がありますが、ここにもまたこの祈禱があります。『ヱホバよわれらを惠み給へ、われらなんぢを俟望めり、なんぢ朝ごとにわれらの臂となり、また患難のときにわれらの救となりたまへ』と。
これは何たる祝福のことでありましょう! 信者が、毎朝、かかる祈禱を捧ぐるために時間をかけて待望み、かくして、まず『朝ごとにわれらの臂となり』との祈禱は聴かれ、真実、神は我を支うる強き臂にていますとの活ける確信を頂いて後に、その日の誘惑と戦闘に出で行くとは! クリスチャンよ、毎朝この事実を把握するためには、労を惜しみなさいますな。さらばあなたは、この聖言の意味を解するにいたりましょう。『かれらは……おのが臂によりて勝をえしにあらず 只なんぢの右の手なんぢの臂……によれり』(詩四四・三)。
しかしこのことのためには、まず『われらなんぢを俟望めり』と申し上げなければなりません。神は霊であります。ですから、唯、霊的にのみ知られうるおかたであります。聖霊が彼とその強き右の臂とを私共に示し給わなければなりません。御聖霊は私共が己の臂や力に全然頼らないように、しかしてその代りに真に、信仰によって神の腕に依頼むように私共に教え給わなければなりません。彼はすべて彼を待望む者にかくなし給います。かくて神は『朝ごとにわれらの臂と』なり給うのであります。
| 総目次 | 祈禱と序文 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |