第 六 章 



 ここに主は真正の過越の節を示したまいます。五章において主は煩っている者に安息を与えたもうことを見ます。本章において主は饑える者を飽き足らしめたもうことを見ます。
 五章はエルサレムで行なわれましたことです。これはガリラヤのことです。

【一、二節】

 主の四周に多くの饑える者がありました。これから後に身体の饑える者を見ます。けれどもこの二節を見ますならばこの人々は心中に饑え渇きましたことを見ます。私共の四周に同じ有様を見ます。私共の四周には饑え渇くごとく神の恵みを慕う魂がたくさんあります。

【三、四節】

 ユダヤ人の過越の節とあります。旧約聖書を見ますといつでもヱホバの過越の節と称われます。けれども今この節によって神につかえることをせず徒に儀式ばかりを重んずるようになりましたからユダヤ人の過越の節と言います。

【五、六節】

 ここに『目を上げ』とあります。四・三十五にも『目を上げて見るがよい』という言があります。主は同じ心をもって目を挙げたまいました。『フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた』。フィリポはこの地の産でしたから彼に尋ねることは理に合いました(ルカ九・十、ヨハネ一・四十四)。
 この六節を深く味わいとうございます。主はいつでも私共に明らかなる導きを与えたまいません。たびたび私共の心中に五節のごとき問いを起こしたまいます。何故ですかならばフィリポの信仰を起こしてその懇求を応えるためでありました。主はフィリポをして、人間の能力では必ず出来ぬと考えさせたまいとうございます。主はかく私共を思わしめ私共を感ぜしめそれに由りて神の権能に依り頼むように私共を導きたまいます。けれどもフィリポはそういう考えはありません。フィリポはただ目で見ることばかりを答えます。

【七節】

 実に肉に属ける思想です。これは私共の心をも指しませんか。私共は主の働きについて同じ肉に属ける思想がありませんか。私共はしばしばここに目で見ゆる方法がありませんから、そんな働きは出来ませんという思想を持ちませんか。フィリポはたぶん心中に、今ユダの懐中に何程の金があろうか、たぶん二百の金はあるだろう、これを悉く使用するならば人々に少しずつくらいはどうかこうか与えられるだろうと思いました。人間の全力を出しますならば人ごとに少しずつ与えることは出来ます。これに十二節を対照なさい。『人々が満腹したとき』とあります。フィリポは金の力をもって人々に少しずつを授けとうございました。けれども主の道はそれよりも実に幸福ではありませんか。主の言に倚り主の権能に頼みますならばみな飽きたりと。私共は全力を出し方法を尽くしますならば人ごとに少しずつ与えることができるかも知れません。けれども主の権能に依り頼みますならばみな飽きたりという結果を見ます。
 モーセも一度不信仰に陥りました。民数記十一・二十二をご覧なさい。神はこの二十節の約束を為したまいました。けれどもモーセはただ目で見ゆることを計算しまして、神はご自分の約束を成し遂げたもうことはできぬと思いました。この世の荒れ野においては人間の飢え渇く者を飽かしめる方法がありません。人間は各様の豆莢を食べて、自分の腹を飽かしめとうございます。けれどもこの世においては真実の満足を与えるものはありません。しかるに主イエスは荒れ野にある者と共におりたまいます。主はこの世におりたまいます。その時に形を持っていたまいました。いま霊によって同様にこの世にいたまいます。或る人はこの世の荒れ野の真相が解りましたから、それを捨てて主の恵を待ち望みます。かような人は飽くほどに恵を受けます。けれども他の人々は主を捨ててこの世の荒れ地に世の砂漠の中に、満足を与えるものを求めます。或いは財宝、或いは名誉、或いは快楽、そういう世に入ることによって満足を求めます。けれどもそれで飽かしめることはできません。かかる時に懸念すべきものは何でありますか。私共は銀二百のパンがあるかなきかは懸念すべきことではありません。けれどもパンを与えたもう者と共におりますかおりませんか、これは懸念すべきことです。私共は私共に与えられるものについては考えるに及びません。けれども私共に第一大切なることはそれを与えたもう者と共におるや否やについて考えることです。

【八、九節】

 アンデレの心中に芥子ほどの信仰がありましたと思います。主の問いに由りてアンデレの心中に信仰の分子が起こりました。けれども終わりに少しく遠慮して、『けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』と言いました。また不信仰に陥りました。けれどもアンデレの心中に小さき真正の信仰がありましたと思います。またその信仰の分子に導かれて主はこの奇跡を行いたまいました。主はこのアンデレの言い出しましたことに依りてこの奇跡を行いたまいました。私共の心中に芥子ほどの信仰がありますならば主はそれによりて働きたもうことができます。けれども信仰の分子がないならば主は働きたもうことができません。
 この子供のことをご覧なさい。この人は自分のために弁当を携えて参りました。多くの人々の中にただこの子供だけが弁当を携えて参りましたと思います。けれども喜んで自分の弁当を渡しました。主が何をなしたもうか少しも知りません。けれども喜んで自分のもっているすべての物を捧げました。ちょうど寡婦が自分の有っているすべての物なるレプタ二つを捧げましたごとくに、この子供は自分のなくてならぬ一切を捧げました。実に香しき犠牲であると思います。たぶんこの子供は弟子が主の食物とせんがためにこれを求めるのであると思いましたでしょう。けれども喜んで主のために自分のなくてならぬ弁当を捧げました。その時に主は如何になしたまいましたかならば、この小さき香しき犠牲をもって多くの人を飽かしめたまいました。主はいつでもかく行いたまいます。主は二百の銀のパンがありませんでも子供の五つの小さきパンがあるならばそれによって多くの人を飽かしめることができます。また私共は眼に見ゆる大いなる方法を求めるに及びません。有ち合わせの物だけでよろしいのです。私共は真実に有ち合わせの物を主に献げますならば主はそれをもって大いなる働きをなしたまいます。何卒私共はこの子供となりとうございます。けれどもかく自分の有てるだけの物をもって多くの人を飽かしめとうございますならば、主の傍近くおらねばなりません。この子供が主のすぐ傍におりましたから主はその子供の所有を使って人々を飽かしめたまいました。

【十節】

 そうですから主はたくさんの列を作ってことごとく順序を付けたまいました。主は乱雑を好みたまいません。信仰の役者はたびたび乱雑でも構わぬと言う過失に陥ります。けれども主はその乱雑を好みたまいません。天国の政治を見ますならば悉く順序が整っております。
 またこの十節を見ますならば人々を飽かしめんがために最初に人々を安息させたまいます。静かに座らせたまいます。いままで人々は或いは相互に語り合い、或いは他に種々の混雑がありました。けれどもいま静かに座らせたまいます。人々は、主の生命のパンを食しとうございますならば自分の心を安んじなければなりません。
 この十節はちょうど詩篇二十三・二のことです。また同五節をご覧なさい。いまヱホバは人々をみどりの野に伏させ、またそこにて筵を設けたまいます。
またミカ書五・四をご覧なさい。『彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう』。これは主の預言です。いまヱホバの大能により、ヱホバの威光によりて立ちてその群れを牧いたまいます。

【十一節】

 この多くの人々はただ弟子の働きを見ましたでしょう。現今でも人々は或いは伝道師或いは牧師の働きを見ます。けれども真実に弟子の能力ではなく弟子の真ん中に立ちたもうた主の働きです。人々は弟子の手よりパンと魚を受け取りました。けれども真実は主が働きたまいました。どうぞ牧師や伝道師を見ませずして真実の養い主たる主イエスを見とうございます。或る人は伝道師牧師を見て、かくのごとき人よりパンを受けないという思想があります。これは実に不信仰の思想です。主はただ弟子達によりて人々を養いたまいます。主が真実の牧師です。主が真実の養い主です。もし私共は弟子等を見ますならば種々の過失がありましょう。
 また私共はどうして人々に生命のパンを施しましょうか。第一に主の手よりそれを受けなければなりません。またこの弟子は主の手よりただ少しのパンを受けましたと思います。ただ少しのパンをもって人々の許に参りました。けれども信仰をもって参りましたからそれを出しました時になおなお多くなりました。主は弟子たちに多くのパンを与えたまいませんと思います。弟子がそれを施しました時に多くなりました。今も同じことです。主は多くの霊のパンを与えたまいませんと思います。私共は主より充分霊のパンを受けましたら、人々を飽かしめるに適当なる伝道師であると考えることはできません。主は少しのパンを弟子に与えたまいます。けれどもそれを施すごとにそれが多くなります。私共各自の経験によってたびたびかくのごときことがあったと思います。生命のパンを施しますならばなおなお大きくなります。ただ受けたるパンを心中に貯えますならばたびたび小さくなります。私共は小さきパンを受けましたからそれを食べようと思いますならばただそれだけにとどまります。けれどもこの小さきパンを受けましたからこの子供の心をもって多くの人々に与えようと思いましてそれを施しますならば大きくなります。一人で四百人くらいずつを飽かしめることができます。

【十二、十三節】

 弟子等も一筐(かご)ずつ頂きました。私共もたびたび同じ経験を受けませんか。私共は今まで受けたる小さきパンをもって、他の人々に施しますならばその人々を飽かしめます。また啻にそれのみではありません。自分の心に大いなる屑の筐を受けます。そうですから以前よりなおなお霊の糧を貯えます。私共は人々に霊の食事を与えるごとにそういう経験があるはずです。私共は人々を飽かしめることはできます。また、自分の心中に飽かしめられるのみでなく未来のために一つの筐を頂戴することができます。他の人々よりも優れて多くの生命のパンを受ける筈です。もしそうでありませんならば何か過失があると思います。主はご自分の役者のためにそれほどの恵みを与えたまいます。他の人々にはただなくてならぬものを与えたまいます。私共にはそれ以上に溢れるほどの恵みを与えたまいます。
 そうですから十二節の屑を拾い集めとうございます。集会を終わりました後で静かに屑を拾い集めとうございます。その集会の霊なる屑を拾いますならばたびたび多くの食物を頂戴します。ただ他の人々と共に自分が飽きたるのみにて満足しますならば大いなる恵みを失います。何卒集会の後にいつでも屑を拾い集めとうございます。ともかくも筐をもって屑を拾い集めとうございます。そうしてその得たる霊の恵みを聖書や手帳に録し置きとうございます。

【十四、十五節】

 十四節には預言者、十五節には王、また山を登りたまいまして祭司でした。ここに主の三つのことを見ます。預言者、王、祭司たることを見ます。十五節は主の受けたもうた第二の試みでしたと思います。マタイ四・八において悪魔は主をこの世の王とならしめとうございました。悪魔はそれを願いました。けれども主は大胆にその試みを退けたまいました。今ここに悪魔は再び同じ試みを出します。ユダヤ人によりてそういう試みを出します。けれども主は再びその試みを破りたまいます。けれどもこのような場合、主は試みのために苦しみたまいましたに相違ないと思います。主はユダヤ人の王となりたまいとうございました。それによりてこの乱れたる国を祝福することができました。必ずこの十五節の試みに由りて苦しみたまいましたと思います。けれども主は王となることはできません。王となる前に主は十字架を負いたまわねばなりません。十字架を負いませんならば主は真正の王となることはできません。十字架を負いませんならば真正の平安を与えることはできません。そうですから主はこの試みを退けたまいました。
 或いはこの話の順序を考えると深い奥義があると思います。十五節の終わりに『山に退かれた』。主は王となる前に天に昇る筈です。またその時に主が王となるならば弟子も栄えを受けましょう。けれども弟子は却って十七、八両節のごとくまず苦難に逢わねばなりません。狂風、怒濤に逢わねばなりません。しかる後に主の国が来ります。けれども最初に主が天に昇りたまわねばなりません。また弟子等も波風に逢わねばなりません。
 ヱホバは荒れ野においてイスラエル人を飽かしめたまいましたごとくに、いま主は荒れ野において饑える者を飽かしめたもうことによってご自分のヱホバなることを示したまいます。また主はただ一度それをなしたもうのみならず、主は今に至るまでこの世の荒れ野の真ん中に立って人々を飽かしめたまいます。私共は主を待ち望みまするならば毎日天のパンを頂戴することができます。毎日飽かしめられることができます。毎日天のパンを受けませんならば自分の過失です。主は今に至るまでご自分の民を飽かしめたまいます。

【十六〜二十一節】

 ちょうど私共の模様です。主は十五節のごとくに昇天なしたまいました。また私共はこの狂風の中に船を漕がなければなりません。けれども私共の望みは何でありますかならば再臨です。主はこの波風の上を歩きたまいまして再び私共に近づきたまいます。それに由りて私共はもう一度福祉を得られます。また直ちにその行かんとするところの地に着くことができます。
 この二十節に『わたしだ』。これは原語を見ますならばヱホバの名と同じ意味です。主はご自分のヱホバなることを言いたまいました。そうですから必ず波風の主でありました。ヱホバが近づきたまいますならば必ず恐れるに及びません。

【二十二〜二十六節】

 主はこの人々の心を探りたまいました。表面でこの人々を見ますれば極めて熱心でした。また主に従うことは極めて善事でした。けれども主はその人々の心を探りたまいました。焔のごとき眼をもって主は私共の意思をも探りたまいます。

【二十七節】

 そうですから主の言いたまいますに、今まで私は朽ちる糧を与えました。けれどもそれよりも優れたる賜物があります。私は永遠の生命に至る糧を与えることができます。あなたは喜んで私の朽ちる糧を受けました。けれどもこの永遠の生命に至る糧は如何ですか。主はかく言いたまいます。『父なる神は印して彼を證し給ひたるに因る』(改訳)。その意味は何でありますかならば、エルサレムの宮において瑕なき羊を屠らなければなりません。毫も汚点なき瑕なき羊でなければなりません。そうですから初めて参詣する人はそれを祭司に見せまして祭司がそれをよしと思いますならば印を捺しました。その羊は印を貰いますならば犠牲となるべきものです。ここにて主は父なる神が主に印したまいましたと言いたまいます。そうですから私は屠られるべき羊である。それ故に私は永遠の生命に至る糧を与えることができますという意味です。
 四節を見ますればこれは過越の祭の時でした。主はここで過越の祭のことを指して言いたまいます。羔は自分の命を捨てて人々に永遠の生命に至る糧を与えることができます。

【二十八節】

 私共は如何にしたならばいま主の言いたまいました働きをなすことができましょうか。この永遠の生命に至る働きが如何にしてできましょうか。

【二十九節】

 この永遠の生命に至る糧を受ける方法はただ神の遣わしたもうた者を信ずることです。

【三十節】

 『どんなしるしを行ってくださいますか』。四章を読みました時にガリラヤ人はいつでもしるしを求めました。サマリヤ人はしるしがありませんでも喜んで主を信じました。言のために主を信じました。けれどもガリラヤ人はしるしを見ませんならば信じませんことを読みました。ここでも主はただ信ぜよと言いたまいますのに彼等は何卒しるしを見せよと言います。

【三十一節】

 モーセは毎日イスラエル人に天よりのパンを与えました。あなたはただ一度だけ野にてかく僅かに五千人を飽かしめましたことはモーセの奇蹟よりも遙かに劣ったことですからどうぞなおなお明らかなる大いなる奇蹟を見せよと申しました。

【三十二節】

 すなわちその時にモーセは天よりのパンを与えません。そのとき父なる神が天のパンを与えたまいました。またただいま父なる神は再び天よりのパンを与えたまいます。その時にパンを与えました者と今パンを与えます者とは同じ者です。父なる神です。けれども汝らは今与えられますパンを拒みます。主はかく言いたまいます。

【三十三節】

 その時に神はユダヤ人に生命を養うパンを与えたまいました。ユダヤ人に一番必要な恵みでありました。いま神は同様にユダヤ人に一番必要なる恵みを与えたまいます。すなわちほかの天よりのパンを与えたまいます。そのパンはどなたですかならば主イエスです。

【三十四、三十五節】

 『そのパンをいつもわたしたちにください』。ちょうど四・十五の『その水をください』と同じことです。誰でも神の恵みを受けとうございます。我にそのパンを与えよと祈ることができます。けれどもそれと同時に信じなければなりません。神のものなることを信じなければなりません。また人々はパンを得ることを求めます。けれども信ずることを好みません。
 『わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。これは主の堅い約束です。私共は絶えずこの約束を信じまして飢えることなく渇くことなくして生涯を暮らすはずです。不断この人々のごとく主より満足を得ます。この三十五節を見ますならば、主を食らう、すなわちこの生命のパンを食らうことは、主に来ると同じことです。或いは主を信ずることと同じことです。そうですから私共は地上にも天国に属する生涯を始めます。黙示録七・十六をご覧なさい。これは天国におる者の特権です。幸いなることです。地に属する者は必ず飢えます、渇きます。天に属する者は重ねて飢えず、渇かず。私共は地におる間にも同様に天国に属ける特権を頂戴します。『わたしを信じる者は決して渇くことがない』。その時にこの人々の眼前に人間なる主イエスがありました。実に怪しむべきことです。エレミヤ十七・五、六をご覧なさい。そうですから人を頼む者は不断飢え、不断渇きます。けれどもここにナザレのイエスは自分を頼むことを勧めませんか。この二つの引照を比べますならば彼は必ず人間ではありません。

【三十六〜四十節】

 この三十六節の『わたしを見ているのに』の見ると、四十節の『子を見て』の見るとは、その意味において相違があります。見るという言葉の意味にも二種あります。三十六節の見るはただ私共の眼界にあるものの目に映ることであって自分の方から進んで視ようと思わないでも見ゆる意味であります。四十節の見るは、自分の方から心を働かし望みを働かし注意して見る意味であります。また四十節の見る意味について十二・四十五をご覧なさい。それは如何なる時代ですかならば現今の時代です。霊に由りていま私共はそれを見ます。そのように見ることです。
 そうですから三十二節から四十節まで主は真実のマナなりと言い顕したまいます。また神は何のためにいま新しきマナを与えたまいますかならば永遠の生命を与えるためであります。主が天より降りたまいましたことは自分の旨を行なうためではなく父の旨を行なわんがためでした。またその父の旨は何であるかならば人間に永遠の生命を与えることです。神は往昔身体に生命を与えるためにマナを降らせたまいました。ただいま永遠の生命を与えるために新しきマナを与えたまいます。
 『終わりの日に復活させることである』(三十九、四十、四十四、五十四)。

【四十一、四十二節】

 現今でもかくのごときユダヤ人が多くありませんか。このように目で見ゆることに由りて主を判断します。或いは人間の智慧に属ける論理に由りて主を判断します。けれどもこの四十二節のごとくユダヤ人は自分の些少な智慧に由りて主を知悉することはできません。いま人間の子供らしき論理をもって主を知り尽くすことはできません。海水を悉く茶碗に入れることができませんように人間の知恵をもって主イエスを知悉することはできません。

【四十三、四十四節】

 主の答えは何でありますかならばあなたは神に引かれませんならば必ず子を知り尽くすことはできません。父なる神の感化を受けませんならば子なる神を知悉することはできませんという意味です。

【四十五節】

 『彼らは皆、神によって教えられる』。そうですから父なる神は誰でも引きたまいとうございました。『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る』。誰でも父の教えを受けますならば必ず主に来ます。そうですからナザレのイエスに来りません者は必ず未だ父に教えられぬ者です。或る人は私は父を知りました、けれどもナザレのイエスを信じませんと申します。けれどもそれは必ずできません。父に教えられるならば必ず子の下に来りて子なる神を信じます。

【四十六〜五十一節】

 さきに申しましたように三十二節から四十節までは主は現代のマナなりと言いたまいます。四十八節から五十一節まではそのマナを食らうことの結果は永遠の生命なりと説明したまいます。
 『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる』。創世記三・二十二、二十三をご覧なさい、同じ言です。当時人間は永遠の生命を得ましたならば却って大いなる詛いでした。神を離れたるままで永遠の生命を得ましたならば大いなる詛いと苦でした。そうですからこれを防ぐために神はエデンの園より人間を逐い出さなければなりません。けれどもいま主イエスによりて神に近づき永遠の生命を得ますならば大いなる幸いです。前のように神と離れたるままで永遠の生命を得ることは大いなる詛いです。いま主によりて漸次父に近づくことを得つつ永遠の生命を得ることは大いなる幸いです。そうですからただいま神は永遠の生命を与えることができます。

【五十二節】

 またユダヤ人は呟きます。そうですから五十八節までは主はこの糧は如何なるものであるかすなわち糧の性質を説明したまいます。

【五十三〜五十九節】

 そうですからこれは路傍説教ではありません。主はこのときに会堂にて大切に教えたまいました。この主の肉と血を食らうことは大いなる奥義です。それによりて肉に属ける思想を持ちますならば必ずその意味を損じます。嬰児は不断母の肉と血を食べます。そのことを深く考えますならばこの奥義の明らかなる説明となると思います。嬰児の飲むべき乳は母の肉と血の原料です。或いは十五章の例話をご覧なさい。枝は樹の肉と血を得ます。樹の性質を食べます。
 また樹は自分の生命と性質を出して枝を養います。私共の食物は何でありますかならば主イエス自身です。主イエス自身の肉と血を信仰によりて受け入れます。また神の聖子は御自身を与えて私共の糧となりたまいます。ちょうど乳が嬰児を養うに適当なる食物であるごとく主は私共の必要を充たすものとなりたまいます。主に在りて私共の霊が養われ健やかになり順次聖なるものになります。また私共の食らうところの食物は漸次私共の肉と血になります。私共は主の肉と血を食らいますならば主の肉と血は漸次私共の肉と血になります。自分の生命、自分の性質、自分の能力、自分の凡てのものとなります。私共の食する食物は身体を養います。私共はもがきませんでも、或いは肉となり、或いは毛となり、或いは神経となります。自然に体の運動、体の天性に順いまして、一つの食物は身体の全部を養います。ちょうどそのように主の肉と血を食しますならば私共の心も霊も全体に養われます。心の愛と喜びが養われます。能力が養われます。心の目が養われて、視ることが明瞭になります。或いは耳が養われて心中に神の御声を聞くことができます。そのほか凡ての働きのために凡ての礼拝のために養われます。ただ主を受け入れますならばそのように全霊を養われます。
 また食しました食物はただそのままに腹に留まりますならば却って害となります。消化せられませんならば却って体の害となります。主のこの真理もただ頭脳に留まりますならば却って霊の害となります。頭脳は霊の腹だと思います。(腹が身体を養う食物を消化するごとく、頭脳は霊を養う食物を消化する腹のようなものです。)何卒真理をただ頭脳に受け入れるばかりではなくそれを消化して真実に霊が養われとうございます。
 主の肉と血を食べますならば二つの大いなる結果があります。第一は死ぬることです。第二は生くることです。私共は主の肉と血を食べますならば心中に死も働きます、生も働きます。創世記三章はちょうど反対です。その時エバは悪魔の偽りを受け入れました。その結果として人間は神に対して死にました。神の生命を失いました。また生の結果もありました。人間は悪魔の生命を得ました。いま私共は主の血と肉を食べますならばその結果はちょうど反対です。それに由りて悪魔の生命を失います。これは死です。また神の生命を得ます。これは生です。
 五十四節の『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得』は生まれ替わることです。初めて永遠の生命を得ることです。原語で見ますならば明らかです。五十六節でその養いを受け入れました結果は『いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる』。そうですから主を食べますならば永遠の生命を得ます。子供は生まれます時に生命を得るように生まれます。けれどもその生命を養わねばなりません。また養われることは主におることです。また主が我等におることです。自然に主に養われまして自然に成長します。
 そうですから生命と生命を養うことは大いなる奥義です。身体は如何にして生きますか、また如何にして養われますか、これは誰にも解りません。まして霊の生命とその養いの解る者はありません。けれども私共はその養いの結果を受けることができます。私共は不断主に繋がれまして嬰児のごとくに主の血と肉を受け入れますならば順次主の形に象られて参ります。けれどもその養いは天より降るパンでなければなりません。この地上の身体を養うべき食物は地上より生ずる食物である筈です。天に属する生命を養うべき食物は天に属するものでなければなりません。それよりも卑しい物をもって霊を養いますならば霊は漸次衰弱します。私共は神学をもって或いは真理をもって霊を養うことはできません。ただ天より降りたもうた主イエス御自身に由りて養われます。神の聖子イエスを受け入れなければなりません。主イエスはそのために天より降りたまいました。またそのために十字架の苦を受けたまいました。

【六十節】

 主はかく最上の恵みの言を与えたまいました。父なる神の憐憫と慈愛、子なる神の生命を捨てることについて言いたまいました。また人間は如何にして霊なる養いを受けることができますかについて恵みの言を与えたまいました。
 それを聞く人々は謙遜して心中にその恵みの言を受け入れる筈でした。けれどもこの節を見ますならばそう致しませずして却って『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』と申しました。民数記二十一・五にも同じことを見ます。神はイスラエル人を顧みたもうて毎日天より糧を降らしめたまいました。けれどもイスラエル人は神の愛を軽んじまして、『我等はこの粗(あし)き食物(くひもの)を心に厭ふなり』と申しましてその活けるパンを軽んじました。神はイスラエル人に最上の賜物を与えたまいました。けれどもそのようにそれを軽んじました。兄弟よ私共は如何ですか。昔のイスラエル人のごとくに、或いはこの節のユダヤ人のごとくに主の最上の賜物を軽んじませんか。何卒そのようなことを致しませずして神に感謝して跪いてそれを受け入れとうございます。

【六十一〜六十三節】

 主は如何にして呟く者に証したまいましたかならば、ご自分の天に昇ることを言いたもうことによりてでした。主が必ず昇天すべきものであるならばその時に言いたもうたこと(天に昇ること)、また以前に言いたもうたこと(天より降ること)を信ずべき筈です。この天より降ることについて、三十三、三十八、四十一、五十、五十一、五十八、三・十三を引照しなさい。主はまた呟く者に六十三節のごとくその言葉の霊と生命なることを示したまいました。ただその儀文ばかりを受けますならば利益はありません。けれどもその霊の意味を受けますならば生命を与えられます。ここで主の言は霊と生命を与えることを見ます。それに由りて霊はいつでも神の言葉を使いまして働きたもうことを見ます。けれどもペテロ前書一・二十三を見ますならば福音によりて生まれ替わります。この聖霊に由りて生まれ替わることと、福音に由りて生まれ替わることとは一つであります。四・二十三において私共は霊と真をもって父を拝すべきことを見ます。真正の礼拝には私共の言が聖霊の言とならなければなりません。かく聖霊は神の言を通して働きたまいます。私共はその言を受け入れませんならば神の感化を得ません。どうぞこの六十三節のごとくいつでも神の言の霊を求めとうございます。私共はただその儀文を求めますならばこのユダヤ人のごとく疑いましょう、或いは呟きましょう。今でも主が私共のために生命を捨てたまいたることについて話しますならば呟く者或いは躓く者は多くございます。何故なれば主の言の儀文ばかりを取りましてその霊を見ませんからです(コリント後書三・六、五・十六)。

【六十四節】

 信じません者がありましたからその言の霊を受け入れることができません。私共は信ずることに由りて神の言の霊を受け入れます。
 主は始めよりその人々の心を知りたまいました(ロマ書八・二十九)。

【六十五節】

 真実に信ずる者はみな父の感化を受けました。三十七節のごとく何人でも主に参ることができます。けれども参りますならば六十五節によりて父なる神に引かれて参りましたことを見ます。この言は弟子の心を探りました。また或る者は主を捨てて世に帰りました。イスラエル人は民数記十四・四においてエジプトに帰ると申しました。今でも活ける言のために躓いて主と共に行きません者がたくさんあります。たとえ表面では引き続いて熱心なる信者でありましても心中に主と共に行きません。どうぞ私共は謙遜をもって主の言葉をそのままに受け入れまして生命を得て主に従いとうございます。

【六十六〜六十九節】

 六十六節のごとく或る人は主の言に由りて心がますます暗くなりました。或る人は十五・三のごとく、主の言に由りて潔められました。その人の心の模様によりて、或いは呪詛を受け或いは祝福を得ます。
 エレミヤ十三・十五、十六にありますように神に耳を傾けず心の高慢に由りて神の語りたもうことを受けませんならば神の言によりて却って心が暗くなります。そうですからこれは心を探る時でした。それに由りて心の真実の模様が分かりました。十二人の弟子は何故その時に躓きませんでしたか。彼らもほかのユダヤ人のごとく主の言が解りませんでしたでしょう。けれども主は永遠の生命の言を有ちたもう御方であることが解りました。ペテロは実に詩篇七十三・二十五の精神をもっておりました。またそれと同時に主が活ける神の子であることが解りました。

【七十、七十一節】

 主が在したまいませんならば世は荒れ野であるから自分は主を択びましたと思う者があります。けれども実は主がその者を択びたもうたのであります。またその択ばれました者の中でも一人は悪魔でありました。そうですから択ばれたる者でも恐れまして忠実に主に従わねばなりません。ユダは悪魔でした。ほかの人間よりも実に大いなる特権を授けられました。けれどもそれを受け入れませんからそのために一番恐ろしい七つの悪鬼を受けました。私共は神の国の特権を持ちますならばそのために或いは聖徒となります。或いは悪魔となります。私共の択ばれますことは神の聖旨に従うことです。けれどもその択ばれましたために聖徒となると否とは自分で択ぶべきものであります。



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