第 八 章 



 ヨハネ伝第一章より第七章までの大意を求めますならば生命と申すことです。三章に生命の始めなる生まれ替わること、またその生まれ替わることによって永遠の生命を得ることを見ます(三・十六)。四章において心中に生命の泉が湧き出ずることを見ます(四・十四)。また五章を見ますと生命の源は主ご自身です(五・二十六)。また六章を見ますならば生命を養う糧は主イエス御自身です。主は実に生命のパンであります。七章において他の人々に生命を分け与えることを見ます(七・三十八)。けれども八章と九章を見ますならばその顕れたものは生命ではなく光です。『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』(一・四)。初めの『命があった』とは一章より七章までの題意です。『命は人間を照らす光であった』とは八章と九章の題意であります。八章において主は言によりて御自身の光を放ちたまいます。九章においては働きをもって光を与えたまいます。九章においては主は人間の眼前に御自分の光を与えたもうことを実現せしめたまいます。すなわち盲人の目を開きたまいます。
 八章の始めにおいて主が与えたもう光の中にパリサイ人は自分の真正の有様を見ました。またこの憐れむべき婦人も深く自分の罪を感じました。主は光をもって罪人に自分の模様を知らしめたまいます。またそれのみならずこの罪ある婦人に御自分をも示したまいます。光に依りてその婦人は自分を悟りまた主ご自身をも悟ることができました。これは光の二種の結果であります。
 八・二において主は御自分を顕したまいます。八・十三においてパリサイ人は『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない』と申します。全体この八章において主は御自分を証したまいます。他の福音書或いはヨハネ伝のうち他の章を見ましてもこれほど確実に御自分を証ししたもうことはありません。このように確実に御自分の有様を証ししたもうことは他に見出すことはできません。
 十二〜十八に主イエスは御自分を証したまいます。いま父なる神は主イエスを証ししたもうことを言いたまいます。主は大胆に信仰をもって父なる神は絶えず共に証したもうことを言いたまいます。これは第一の要点です。
 『その方から聞いたことを、世に向かって話している』(二十六)。『ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう』(二十八)。そうですから主は御自分のことを言いたまわず、ただ父より見聞きせしことのみを言いたもうことを見ます。その教えは自分の教えではなく父なる神の教えなることを明白に教えたまいます。これは第二の要点です。
 『わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである』(二十九)。主は絶えず父なる神の聖旨に適って生涯を送りたもうことを証したまいます。その意味は何でありますかならばわたしは絶えず父の聖旨に適うものであるという意です。これは第三の要点です。
 『わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ』(四十二)。主は神より出でたもうた者です。このユダヤ人は下より出で主は上より出でたまいました(二十三)。実に天地の差がありました。これは第四の要点です。
 『わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について「我々の神だ」と言っている』(五十四)。父なる神は主を崇めたまいました。主は人間に賤しめられたまいました。けれども父なる神に崇められたまいました。これは第五の要点です。
 この証をよく味わいとうございます。主はここに明白に御自分を言い顕したまいます。またこの証は実に信ずべき証であります。御自分はどういう者ですか、また何処から来た者ですかを明白に言い顕したまいます。またこの証は実に信ずべき証でありました。『多くの人々がイエスを信じた』(三十)。これは当然のことです。証拠をもってこれは光であるということを確かめることはできませんかも知れません。けれども光自身はその証です。別に証拠を要しません。光を見る者は何人でも光であることが分かります。主の証は同様です。真心をもって聞く者は必ずそれを信じました。忠実なる心をもってこの八章の証を読みますならば主は必ず世の光なることが解ります。その時この証を聞いたユダヤ人は多く主を信じました。これはその証が事実に適ったからであります。主の性質、主の行いに適った証であるからです。光は御自分の証でした。もしここに通常の人が我は世の光なり、汝は下より出で私は上より出でました、私は恒に神の聖旨に適うことを行います、いつでも神に崇められますと言いますならば、私共はその人は狂人であると言いましょう。必ず愚かなる者であると言いましょう。闇がもし自分は光であると言いますならばただ愚かなることです。八章の証がもし真実でないならばナザレのイエスは狂人かも知れません。けれども、この証はその性質と行いによく適いました。そうですからそれを信じなければなりません。『多くの人かれを信ぜり』。それを聞きし者は多く信じました。神より全権公使がこの世に降りたまいました。八章において主は御自分は神の公使たることを証したまいます。おおよそ各国の公使たる者は最初に自分が真正の公使たる証拠書を出します。ここで主は証拠を出したまいます。偽の公使が偽りの証拠書を出すなら大いなる刑罰を受けます。けれども真正の証拠書を出すならばこれを信じなければなりません。もしそれを信じないならばその公使を遣わしし王に対して大いなる罪です。主はここで御自分の証を言い顕したまいます。それが真正ならば私共は信じなければなりません。それを信じませんならば父なる神に対して大いなる罪であります。ここに明らかにナザレのイエスは神の公使であることを見ます。どうぞその思念をもってよくこの章を研究しとうございます。ここにあるユダヤ人はこの正しい証を信じなかったのです。現今でも信じない者が多くございます。けれども信じる者は主と共に永遠の生命を得ます。

【一〜五節】

 ルカ十五・一、二をご覧なさい。『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』(二)。主イエスは罪人の友であることが知れました。そうですからパリサイ人はただいま主を陥れとうございます。もし主がその罪人を赦すならばモーセの律法に逆らい、その罪人を罰するならば確かに罪人の友でないことを示します。そうですからいずれに致しましても主は負けたもうように思われました。

【六、七節】

 その人々に自ら顧みる機会を与えたまいます。私共は他の人々を審きとうございまするならばまず始めに自分の心を吟味いたしとうございます。主の前にまず自分の心を査べとうございます。

【八節】

 主が地に描きたもう間、沈黙の中にパリサイ人はその良心が働き出しました。

【九節】

 良心が働きますからついにこの節の結果となりました。ことごとく出で行きました。

【十、十一節】

 神の愛の働きを見ます。どうぞこの順序をご覧なさい。始めに黙念の働き、次に良心の働き、終わりに愛の働きを見ます。主が一個人を導きたもう時にも、たぶんこの順序に従いたまいます。主はさまざまの方法をもって私共に黙念させたまいます。或いは病気のため、或いは他の事柄によりて黙念を与えたまいます。それから御自分の言に由りて良心を働かせたまいます。けれども終わりにはいつでも愛を働かせたまいます。
 七節の主の意味はこうであります。神の律法は明白です。けれどもただこの婦人ばかりその律法に従って左様に残酷に取り扱わねばならぬ訳はありません。ただこの婦人ばかりではなく汝らすべて同様に律法の光によりて自分を判断しなければなりません。また神の律法の前に罪人は他の罪人を審くことはできません。国の法律を犯したる懲役人は他の罪人を罰することはできません。
 神の律法は明白です。けれども神の律法を行う者は正義の者でなければなりません。私共各自他の人々を審くよりもまず自分の心を審きとうございます。
 神は如何にしてイスラエル人をエジプトより救い出したまいましたか。当時エジプト人はこれを追跡して滅ぼしてしまおうと致しました。けれども神は雲の柱をもってイスラエル人を護りたまいました。その雲の柱はエジプト人にとっては暗闇となりましたがイスラエル人にとっては光明となりました。今このところで同じことを見ます。パリサイ人はこの婦人を追跡して亡ぼさんと致しました。けれども主は雲の柱となってパリサイ人と婦人の間を隔てたまいました。その隔てがパリサイ人には暗闇となり自分の心の暗いことを覚えました。けれどもこの婦人には光となりました。
 主はこの婦人と共に残りました。罪人はそのままで主の前に留まりまするならば実に幸いです。四章において他の汚れたる婦人が主の前に留まりましたことを見ます。その処にて罪の赦しと活ける水を得ました。私共は汚れたる罪人でした。また何処にて罪の赦しを得ましたかならば主の前に立ち止まりたる時でした。
 けれどもこれはむしろ怪しむべきことではありませんか。この義なるパリサイ人或いは聖書に通暁せる学者輩は主の前に立つことはできません。主は神の律法の恐ろしき義をこの人々に示したまいました。そういう人々は恐ろしき義の前に立つことはできません。けれども罪人はその前を逃げ去りません。罪人は避けることができますけれども避けません。罪人はこの恐ろしき義を示す主の前に立つことを得ます。何故ならば自らその罪を知ります。そうですから主の恩寵も解ります。黙示録六・十六、十七をご覧なさい。これは恐れ多い祈禱会です。これと黙示録七・九を対照なさい。黙示録六章の罪人は神の義が解りまして山と巌とに叫びます。神の前を逃れとうございます。けれども黙示録七章の救われました罪人は神の宝位の前に来て立つことを得ます。これは幸いではありませんか。ただいまそれと同じことを見ます。パリサイ人は神の義を見まして逃れます。パリサイ人のうち一人でもそれほどの義の前に立つことのできる者はありません。けれどもこの汚れたる婦人は主の前に立つことを得ます。私共はパリサイ人と一緒に逃れましょうか。或いは自分の罪を白状してこの汚れたる婦人と一緒に主の前に立ちましょうか。私共は主の前に立ちとうございますならば、この汚れたる婦人のごとくに自分が罪人であること、汚れたる者であることを承知せねばなりません。出エジプト記二十四・十七、十八をご覧なさい。遠ざかったイスラエル人の目には神の栄光が燃ゆる火と見えました。けれども近づき得たモーセには神の恩寵が解りました。今このところでパリサイ人には主は燃ゆる火と見えました。けれども近づき得た婦人には主は愛なりと判りました。私共も同じことであります。神に遠ざかりますならば神を懼れます。けれども近づきますならば神の愛を感じます。
 『わたしもあなたを罪に定めない』。世の審き主はこの言葉を言いたまいます。私共にもこの恩寵の言葉を言いたまいます。けれども主は罪人にこんなことを言うためにご自分の生命を捨てたまわねばなりません。羔は血を流したまいませんならばこの言葉を言うことはできません。私共のためにもかつこの汚れたる婦人のためにもご自分の血を流したまいましたから『わたしもあなたを罪に定めない』と言いたもうことができます。また恩寵を与えたまいますならばいつでも命令を与えたまいます。『行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。これは主が私共を始め罪赦されたる者に与えたもう命令です。
 ただいま研究しました七章の終わり八章の始めにおける二つの説話は実に恵みに満ちております。主は私共の真中に立ちて、『わたしに来て飲みなさい』と言いたまいます。私共はこの婦人のごとくに主の聖前に立ちまするならば主の赦しを得まして神と和らぐことができます。

【十二節】

 旧約において主は光であることをたびたび預言されました(イザヤ九・二;四十二・六、七)。ユダヤ人はよくこれを覚えておりました。また救い主が来る時には必ず世の光となります。そうですから主がこの節のごとく『わたしは世の光である』と言いたもう時に、その意味がよくわかるはずです。この世は主がすなわち神より遣わされたる救い主、旧約の預言を成就するメシアなることを知らなければならぬ筈です。けれどもこの世はそれを受けませんでした。『光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった』(一・五)。原語では受けませんの意味です。
 第一に光は智慧を与えます。私共は光に由りて物を弁えます。途を知ります。遠方まで見ることができます。闇におりますならば何も解りません。光が世に降りたまいました。私共はこの光を受け入れますならば受け入れまするほどに悟りを得ます。物を弁別することができます。或いは来世に行く途、或いは天国、或いは神の性質を知ることができます。
 第二に光は喜楽を与えます。闇におります時は恐懼があるかも知れません。苦難があるかも知れません。けれども光が来りますならばまたひとたび喜楽を得ます。ちょうどそのように主がこの世の光なりと言いたもう意味は、私はこの世に喜楽を与える者なりとの意味です。
 『わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』。主に従う者は絶えず心中に命の光があります。周囲に苦難がありましても心中に光があります。心中に光がありますから周囲に暗きがありましても絶えず喜ぶことができます。主のこの言は鋭き剣ではありませんか。私共の心中に生命の光がなく闇のみがありますならば信仰が薄くなり喜楽が少なくなります。何卒今ひとたび主のこの堅い約束を信じて光を受け入れとうございます。

【十三、十四節】

 パリサイ人は『その証しは真実ではない』と申します。けれども主は『その証しは真実である』と仰せたまいます。それは『自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ』。このために主の証は真正であります。公使は何処より来り何処へ行くかを知っております。自分は王より遣わされし者、王の命令、王の心をよく知っておりますから確信をもって異国に参ります。そうですからその証は信ずべきものです。『あなたたちは知らない』。知りませんからわたしを審くことはできません。

【十五〜二十節】

 『わたしの父をも知らない』。これは実に大いなる訴えでした。ユダヤ人は常に自分は神を知る者であると言いました。神の黙示を得たる選民なることを始終申しました。けれども主は『あなたたちはわたしの父をも知らない』と言いたまいます。旧約に顕された神を知りまするならば必ず主は神と等しくあることが判りましょう。主は神と同一の精神、同一の権能、同一の愛をもっていたもうことが判りましょう。そうですから旧約の神を信ずるならば必ず主イエスをも信ずる筈です。けれども『あなたの父はどこにいるのか』と尋ねます。主は父なる神を説教したまいました。けれどもユダヤ人は『あなたの父はどこにいるのか』、そんな神は私共の信ずる神と違うと言いました。主はそれによりて汝らは旧約に顕されたる神を知らずと仰せたまいました。
 十二〜二十の大意は主は御自身を証したまいます。御自身の光なることを証したまいます。また二十一〜二十六を見ますならば主はユダヤ人にその人々の模様を示したまいます。光は罪人の心を照らします。旧約の光を見ますならばイスラエル人を導く焔の柱を見ます。主はここで今一度その話を引いて我は汝らを照らす焔の柱なりと言いたまいます。始めに光の中に御自身を顕し、次にその出された光線に由りて罪人の心を照らしたまいます。

【二十一節】

 『自分の罪のうちに死ぬことになる』。これは実に烈しき訴えでした。

【二十二、二十三節】

 『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している』。光は罪人の心を照らします。

【二十四〜二十六節】

 いま光はなおなお罪人の心を照らします。わが審判は真です。ただ神より聞きたることを言いますからわが証は真であるという意味です。

【二十七〜二十九節】

 二十八節はその時に救われる機会がありませんという意味です。『あなたたちはわたしを捜すだろう』(二十一)、『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない』(七・三十四)と同じ意味です。
 実に烈しい預言です。いま恵みの機会に主を拒んでその恵みを受けませんならば未来において主の恵みを求めるとも得られません。箴言一・二十四、二十八をご覧なさい。これは父なる神の言です。いま主は同じことを引きたまいます。それに由りて何を示したまいますかならば自分は父なる神と等しくあることを示したまいます。『人の子を上げたときに』。汝らは人の子を拒んで十字架に釘けし後、すなわち全く救い主を断りました後でこれは救い主であることを知ります。けれどもその時はもはや救いを得るには遅うございます。主はかく仰せたまいました。現今の罪人は同じことです。現今は主を拒み主を断ります。けれども未来において主は唯一の救い主であることを悟ります。その時には如何に嘆きましょうか。

【三十節】

 光の中に光を見ました。光に由りてこれは光であることが解りました。詩篇三十六・九をご覧なさい。『あなたの光に、わたしたちは光を見る』。ダビデの言った時は父なる神を指します。けれどもいま同じ言はイエスを指す意であることを見ます。そうですからそれに由りて父なる神、子なる神の一つなることが解ります。主イエスの神なることを見ます。『あなたの光に、わたしたちは光を見る』。いま三十節を見ますならばユダヤ人は主の光に由りて光を見ました。
 二十四、二十八節にある『夫(それ)なる』という語は原語の我有るという意味でありまして、出エジプト記三・十四の『有て在る者』と同じ名前です。主はそういう神の名前を用いたまいます。ユダヤ人は極めて厳粛にその名前を言うことを畏れて大抵の場合には申しません。これは神の極めて厳粛なる名前であります。けれども主はただいまご自分は神すなわち有りて在る者なりと言いたまいます。また汝らはそれを信じませんならば救われないと言いたまいます。主はそれよりも勝りてご自分の神たることを言いあらわすことはできません。ユダヤ人の中ではこの言は一番強い言です。ユダヤ人はそれを聞くならば必ず心に感じます。その言について何卒イザヤ書四十三・十〜十二をご覧なさい。『わが主なるをさとりうべし』。我ある者なるを悟りうべし。『神なり』。在る者なり。『我のみ我はヱホバなり』。われのみわれは彼なり、有りて在る者なり。
 ただいま研究しましたことに由りて主は世の光なることを見ます。十二節より二十節までにおいてその光の中に主イエスを見ることができます。主は如何なる方に在すかが解ります。二十一節より三十節までにおいてその光の中に人間の模様が解ります。自分は如何なる罪人なるかを知ることができます。私共はこの二つのことを悟りますならば他の悟りは要りません。神を悟り人間を悟りますならば他の知識他の悟りは要りません。何卒主の光に由りて主の光の中にこの二つのことを悟りとうございます。
 また一度二十三節をご覧なさい。神の光は明らかに罪人の模様を示します。十七・十四をご覧なさい。『わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです』。そうですから今この二十三節はただ主イエスのみを指しません。上より出ずる者は何ですかならばただ主イエスのみでなくて信者はみな同様に上より出た者です。三・三において新たに生まれることを見ましたが、原語では上より生まれるの意味であります。私共はそのように上より出でたるものです。私共は罪人たるときには地より出でたる者、世に属ける者でしたけれども、生まれ替わることに由りて上より来る者となりました。『わたしたちの本国は天にあります』(ピリピ三・二十)。既に世に属ける者でなく天に属ける者であります。ヨハネ壱書四・四〜八をご覧なさい。ここにも同じ区別を見ます。神より出でたる者は勝ちを得ます(四)。また神より出でたる言葉を言います(六)。世より出でし者はその言うところも世より出でしものです(五)。神より出でたる者は必ず愛に満たされます(七、八)。世より出でたる者は愛なき者です。以上を三つに区別することができます。神より出でた者は第一に勝ちを得ます。第二に天に属ける言葉を言います。第三に愛を有ちます。けれども世より出でたる者はちょうど反対です。
 神の子供と世に属ける者とはその根本が違います。一は上より出で一は下より出ず。そうですから素性が違います。また現在の模様も違います。一は世に属ける者一は天に属ける者です。またその未来に往く処も違います。『あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる』(二十四)。けれども私共は天に往きます。そうですから神の子供たる私共は世に属ける者とは全然違う筈です。もし違いませんならば未だ天に属ける者とはなりません。すなわち素性も現今の有様も未来に往く処も違います。

【三十一、三十二節】

 このユダヤ人は真実に主を信じたる者でした。けれどもその信仰がよほど薄弱でございました。そうですから主はその信仰を祐けるためにこの導きを与えたまいます。主はここで五つの要点を言いたまいます。
  第一 信ずること
  第二 言におること
  第三 弟子なること
  第四 真理を知ること
  第五 自由を得ること
 これは主を信じて救いを得る五つの大切なる階段であります。どうぞこれを深く味わいとうございます。
 第一は主イエスを信ずることです。
 第二の『わたしの言葉にとどまるならば』。これは十五・七、十と同じことです。またコロサイ三・十六の『あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい』と同じことです。たとえば私共は初めて生まれ替わりました時に、主はわが罪のために死にたまえりと解りました。私共はそのことで留まらなければなりません。そのことに留まりませんならば疑惑或いは恐懼が起こって参ります。信仰が動揺します。道に留まるとはどういうことでありますかならば、常住不断、主はわがために死にたまえりと心に留めることです。その道を保つことです。たとえば私共は主に聖き心を求めてこれを受けましたならば、キリストの血すべての罪よりわれを潔めりという道に留まらねばなりません。疑惑と恐懼を少しも許さず、また徒に感情に非ずしてその言を心中保たなければなりません。そうですから私共は始めに信ずることを教えられねばなりません。次は言におることであります。信者の生涯は何の力に由りて強くなりますかならばその言を保つことに由りてであります。その言を保つことは実に活ける生命であります。
 第三の『本当にわたしの弟子である』。救われし者は悉く主の弟子でありませんと思います。使徒行伝を見ますならば信者の名が四種あります。第一は信者(信じた人々)です。たとえば二・四十四、四・三十二にあるとおりです。第二は兄弟と申します。たとえば十五・一、三、二十二、二十三、三十三において見ます。第三は弟子です。九・一、十一・二十六、十九・一、二十・一において解ります。第四は聖徒(聖なる者たち)であります。九・十三、三十二、四十一をご覧なさい。このように何人でも信者は四種の名前を持たねばなりません。けれどもみな悉くそんな者でないと思います。信者とは信ずる者の名を指します。けれども教会の中で信じない信者がありませんか。私共でもたびたび神の約束を信じないことはありませんか。兄弟とは愛を指す名前です。信者はみな一家族の者であります。弟子とは何人の弟子ですかならば主イエスの弟子を指します。決して使徒の弟子でなく、ルカ十・三十九にあるマリアのごとく主の足下に坐して直接に主の教えを聴く者であります。これが弟子の心です。性質です。また聖徒とは潔められたる者である筈です。身も魂も主に由りて潔められたる者であります。どうぞこの四種の名前を心中に受け入れとうございます。またこれが信徒の心霊上の四つの階段であると思います。
 これに由りて誠にわが弟子なりと主の仰せたまいし意味が解ると思います。初めて主を信じた時から弟子と称せられます。けれども真実にその名に従う弟子とは主の足下に座り虚心をもって主に学ぶ者であります。マタイ十一・二十九の『わたしに学びなさい』とは真実の弟子の心です。イザヤ五十・四『敎をうけしもの』、これが真実の弟子です。
 第四『真理を知る』。真理を信ずることと真理を知ることは違います。初めにそれを信じなければなりません。けれども漸次進んでついにそれを知るようにならなければなりません。真理を知ることは明らかにその事実を見ることです。心中にそれを見ることです。ヨハネ十四・十、二十をご覧なさい。『信ぜざるか』。『知るべし』。十節は信ずることです。二十節は知ることです。ホセア書六・三を引照なさい。『われらヱホバをしるべし、切にヱホバを知ることを求むべし』。真理を知り明らかにその真理を見ることです。コロサイ一・九の『神の御意を具(つぶさ)に知り』。これは信ずることに非ずして知ることです。コロサイ二・二をご覧なさい。『全き頴悟(さとり)の凡ての富を得て、神の奥義なるキリストを知らん爲なり』。これまた真理を知ることであります。
 第五『自由を得』ます。今まで罪の奴隷でしたならばその罪より自由を得ます。今まで恐れと疑いの奴隷でしたならばその恐れと疑いより自由を得ます。今まで人間の説に支配せられてその奴隷でしたならばいま自由を得ます。今まで肉欲の奴隷でしたならばいま自由を得ます。真理によりて自由を得ます。さきに光のことを申しましたが本章は光についての教えです。真理も光も同じことです。主はこの世の光です。また真理です。この二つの意味はいずれに致しましても違いませんと思います。同じ霊なる意味であります。真理が自由を与えることと光が自由を与えることは同じことであると思います。たとえば闇の中では歩むことも活動することもできません。もししか致しまするならば恐れと疑いがあります。けれども光が来りますならばそのために恐れと疑いは全く失せて自由に歩み活動することができます。この自由についてローマ書八・二をご覧なさい。真理は自由を与えます。真理は力ある者です。生命ある者です。これは知識のごときものではありません。生命の種です。或いはガラテア五・一を引照なさい。
 以上五つの階段を考えて見ますれば第一第二は信仰のことです。第三第四は悟りです。第五は自由です。この信仰と悟りと自由は信者の心霊的生涯の順序であります。

【三十三節】

 この人々はそれが解りません。また主に答えます。これは信者ですが静かに主の言を受け入れずに却って主に答えます。私共も同様にたびたび主に答えることがあると思います。もしかように主を拒みますならば必ず恵みを受けることはできません。その誤謬は何処より来ましたかならば特権と経験の区別が判らないからであります。このユダヤ人は大いなるアブラハムの裔でしたから特権を持っております。けれども経験は如何ですかならば誠に乏しうございます。もしその特権に伴いたる経験がありますならば必ず自由を得たのであります。現今でも多くの信者はたびたび同じ過失に陥ります。私共は聖書を読みますから大いなる特権を見ます。喜悦の特権、力の特権、平安の特権、そのほか種々の特権を見ます。けれども自分の心を顧みませずして自分はそれを得たと思いますることは実に恐ろしきことであります。兄弟よ、あなたの経験は如何ですか。真実にその特権を得ましたか。これは極めて大切なる問題であると思います。またここに他のことを見ます。この人は自分の罪人なることを承知します。けれども罪の奴隷なることを承知しません。人間は大抵自分の罪人なることを認めます。けれども罪がその主人であること、またそのために自由なる生涯を送ることのできないと言うことを拒みます。却ってかように『今までだれかの奴隷になったことはありません』と申します。けれども救いを得とうございまするならば自分は罪人なることを知らなければなりません。またそれのみならずなおなお謙遜をもって自分は罪の奴隷なること、すなわち罪はわが主人なることを認めなければなりません。

【三十四節】

 主は標準を与えたまいます。実に鋭い剣です。私共の心の特権と経験の区別を悟らしめたまいます。これに依りてどうぞ自分を判断いたしとうございます。『罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である』。そうですから凡そ人間は如何なる特権がありましても、熱心なる教役者でも、聖書を知悉しましても、悪を行う者は奴隷です。またそれはすべての悪事を行う者のみではありません。ただ一点において悪を行いますならばその人はやはり悪の奴隷です。

【三十五節】

 悪魔の家もあります。神の家もあります。凡そ悪魔の家におる者はみな悪魔の奴隷です。神の家におる者はみな自由なる神の子供です。いま悪魔の奴隷は安穏に悪魔の働きを行います。けれども恒に家におりません。恒にこの世におることはできません。この世より追い出されて後にその行いの報いを受けなければなりません。けれども神の子供は絶えず父なる神の家に留まります。悪魔の奴隷は現今は家におります。悪魔はその主人ですから自分の奴隷に快楽と平安を与えます。今、罪人の模様をご覧なさい。悪魔はただいま主人です。けれども未来において悪魔は地獄に追い出されます。その処では自由を得られません。また自分の奴隷に快楽と平安を与えることもできません。現今奴隷は悪魔の家に留まって悪魔の手より快楽を得ます。けれども神の子供は恒に家におります。しかして神の喜楽と平安を頂戴することができます。しかして今から永遠におることができます。私共は父の家を出なければならぬ理由はありません。永遠に父の家におることができます。

【三十六節】

 三十五節の子は何人をも指します。この節の子はただ主イエス、神の独り子を指します。『誠に自由を得べし』。また前には『誠に我が弟子なり』(三十一)。この誠に自由を得べしとは想像の自由ではありません、経験の自由です、実地の自由であります。
 私共は以上に述べました五つの階段を経験したる者でしょうか。主はかように幼稚な信者を高い経験に導きたまいます。どうぞ自分を顧みとうございます。私共はこの悟りと自由を得たる者なるや否やを知りとうございます。主は私共にこの言を与えたまいます。これは順次信仰に進む導きです。もし未だ真に自由を得ませんならばどうぞ得るまで求めなければなりません。
 三十七〜四十四に父なるアブラハムと父なる悪魔と父なる神のことを顕します。ユダヤ人はアブラハムの子供は必ず神の子供であると思いました。けれどもいま主が示したもうごとくアブラハムの子でありましてもその中に悪魔の子もあります。また神の子もあります。いずれもあります。

【三十七節】

 このユダヤ人は肉においてはアブラハムの裔です。また主を十字架に釘けることの源は何でありますかならば主の言が彼等の中に留まりませんからです。私共は主の言を拒みまするならば主を十字架に釘ける罪の萌芽です。その罪が実を結びますならば主を十字架に釘けます。

【三十八、三十九節】

 私共の行為には必ずこれを行わせる父があります。或いは父なる神或いは父なる悪魔です。神が私共の父ですならば、『わたしは父のもとで見たことを話して』います。もし悪魔が私共の父ですならば、『あなたたちは父から聞いたことを行っている』。私共の思いと行いとには父があります。このユダヤ人はアブラハムは自分の肉体の父ですから自分は神の子供であると思いました。けれども『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ』。アブラハムの行為は何でありますかならば神の聖声を聴くことです。神の聖声に従うことです。身も魂も神に献げることであります。いま神は世の中に今一度聖声を聞かしめたまいます。けれどもユダヤ人はそれを聞きません。それによりて自分は真実にアブラハムの子にあらざることを示します。三十九節の主の言は語を換えて申しますれば汝らも神の子の行いを行うべしとの意です。人間は行為に由りてその素性が知られます。それによって自分の心を判断することができます。

【四十節】

 アブラハムは喜んで神の真理を聴きました。

【四十一節】

 それに由りてマラキ二・十、十一をご覧なさい。今も同じようにユダヤ人は口ではわが神は一つなりと申します。けれども心の中に神に対して姦淫の罪を犯しております。

【四十二節】

 私共は真実の神の子供ですならば神を愛する筈です。主は神の使者です。『神がわたしをお遣わしになったのである』。すなわち神の聖旨により来たるものであります。

【四十三節】

 この人々は主の言いたもうことを知ることができません。何故ならば心の中に主の声を聞くことができませんからです。いま私共は聖書を解りとうございますならば心中に神の聖声を聞かなければなりません。ユダヤ人は主の表面の言葉を聞くことができました。けれどもその真の声を聞くことができませんでした。

【四十四節】

 悪魔は殺す者です。また誑(いつわ)る者です。いまユダヤ人は主を殺さんと謀ります。また神の真を受け入れません。そうですからこの二つのことのために己は悪魔の子であることを示します。もし私共の心の中に幾分かこの二つの罪がありまするならばそれほど悪魔の種子を受けた者であります。この節において悪魔の性質が解ります。『真理がないからだ』。そうですから最初に悪魔は真理におりました。けれども久しくそこに留まりませんでした。『自分が偽り者であり、その父だからである』。ただ自分が罪を犯すのみならず、罪の父です。他の人に同じ罪を負わせました。どうぞここで悪魔と主を比べとうございます。主は真理です。悪魔は誑る者です。主は人間に真理を与えたまいます。真理の種を与えたまいます。悪魔は誑りの種を与えます。悪魔は死を与える者です。主は生命を与えたもう方です。死を与えることの源は憎悪です。生命を与えることの源は愛です。悪魔は憎悪です。主は愛です。その時のユダヤ人の前に、またいま私共の前にこの二つの者があります。悪魔と主イエス、私共はいずれを選びましょうか。

【四十五節】

 この人々は悪魔の誑りを信じました。けれども神の真理を信じません。悪魔の子は悪魔の言うことを心中に受け入れます。神の子は心中に神の言いたもうことを受け入れます。コリント後書四・四をご覧なさい。ユダヤ人はかくの如く悪魔に依りて心を昧まされたる者であります。そうですから誑りが真理で真理が誑りであると信じました。これは実に恐るべき心の模様です。真理と誑りを弁別することができませんならば、実に心を昧まされた者です。いま教会の中にこのようなユダヤ人がたくさんあると思います。表面は神に仕えます。表面で神の真理を受け入れます。或いは聖書を読みます。けれども真実に心中に神の真理を受け入れません。それに由りて悪魔の子なることが解ります。

【四十六節】

 主には毫も罪と汚れの分子がありませんからこの人々は主を信ずる筈でした。何人でも主は罪なき者であることを見ることができますから主の言いたもう真理を信ずる筈でした。

【四十七節】

 神より出でし者すなわち生まれ替わりし神の子供は神の言を聞きます。それは正しき証拠です。私共は真実に生まれ替わりましたか否やを定めとうございますならばこの節によってそれを定めることができます。神の子供は神の言を聞きます。その人は喜んで神の真理を受け入れます。喜んで聖書を受け入れます。また心中にこれは神の聖声なることを知ります。

【四十八〜五十節】

 『裁きをなさる方が、ほかにおられる』。すなわち神はわたしの崇めを求めたまいます。わたしを軽んずるものは必ず神より審判を受けるという意味です。

【五十一節】

 五十節に『裁きをなさる方』とありますがその罪の価は死です。けれども『わたしの言葉を守る』者は窮なく死を見ません。神はそういう人を救いたまいます。無罪を定めたまいますとの意です。

【五十二、五十三節】

 私共は七、八両章において、実に洪大なる恵みを受けることができます。さきに申しましたようにこれはみな同じ祭の時に言いたまいましたことです。七・三十七に主に由りて生命の水を受けます、満足を得ることができます。八・十二に生命の光を受け入れることができます。八・三十六に自由を受けます。いま五十一節に永遠の生命を得ます。心の満足、光、自由、永遠の生命を受けることができます。これは実に大いなる約束です。けれどもユダヤ人はそれを受け入れません、却って主を軽んじ拒みます。

【五十四〜五十九節】

 そうですから主イエスはアブラハムの望むところの者でした。かつ慕うところの者でした。ユダヤ人はアブラハムの心に同情を表しません。主はこの時に漸次ご自分の栄光を言い顕したまいます。十二節にご自分は世の光なりと言いたまいます。二十三節に上より出でたる者なることを言いたまいます。五十一節に永遠の生命を与えることを言います。しかして五十六節においてアブラハムの慕うところの者であることを言いたまいます。順次この五十八節の黙示に導いて近づけたまいます。
 『アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」』。この『ある』者とはヱホバと同じ意です。我はヱホバなりと言うことと同様です。ユダヤ人にはその意味がよく解りました。そうですから主は確かに神の聖名を汚す者であると思いまして石をもって撃とうと致しました。
 主イエスはこの章において漸次ご自分の栄光を示したまいます。けれども示したまいますれば示したもうほどにユダヤ人は、それを拒みついに殺そうとするまでに至りました。今でも同じことを見ることができます。主はいま教会の中に漸次明らかにご自分の栄光を示したまいます。我はヱホバなりというこの大いなる言に漸次近く私共を導きたまいます。その全き栄光を示すように近づけたまいます。或る人はそのように導かれますならば却ってますます主を拒みます。或る人はその黙示に従って漸次主を信じてついにわが主よわが神よと跪いて叫ぶことができます。わが身も魂も一切の栄光も汝のものなりと叫ぶようになります。私共は如何にして主の栄光を見ることができますか。このユダヤ人は最初に主を拒みましたから、主が明らかにその栄光を顕したまいました時にも信じて受け入れる力がありません。いま聖書に由りて神は明らかに栄光を示したまいます。私共はそれを受け入れますか。もしそれを受け入れますならば神は漸次全き黙示を与えたまいます。主の言に由りて黙示を受けます。四十三、四十七両節をご覧なさい。これが第一の段階です。神の言を聴くことです。心の耳によって聴くことです。五十五節をご覧なさい。これが第二の段階です。その言葉を守ることであります。最初に聴き、次に守ることであります。或いは、三十一節の『わたしの言葉にとどまるならば』。これは同じ意味です、言を守ることです。そのように心中に言を守りますならば五十一節のごとく永遠の生命を得ます。また漸次主の栄光を見ます。けれどもこの人々はこの章において主の言を拒みました。九章において主は働きを為したまいました。ユダヤ人はその働きをも拒みました。十・三十一、三十九両節を見ますならばまたひとたび石にて主を撃とうと致しました。そうですからこの章において言を拒み九章において働きを拒みました。十・二十五をご覧なさい。言葉と働きの証拠を見ます。
 言葉を信じませんから働きを示したまいました。十・三十八をご覧なさい。『その業を信じなさい』。主はともかくも信ぜしめたまいとうございます。初めに言を与えたまいます。けれども言葉を信じませんならば働きを与えたまいます。ともかくも信ぜしめたまいとうございます。私共は主の言葉を信じますならば主の喜びたもう完き信仰です。もしそれができませんならば主の働きを信じましても信仰です。けれどもどうぞ最初から主の言を信じとうございます。十四・十をご覧なさい。これは主の言葉と行いと一緒に主を確かめます。また十五・二十二〜二十四をご覧なさい。二十二節において言を拒み二十四節においては行いをも拒みます。主は最初ユダヤ人に言を与えたまいました。けれどもそれを信じませんからなおなお明らかなる証拠すなわち行いを示したまいました。けれども二つながら拒みました。私共はたびたび主の言葉を信じません。主の行いを待っております。主の約束を信じません。その約束を経験しますならばそのために信じます。主が感情を起こしたまいますならば、或いは表面の眼に見ゆるように為したまいますならば、始めて信じます。これは完き信仰ではありません。主は始めに言を与えたまいます。どうぞそれを信じとうございます。



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