第 十 七 日
『ヱホバよ 朝になんぢわが聲をきゝたまはん 我あしたになんぢの爲にそなへして俟望むべし』(詩篇五・三)
ダビデはここに彼の願望をあらわして朝毎に欠かさずその声を神の御前に聞こえしめんと言い、又その確信を表して神は必ず彼の声を聴き給わんと申しております。朝は彼の祈禱を献ぐる時、また祈禱の応答を得るの時でありました。あなたも亦此等の言語をとり、充分なる確信もて神の御前にそれらを申上げなさい。『ヱホバよ 朝になんぢわが聲をきゝたまはん』と。
『我あしたになんぢの爲にそなへして』。この『そなへる』という語は、壇の上に薪柴を陳べ(レビ一・七)、薪柴の上に供物を陳べ(同一・八、十二)、特に朝の燔祭の羔(レビ六・十二、民二八・四)をならべるなどに用いられ、又供の案のパンをそなえつくる(出四〇・四、二三)などにも用いられております(朝の犠牲は日の出前に屠られました)。
兄姉よ。朝毎に神の御前にて『そなへ』られとうございます。忙しく跪き祈禱を作文することを知っておるからとて、性急に祈り出してはなりません。まず『汝の神にあふ準備』をなしなさい。徐ろに座して、その偉なる聖の中に於て、神につける正当なる観念を得んため、数分静まりなさい。あなたは如何ばかりの恐懼と畏敬、如何ばかりの真実と至誠、又、全き服従と従順とをもって神に近づくべきであるかを考えなさい。心はまさしく壇の上にならべられたるや、生涯も奉仕もありのままに、又順序正しく御前に整えられたるや、火はそこに降ります。
『我あしたになんぢの爲にそなへして俟望むべし』。アーメン
『俟望むべし』或いは『見上げん』。祈禱の時、神を俟望みその応答を期待することをなおざりにしてはなりません。主を見守りましょう。これは朝の祈と終日の生涯との間の連鎖です。『われひねもす汝を仰ぎ望みたり』(詩二五・五、八六・三)とは、朝に於ての神との接触の継続にほかなりません。さらばしばし共に申上げましょう、『ヱホバよ 朝になんぢわが聲をきゝたまはん 我あしたになんぢの爲にそなへして俟望むべし』と。
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