第 二 十 一 日
『朝になんぢの仁慈をきかしめたまへ われ汝によりたのめばなり わが步むべき途をしらせたまへ われわが靈魂をなんぢに擧ればなり』(詩篇一四三・八)
前の場合にダビデは申しました。『なんぢの仁慈はいのちにも勝れるゆゑ』(詩六三・三)と。朝、彼が醒めて新しき一日の生涯に加えられおるを見ました時に、直ちに彼の衷に起りましたのは、生命そのものにも勝り、又彼に取って生命そのものよりも尚欠くべからざるものにつける想いでありました。即ち神の仁慈であります。神の仁慈なくして生命が何でありましょう。神の仁慈なくしてあるよりは、寧ろ生命なきことをこそというのであります。
さて、この恩恵を堅うするために、彼は如何にしておりますか。答はこうであります。彼は朝を神に捧げて、その仁慈を知覚せしめて下さいと求めております。即ち彼は心を開いて静かに待望み、神が彼に何と宣うかを聞かんといたしております。これは、朝、単に、何かを読書し、又、祈禱するくらいのことではありません。『信仰』とはそれをもって私共が神を『聞く』ことの出来る耳であります。信仰は神の臨在のうちに自らをすわり込ましめ、主の近く在し給うを知覚しては御前に己を全く明け渡し奉ります。信仰は『なんぢの仁慈をきかしめたまへ われ汝によりたのめばなり』と沈黙の祈禱を奉りますが、主は又御自身の神らしき方途をもってこれをなしとげ給い、聖霊を通して霊魂に、御自身愛をもてかえりみい給うことと、喜びをそそぎい給うこととを新しく確信せしめ下さいます。即ち信仰によって霊魂は自らが神に喜ばれおるとの証明をいただくのであります。
何という福いなる朝でしょう! 神が私共にその仁慈を聞かしめ下さる朝よ! しかも毎朝毎朝がそのようでありましょう。かくてや霊魂は悦ばしくこの次の祈を奉ってその終日のために応答と成就とを期待することが出来ましょう。『わが步むべき途をしらせたまへ われわが靈魂をなんぢに擧ればなり』と。
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