第 十 二 章 



【一、二節】

 主は今まで多くの休徴を為したまいました。また終わりに十一章において明らかなる甦りのしるしをなしたまいました。けれどもユダヤ人のごとくなお信じませんならばもはや仕方がありません。主は今からしるしを為したまいません。けれども今まで為したもうたしるしによって或る人々の心に主ご自身を愛する愛もできました。一〜八はその例です。また主を信ずる者もできました。主は来るべき王であることを信ずる者もできました(十二〜十六)。また外の国々より主を慕う者もできました(二十、二十一)。そうですから愛もできました。信もできました。慕もできました。このうえ続けてしるしを為したもう理はありません。今までなしたもうたしるしのために愛も慕もできましたから明白です。それを拒みます者はその心が頑固でありまして他にいかような明らかなしるしがありましても信ずることができません。神が現今奇蹟を行いたまいません理由はここにあるかも知れません。
 いま一度マルタ、マリア、ラザロの三人をご覧なさい。ここに信仰の三つの階段を見ます。『マルタは給仕をしていた』。マルタは義務的の考えをもって主のために働きました。ラザロは主と共に坐する者の中の一人でありました。彼は主と偕に交わりを得ました。これは一歩進んだ階段であります。けれどもマリアは主のために心の愛を流しました。これは一番高尚なる信仰の模様です。

【三節】

 『香油』。これはラザロの屍に塗るために買いましたものかも知れません。『家は香油の香りでいっぱいになった』。これについて雅歌一・十二をご覧なさい。『王其席につきたまふ時 わがナルダ其香味(かをり)をいだせり』。この引照によってマリアの行為の霊の意味を悟ることができます。主はわが王なりと思いまして愛をもって主に仕えますならばその愛の行為は香油のごとく主を喜ばせ、主を崇め、また人間をも喜ばせるものであります。この節と十一・五十七を対照なさい。尊き人間は主を殺さんと謀りました時に主は窃かに愛のしるしを受けたまいました。そのために主は幾分か慰安と喜びを得たまいました。敵が如何に主を殺さんと謀りましてもそういう愛の行為がありますならば主は必ず喜びたまいます。私共はどうぞ己を費やしまして、己を流しまして、価高きものをも流しまして主を喜ばせとうございます。
 主は三度油を灌がれたまいました。使徒十・三十八のごとく神の働きのために油を灌がれたまいました。御在世中の務めのために油を灌がれたまいました。この十二・七において死ぬることのために油を灌がれたまいました。また終わりにヘブル一・九をご覧なさい。そうですから永遠のために喜楽の油を灌がれたまいました。

【四〜六節】

 マリアの美しい行為に反対する者があります。この人はその美しい行為は悟りません。愛の価値を悟りません。愛の価値は銀何百と計算することはできません。愛の価値は銀三百を費やしましてもそれよりも優れたるものであります。私共の中にもそういうことを言う者があるかも知れません。汝は何故それほどの銀を費やしますか。何故それほどの長所を費やしますか。ほかの仕事をするならば必ず名誉を得ます。必ず大いなる働きができます。だが伝道のためにその長所を費やしますは実に無益ですと申す者もありましょう。使徒の一人でもそういうことを言いましたように今でも教会の中で尊ばれている者の中でもそういうことを言うかも知れません。けれどもそのような人には愛の価値は解りません。またこの人は神のそういう行為を喜びたもうことを知りません。ただ商売的の考えをもって真実にその価値を判断することはできません。

【七、八節】

 人間は私共に反対しましても主が私共の心を知りたもうならば幸福です。主はマリアの心が解りました。マリアの愛がわかりました。私共も真心をもって愛の行いをしますならば主はそれを知りたまいますからそれで満足を致しとうございます。ピリピ二・十七をご覧なさい。『血を流して灌ぐとも』。これはマリアの行いと同じことであります。

【九〜十一節】

 ラザロをご覧なさい。彼の履歴はちょうど私共の履歴と同じことではありませんか。
 第一に主に愛せられました(十一・五)。
 第二に甦りを得ました。これはちょうどエペソ二・一以下のようです。また主によって自由を得ました(十一・四十四、八・三十六)。
 第三に他の罪人を主に導きます(本章十一)。私共も同じように甦りに属ける生涯を送りますならば罪人を導く力もあります。
 第四に主と交わりて主の食卓に与ります(二)。
 第五に主のために迫害を受けます(十)。

【十二〜十九節】

 それによって主の威勢を見ます。主は六・十五のごとく人々が王とせんことを謀りました時にそこを去りたまいました。たびたびそういうことを拒みたまいました。主は人の名誉を求めたまいません。けれども最後にエルサレムを救わんがためにそれを許したまいました。主はたびたびエルサレムの中でしるしを為してご自分の神たることを表したまいました。たびたびエルサレムの中で生命の言を語りたまいました。けれどもそのことによってエルサレムは信じません。最後に人間の栄えをもってエルサレムの救いの最後の機会です。エルサレムがなお信じませんならばもはや亡ぶよりほかに仕方がありません。主は最後にこのように幾分か栄光をもってエルサレムに行き、このエルサレムを救いたまいとうございました。主がこれをなしたもうたのはエルサレムに救いを得べきすべての機会を与えて遺したもうところがないためでした。
 主は公にユダヤ人の王となることを示したまいます。キリストは公に彼らの王として自ら進んで出でたまいます。『世はあげてあの男について行った』(十九)。それによって主がご自分の生命を捨てたまわねば人間はこれを奪うことができないことを見ます。その時に主が王となりとうございますならば王となる方法がありましたでしょう。ユダヤ全国の人民は主を王と致しましたでしょう。そうですから主が十字架に上りたまいましたことは人間の力によってではありません。自ら生命を捨てたもうたのであります。主は必ず人間の力より逃れることができました。けれども世を救わんがために喜んでご自分を捨てたまいました。
 その時に主はご自分を王として出て行きたまいました。また往きて彼を迎える者が多くありました(十二、十三)。その時に主は王となりたまいません。けれどもこのことは未来のことの小さい雛形ですと思います。主は再び栄光をもって王となって出で来りたまいます。その時に新郎を迎えに出る者が多くあります(マタイ二十五・一)。ちょうどこの処で王を迎えに出ました者の有様です。その時には真正に王となりたまいます。どうぞ私共はその日のために備えができまして歓んで主を迎えに出たいものです。
 主は死罪に宣告されたまいます。けれどもただいま話しましたように主を愛する者もあります。また主を信ずる者もあります。今日でも主を殺そうと謀る者がたくさんあります。どうぞ私共は窃かに静かに主のために己を流し、愛を流し、或いは勇気をもって主を崇め奉り、そして生涯を送りとうございます。或いはマリアのごとく窃かに、或いはこの人々のごとく公に、主を崇めたいものであります。

【二十節】

 主は漸次死に近付きたまいます。十一・五十に祭司の長はそれを預言致しました。また十二・三〜七に愛する弟子等は心中にそれを感じました。ただいまこの二十節より主はまたひとたび明らかにそれを預言したまいます。また幾分か死の苦を覚えたまいます。
 このギリシャ人は異邦人でありました。けれどもその時にエルサレムの宮殿は世界中に神の証でありましたから外国の人々が心中に汚れたる偶像教を捨てとうございますならば必ずエルサレムの宮殿を求めなければなりません。神はそのためにエルサレムに宮殿を設けて世界中の燈明台とならしめたまいました。

【二十一節】

 四十五節をお比べなさい。異邦人でも知らず識らず救い主を求めました。異邦人は心中に手を伸ばして神に救いを願いました。

【二十二節】

 主の耳にこの叫びは使徒十六・九の叫びと同じことでありました。『その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った』。今この異邦人の叫びはちょうど同じような叫びであります。また啻にこの二人のみではありません。ほかの異邦人皆々の叫びであると思います。この二人はただ彼等の代表者でありました。主は、それを聞きたまいました時に必ず旧約の預言が成就せられることを感じたまいましたでしょう。たとえばイザヤ四十九・六をご覧なさい。これは主イエスに対して言われた預言です。そうですから主はこの時にこの預言が成就せられたことを暁りたまいましたでしょう。けれども主の答えは何でありますか。二十三節をご覧なさい。

【二十三節】

 栄えを受ける前に十字架を負わねばなりません。十九、二十両節をご覧なさい。十九節において『世はあげてあの男について行った』。また二十節において異邦人の中にも主を求める者がありました。そうですから主に名誉心がございましたならば王となることができたと思われます。主は実に王となることができました。当時主の前に二つの途が置かれてあります。一つはこの人等の懇求を聴き納れて王となることです。また一つは十字架を負うことです。いずれを撰びましょうか。主は安易なる道を捨てて十字架を負う道を撰びたまいました。そうですから二十四節において主はいま王の位に留まるべき時にあらずして十字架を負うべき時なることを仰せたまいました。

【二十四、二十五節】

 実に深い真理です。この真理はいま聖書に記されてあります。けれども最初から天然の書籍に記されてあります。神は私共に二つの書籍を与えたまいました。一つは黙示の書籍すなわち聖書です。一つは天然の書籍すなわち眼に見ゆる自然界です。私共は自然物によって神のことを暁ることができます。この二十四節は深遠なる真理です。奥妙なる哲学です。いま黙示の書物に記されてあります。けれども始めより自然界の中に書いてあります。この異邦人の思想では主は王となることによって多くの実を結ぶと思いました。けれども主の思想はちょうど反対です。死ぬることによって多くの実を結びます。小さき種をご覧なさい。この小さき種の裡には大いなる樹の勢いと功能とが悉く入ってあります。大いなる樹は小さき種の中に全く含まれてあります。ちょうど主は神の種です。『父すべての德を以て彼に滿しめ』(コロサイ一・十九=元訳・以下同)。『智慧と知識の蓄積(たくはへ)は一切キリストに藏(かく)れある也』(コロサイ二・三)。『それ神の充足れる德は悉く形體(かたち)をなしてキリストに住めり』(コロサイ二・九)。キリストは神の種でした。キリストの裡に神のすべての性質が含まれてあります。そうですからこの二十四節をご覧なさい。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』。今この一粒の麦について考えとうございます。『地に落ちて』。主は肉を取りたまいました時に地に落ちたまいました。神の国の光、神の国のことを捨てて地に落ちたまいました。一粒の種が地に落ちますならば失われたるものの如く見えます。人間から捨てられたるもののごとく見えます。外面より主の生涯を見ますならば人間に捨てられ神に捨てられたもうかのようです。主は地に落ちたる一粒の種のように地に限られ地に収められ地に妨げられまして生涯を暮らしたまいました。主は地に落ちて罪人の怒り、罪人の迫害、罪人の反対に遭いたまいました。一粒の種は地に留まりますることによって漸次死にます。主の生涯は死の生涯でした。この種は地に落ちましたから始めから終わりまで死の生涯でありました。ルカ十二・五十をご覧なさい。『しかし、わたしに受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう』。
 ただ眼で見ますならば漸次その種は無益となります。地に留まりますから漸次無益となるように思われます。けれどもその種は甦ります。この地に落ちることは私共を指すことであります。私共も同様に死の生涯を暮らしませんならば多くの実を結ぶことはできません。地に落ちることのためにやはり死の処に留まりまして毎日毎日己に死にまして静かに人間の迫害、憎悪、怒りを堪え忍ぶことはすなわち地に落ちることであります。或る兄弟は現世の利益を捨てました。主と主の福音のために生涯を捨てました。これは地に落ちることです。多くの朋友に反対せられましてこれは愚かなることと言われます。けれども主の模型に従い地に落ちます。そうしませんならば『一粒のままである』。主でもその地に落ちることによって多くの実を結びたまいました。ただ天国に留まりたまいますならば、一つにて留まりたまいましたでしょう。天の使いが多くありましても一つにて留まりたまいましたでしょう。ただ死によってのみ多くの実を結びたまいました。どうぞ人間または悪魔が自分の勝手に従ってあなたがたを取り扱い、あなたがたを迫害し、あなたがたを痛めます時に、このことを記憶なさい。ヘブル十二・三は地に落ちることを指します。主は地に落ちたまいました。どうぞそれを覚えて倦み疲れて心を喪わないように致しとうございます。
 けれども地に落ちることのみではありません。また死ぬることです。『死なずば』。これは十字架を指す言葉です。主は十字架と甦りによって多くの実を結びたもうことができます。一粒の種が死にますならば漸次生え出でまして多くの実を結ぶことができます。一粒の麦が死にますならば新しき栄光ある形を得ます。以前の形よりも実に輝ける美しい形を受けます。主でも死と甦りによって新しき輝ける貌と、新しき栄光を受けたまいました。ピリピ二・七をご覧なさい。『かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました』。これは地に落ちることです。同八をご覧なさい。『へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』。これは死ぬることです。また同九に『このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました』とあります。これは新しき形を得て多くの実を結ぶことを指します。主は甦りと昇天によっていかなる形を得たまいましたか。すなわち教会であります。教会はその形です。死にたもうまでは一粒の麦のようにただ一つにて留まりたまいました。けれども死にたまいたることによって新しき体を受けたまいました。またその体はご自分の形です。麦は以前の麦の種と同じ形を生みます。そのように教会は主の形を得る者を生みます。教会はまた漸次実を結びましてついに世界中を充たす器械であります。またどういう器械で世界を充たしますか。麦は以前の麦の一粒と同じ種であります。いま教会はどういう種をもって世界を充たしますか。すなわちキリストと同じ形、同じ性質を持つ者です。また麦はそのためにできました。麦の種は何のためにできましたか。また以前の麦の種のごとくに地に落ちて死ぬることによって多くの実を結ぶ器械となります。キリスト信者は死にますならば必ず甦りまして新しき栄光の実を結びます。己に死ぬることによって新しき栄光の実を結びます。
 花は太陽の小さき雛形です、その色は太陽の光の色です。そうですから種が死にますならば小さき太陽の形ができます。信者は己に死にますならば輝ける神の聖貌を有つことができます。種が地に落ちますならばその地の暗いところにも太陽の勢いを覚えます。その処にていったん死にますが太陽の熱と光のために甦りまして太陽の小さき形となります。信者よ、あなたは地に落ちて己に死にますならば神の光とその愛の熱のために甦りまして神の栄光の貌を受けます。『地に落ちて』。どうぞ私共は全く神の中に落ちとうございます。他事を捨てて全く神の中に葬られとうございます。洗礼式はこのことの小さき雛形です。神の中に葬られることです。そうですからキリスト信者はそれから後にはただ神より栄養を摂るものです。この種は地に落ちますならば地より栄養を摂ります。どうぞあなたがたの心の栄養を全く神より受け入れなさい。洗礼を受けた信者はみな地に落ちた者である筈です。みな地に落ちた麦の一粒である筈です。真実にそうなりませんならばその信者は偽善者です。何故ならば洗礼式において全く葬られた者と言い顕したからであります。
 三十二節をご覧なさい。これは多くの実を結ぶことの例であります。主は死によって万民を引いてご自分に来らせたまいます。或いはイザヤ五十三・十、十一をご覧なさい。これは多くの実を結ぶことです。また創世記二十二・十七、十八を引照なさい。これは如何なる時でしたかならばアブラハムがイサクを祭壇の上に載せた時です。アブラハムは己に死にました。そうですから多くの実を結ぶことができました。彼は独り子をすら捨てましたからかくの如く多くの実を結ぶことができました。私共も多くの実を結びとうございますならば、語を換えて云わば多くの罪人を導きとうございますならば安易なる途を取ることはできません。その道はただ一つよりほかにありません。もし死にませんならば多くの実を結ぶことはできません。兄弟よ、これは私共を刺す言葉です。いま何故神の聖国が妨げられますか。何故伝道が妨げられますか。私共は二三人の悔い改める者を見ますならば幸福ですと思います。けれども神は多くの人を救いたまいとうございます。それに何故神の権能が妨げられますか。何故ですか。私共は地に落ちて死ぬることを惜しみます。そうですから麦は必ず実を結ぶことはできません。この死ぬることの代わりに私共は集会を設けます。説教を努めます。各様の礼拝に参ります。種々伝道の工夫を致します。けれども死にませんならばそういうことは殆ど無益です。神は私共にそういうことを願いたまいません。神は何を願いたまいますか。ただ死ぬることを願いたまいます。

【二十六節】

 『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え』。或る人は主に仕えます。けれどもカルバリ山まで主に従いません。
 『そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』。これは幸福です。八・二十一において主は『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と仰せたまいました。主に仕えません者は主の在したもう処におることはできません。けれども主に従う者は『我がをる所に在(をら)ん』。主は御在世中に何処にいたまいましたか。地の上にいたまいました時には何処にいたまいましたか。三・十三をご覧なさい。『天より降り天にをる人の子』(元訳)。そうですから主は地上に降りたまいました。けれども続いて天にいたまいました。『我に事ふる者は我がをる所に在らん』。そうですから私共はこの地におりましても心の中には天国におります。天国の経験があります。表面は地に落ちて死ぬごとく思われます。けれども心の中にてはほんとうに天国におります。天国の幸福と天国の経験とは私共の心の中にあります。

【二十七節】

 主の眼の前に十字架の影が見えますから『今、わたしは心騒ぐ』。これはゲツセマネの園の苦難の初めであります。十一・三十三にも同じ憂いと悼みを見ます。彼処では何のために憂いたまいましたかならば罪の結果なる死を見たもうたからであります。また十三・二十一にも同じく心に憂いたもうことを見ます。そこにはご自分の使徒の一人がご自分を売ることを見て心を憂いたまいました。
 『何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救って下さい」と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ』。主は定められた目標に向かって旅行を為したまいました。私共も同様に心を定めてその目標に向かって進まなければなりません。途中で如何なる苦難に遭いましてもその目的を成就しなければなりません。ヘブル十二・二をご覧なさい。『彼は其前に置くところの喜樂(よろこび)に因てその恥をも厭はず十字架を忍びて神の寶座(くらゐ)の右に坐しぬ』。そうですからその前に置くところの喜楽を見たまいました。またそのために苦難を堪え忍びたまいました。けれどもこの二十七節を見ますならば罪に勝利を得る戦争の烈しいことが解ります。

【二十八節】

 『父よ、御名の栄光を現してください』。ちょうど主の祈りの第二の求めです(マタイ六・九)。その祈りに循って苦しみを堪え忍ぶことができました。
 『すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した」』。今まで主イエスの降誕によって神の栄えが顕れました。『再び栄光を現そう』。これは主の甦りを指す言葉ですと思います。『既に栄光を現した』。これはラザロの甦りです。『再び栄光を現そう』。これは主の甦りを顕す言葉です。

【二十九節】

 神は明らかに語りたまいました。けれども人間は鈍くありましてそれを悟りません。或る人はただ肉に属ける思念をもってこれは雷なりと申しました。けれどもこれはほんとうの神の聖声であります。神が語りたまいますならば人間はいつでもそれを誤ります。ただ雷のように自然のことですと言い、或いは天使の声であると申します。どうぞ私共は耳を開きまして神が語りたまいます時にほんとうにその聖声を聴き分けとうございます。

【三十、三十一節】

 その時は実に大切の時です。世の存亡の定まる時です。そうですから神は天より聖声を聞かしめたまいました。
 『今こそ、この世が裁かれる時』。主の十字架は世の審判の始めでした。世は主を審くと思いました。けれどもかえって主イエスの審判はこの世の審判でありました。何故なれば主を審くことによって自分の汚れたる心を示しましたからです。人間は聖なる神の独り子を審きますならそれに由りて自分の心の悪を示します。主を憎み主を殺しますからそれによって自分の心の悪の度を示します。
 主はご自分の身においてこの世の罪を負いたまいます。またこの世の受けるべき報いを受けたまいます。
 『この世の支配者が追放される』。今サタンはこの世の位より追い出されます。

【三十二節】

 主はこの世の位に上りたまいます。一方から見ますならば十字架は主の位でした。王の位でした。そのために権力を張りたまいました。またそのために漸次世界の王となりたまいます。この節によって主がその十字架の恥と痛み、その栄えとその事業の成功をもよく知りたまいましたことが分かります。

【三十三〜三十五節】

 神は私共各自に光を与えたまいます。けれどもその光に従うことができませんならば神はその光を変えて闇となしたまいます。エレミヤ十三・十六をご覧なさい。これは実に恐るべきことです。私共は神の光を受け入れませんならば漸次闇となります。そうですから三十五節においてユダヤ人のために恵みの日がいまだ僅かに残っております。けれども早く過ぎ去りますから極めて危うい時でした。急いで救いを得ませんならば致し方はありません。

【三十六節】

 今までたびたび救いの言を与えたまいました。けれどもそれに聴き従いませんからいま彼等を避けてご自分を隠したまいました。現今でも神は同様に罪人を取り扱いたまいます。種々なる方法をもって救いを言い顕したまいます。救いの途を示したまいます。けれども罪人がそれに聞き従いませんならば神はご自分を隠したまいます。ホセア五・十五をご覧なさい。そうですから神は永い間罪人を尋ねたまいます。けれども罪人がそれを断りますならば仕方がありません。神は退いてご自分を隠したまいます。
 今までに信じません人はもはや仕方がありません。今までに信ずる機会がたくさんありました。けれども主を信じませんからもはや仕方がありません。黙示録二十二・十一をご覧なさい。その時にも同じ模様を見ます。今までに汚れたる者は潔められる機会がありました。けれどもそれを拒みましたから今から永遠に汚れたるままに留まります。今までは潔めを得られました。けれどもかえって汚れを択びましたからこれから後は潔めを得る機会がありません。

【三十七節】

 多くのしるしがありました。けれども人々は頑固なる心をもってそれを信じませんでした。

【三十八〜四十一節】

 『彼の榮』。すなわち主の栄えです。そうですからヨハネは、イザヤ六章の話を引きました。その時にイザヤは宮の中に主の栄光を見ました。他の人々は主を見ません。けれどもそのとき主の栄光は明らかに輝きました。ただ、心の眼の開かれたイザヤのみがこれを見ることができました。ほかのイスラエル人はこの栄光を見ることをあまり望みません。いま三年の間ユダヤ人の中に神の栄光が輝きました。けれどもただ心の眼の開かれたる者のみそれを見ました。ほかのユダヤ人はみなそれを見ることを望みませずしてそれを信じませんでした。けれども明らかにその眼前にその稜威が輝きました。これまで研究したごとく、多くのしるしと多くの不思議なる行いがありましたからすべてのユダヤ人は信ずる筈でした。けれどもかえってその心を鈍くしその目を暗くして神と神の恩恵を拒みました。神の栄光が明らかにユダヤ人に顕れましたのにユダヤ人はかえって彼を侮りました。現今でも至るところに同じことを見ます。

【四十二、四十三節】

 そうですからその不信仰に由りて自分を審きました。主に従いませんからそれによって彼等の心が表れました。神の栄えより人の栄えを好んだことが分かりました。その時にも主は人間を審きたまいました。外面の審判ではありません。心の審判です。人間は主を受け入れることと受け入れませんことによって自分の心を示しました。

【四十四〜五十節】

 これは主の公の説教の大意であると思います。これは何処にて仰せたまいましたかは記されてありませんがヨハネはこの処に主の公の説教の大意を記しました。
 『叫んで、こう言われた』。七・二十八及び十一・四十三を引照なさい。罪人を罪の墓より覚ましたまいとうございますから声を挙げて呼びたまいます。
 『わたしを遣わされた方を信じるのである』。やはり子は父と一なりと仰せたまいます。
 四十四節の信ずると四十五節の見るとの区別をご覧なさい。信ずるとは自分の方から主に身を委すことです。見るとは主の真正の栄光が解ることです。この両節において主イエスを信ずる者は父なる神をも知ることが解ります。主が父をも現したもうことも解ります。
 『世を救うために来たからである』。このためにすなわち救いのためにこの世に降りたまいました。再びこの世に降りたまいます時には世を審かんがためです。けれども今来りたまいましたことは世を救わんがためです。
 主はまたご自分を受けることとご自分を棄てることの大いなる結果を言いたまいました。いま主を棄てましても急に審判を受けません。けれども漸次未来の審判が来ります。
 またこの言は主が公然ご自分を顕したまいましたことの終わりです。この時からただご自分の弟子等に語りたまいました。



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