暁 の 待 望
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アンドリウ・マーレー著
THE MORNING WATCH
Rev. Andrew Mourry, D.D.
祈 禱
主なる神、あなたのいつくしみの故に、全地、自然界に朝毎にみずみずしく新鮮であります。あなたを『朝の神』として識り奉ることを教え給え。あなたはあなたの御僕らのために、この朝の時に於て如何ばかりのことをなし給いましたか。今それらのことを語る聖書を想う私の黙想を祝し、なおなおこの『朝の時』を貴ぶことを学ばしめ給え。願わくばこの朝の時こそわが神との福祉なる交際の時たらんことを。主よ、しかして、これは又あなたの憐憫によりて、わが家庭の祝福の時であり、それによりて彼等が終日あなたに近く過すことをえんことを。しかして御前に伏して希い奉る。あなたの凡ての民の家々に於て、朝の家庭礼拝は聖く厳守せられ、その唯一の方途によって彼らの終日が聖潔く保たるるに至らんことを──。 アーメン
緖 言
緒言と申しますよりも感謝の言として数言しるしますことは、私の歓喜といたすところであります。
博士アンドリゥ・マーレー氏の著書は紹介を要しません。これは既に世界的であります。敬虔なる文書に関心を持たるる士にして足を一度海外に踏み出された方は、都市の至るところの大書肆に、同博士の著書の広い場所を占めているのを注目せられたことでありましょう。これは実に十四ヶ国語に翻訳されております。
私は目下編纂中の氏の伝記に関連して著書や大型トラクトの表を製作いたしましたがその数は百三十を超えております。
氏の著書には氏一流の新鮮味と霊力と濃やかなる愛情と霊の洞察力とがあり、これは実に永久的価値を有するものであります。読めば読む程尚読みたいとの念を盛にし、二度、三度読む毎に常に新しく、又常に深味を味わわしむるものは氏の著書の特長でありまして聖書そのものを思わしむるものがあります。
これは氏の逝去後最初の刊行物であります。愛嬢ミス・エンミ・マーレーの経営にかかる救済ホームのために出版せられたものですが、極めて敬虔な、又教訓的実際的のものゆえ、特に初心の方の助となることを疑いません。
マーレー博士は既にペンを横たえてその大なる報酬を天上に於て受けておられます。然れど氏は死して尚その著書に由て語る。謙りて祈るは、この書も亦既刊先行のものの如く多くの求むる霊魂を慰め、強め、励まさんことであります。氏自身かつて仰せられたことがあります。自分の書の中心的大使命は外でもない──主イエスは私共が既に味識し奉りおるはるか以上、私共に取って尚々それ以上のものたらんことを常に望んでおらるるというこの大真理であると。そうです。既に識り奉ったところもほんの緒口にしか過ぎません。主は私共にいよいよ自己生命を喪わしめ、そこより救い出し、しかして神の光と生命と愛とをもって私共を充さしめんと待ち侘びていたまいます。希わくはこの小冊子を読むことによって読者諸兄姉のこの恩惠深き一事を経験するに至られんことを。
一九一七、八、四、喜望峰にて
英仏聖書協会書記
デ・エス・ビ・ジユベルト
序
つい先頃、私共の教会の一人の長老が申しました。我等の会員の中に夜にしか家庭礼拝を保たないものがかなり沢山あるのではなかろうかと。その人自身としては毎朝彼の全家を集めて神の聖顔を求めずしては、その日一日やって往けない経験を持っているのでありました。
その後、一再ならず、この問題が私共の教会の総会に持ち出さるるのを見まして、はからずも、私の心に浮ばしめられたのは、この朝の時間に於て聖書の言は何といっているかを熱心に振返り見るようにすべてのクリスチャンに求むるは良いことであろうということでありました。然らば私共は果して自らの朝の祈禱に忠実であるかどうか、神様が私共に与え度く願っていらるるその霊とその恩恵をもって祈禱を勤めているかどうか、又その同じ恩恵に全家族をも与らせたいと配慮しておるかどうか、自らの実状を認めることが出来てくるでありましょう。
かの小冊子、『暁のまもり』に於て私はむしろ多く幼稚な信者のために書きました。失敗の主な原因は、概ね、毎朝、主イエスと共に静かに交わることを怠るにあることを彼等に指摘するを願ったのであります。この小著はすべてのクリスチャンに呼び掛けております。願わくは主恩み深くこれを用い給い、朝の時間を正当に用いることによって、如何ばかりの恩恵の宝庫の与えらるるかを示し給わんことを。既にそれを識る者は、独り静まる早朝の祈の恩恵をそのすべての友に語って頂きたい。又、この小冊子を広く薦むることに助力して頂きたいものであります。かくて又殊に朝の家庭礼拝が広く実行せらるるに至るよう、御助力を希うのであります。
アンドリウ・マーレー
訳 序
基督教は物ではない、お方であるとは味わうべき言葉であります。蓋し、活ける御方の御顕現の前には、理屈も議論もいつか消し飛んで俯伏、礼拝、唯、愛に溶かされて黙するばかりであります。ここに生命があり、みずみずしい新鮮さがあり、一切を更新する能力があります。基督教も基督者もこれによって二十世紀の間支持されて参りました。新しくされ、強くされ、満ち足らしめらるるためにはいつもここに来らなければなりません。
朝毎に、昨日を忘れて、朝の第一の時を、然り、身も心も思いも未だ何ものにも染まぬ白紙、新鮮そのものなる時をまず主に献げて御前に座す。唯、読書し祈禱するというのではない。活ける御方に対座し奉りて覗い、聴き、触れ申すという。福祉ならざる筈がありません。これを致しませんから衰えます。古びます。これをなしてこそ日々新たでしょう。育ちましょう。簡単な事実ですが、この簡単なところで、皆やられているのであります。
一日、教友コリンス兄に招かれてお交わりを頂いた時、談、偶々マーレーのことに及び、兄は南アフリカにいられた関係からいろいろ珍しく新しい噂を承ったことでありましたが、その節、示されたのがこの小冊子『The Morning Watch』でした。Night Watchが夜番、寝ずの番なら、これは払暁の見張り(第三日目参照)とでも申しましょうか。書かれた動機は、家庭礼拝をどうしても朝に保つようにとのすすめにあるようですが、そのために個人個人、亦、如何なる困難を排しても『朝』を守望るべきであることを勧めたものであります。簡単、単純な日毎の一章ですけれども、短いものだけに熟読玩味しつつ、朝の静まりの時の栞とする時、自ら臨在に接する感があり、事実、主に見ゆる助けとなるを覚えます。拙訳を如何ともすることが出来ませんが、著者を用いし御霊、静まる読者を助け給わんことを。
『暁の待望』と致しましたが、朝毎に、太陽の出ずるを前にして主に見ゆる我等の霊魂の態度はそのままの『かの朝』を憧憬れ、かの朝、顕われ給ふ主をまつ待望であることを思わしめられます。主の臨在この小冊子に、何処の果までも、伴なり給え!
『ああその朝、救主に我ら遇わん!』
昭和八年三月 聖書学舎の一室にて
小 島 伊 助
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