この第十章から第十一章九節まで前に掲げた表の通り創世記大区分の第四段で、第一節はいわゆる『ノアの子セム、ハム、ヤペテの伝』である。この第十章は普通に「国民の表」と呼ばれているが、その区別は五節、二十節、三十一節にあるとおり『
誰も知るごとく、この世界の人類は三大種族に別れている。すなわちアーリア族、ツラン族、およびセム族である。しかしてヤペテの子孫はアーリア族で、ハムの子孫はツラン族で、セムの子孫はセム族である。これらの十章の区分は第一は二〜五節でアーリア族、第二は六〜二十節でツラン族、第三は二十一〜三十一節でセム族のことである。
これはアーリア族である。すなわちゴメルの子孫はケルト人であり、マゴグはロシア国の北の方、マデアはメディア国、ヤワンはギリシャ国、トバルとメセクはロシア国の南の方、テラスはトラキア(ギリシャの一部)の国である。とにかくこれはヨーロッパの人種に相違ない。
これはツラン族である。ハムの子は四人で、クシとミツライムとフテとカナンであるが、フテの子孫のことは何も記されず、クシとミツライムとカナンの子孫についてのみ詳しく書いてある。これについて注意すべく、また憶ゆべき大切な研究がある。もちろん本書において充分詳細に書くことはできないけれども、いま肝要なる数点を学ぼう。
一、クシの子孫はバビロンの国に住みて名高い文明を起したものである。この八〜十二節に三つの大切な既述がある。すなわち第一はバビロンの文明はアッシリアの文明の前であったということ、第二は人々がバビロンから出てアッシリアに植民地を建てたということ、第三はニネベを建てた人々はセム族でなく、やはりツラン族であったということである。この三つのことがここに明らかに記されてある。かつて高等批評家は嘲り笑うほどにこれらのことを否定したのであるが、後に考古学者の発掘研究の結果、聖書の記事の正当なることが証明された。
高等批評家はバビロンの文明はアッシリアの前であるはずがないと明白に言ったが、考古学者の発掘した証拠によってバビロン王国の歴史を見れば、前のバビロン王国と後のバビロン王国があったことが明らかになった。たとえばこの十節を見れば、クシの子ニムロデの王国の始めはバベル、ヱレク、アッカデおよびカルネであったとあるが、この四つの立派な邑がみなもはや掘り出され、これによって
『なお驚くべきことは、太古のバビロンの状態が光に照らされて来たことである。アブラハムと同時代なるハムラビの時、またはそれより遙か以前においても、既に
フランスの発掘家デ・サーゼクはその後数年にして(すなわち1893年より1895年の間に)南バビロンのテロにおいて一大書籍館(一万の書板を包含するもの)の遺物を発見したが、これはおよそ紀元前二千七百年頃なるグデアの治世に既に存在していたものである。
一層近いところでは、ペンシルヴァニアの探検家等は古昔のカルネであるニップァにて神殿の書籍館を掘り出したが、その後さらにこの神殿の基礎を掘り開くことによって一層古い文明の多くの遺物を発見した。それはサルゴン第一世やナラムシンの時代の舗石から二十五尺から三十五尺の下にあったところより察すれば、これは紀元前六千年或いは七千年ほど古いものでなければならぬと思われるが、そんなに古くないにしてもとにかく非常に古いものであるに相違ないのである』と。
さてこのバベル、ヱレク、アッカデおよびカルネの四つの
二、ハムの二番目の子ミツライムは疑いもなくエジプトの国民の先祖である。さればこの十三節と十四節の名は
十四節にあるカフトリ族はミツライムの子であって、クレタ島の人民の先祖であるように思われる。これが事実であればはなはだ面白い。およそ考古学者の彫りだした記念碑に書いてある文字は四種で、エジプト文字、アッシリア文字、ヘテ人の文字、クレタ島の文字であるが、そのうちエジプトとアッシリアの文字の読み方は既に発見されているけれども、ヘテ人の語とクレタ島の語は今でも誰も読むことができぬ。たくさんの記念碑が掘り出されているけれども、如何ほど調べても未だその文字を読む者がひとりもいない。しかしエジプトの文明と
三、ハムの四番目の子はカナンである。しかしてこのカナンの二人の子がシドンとヘテ(十五節)であった。シドンは言うまでもなくフェニキア帝国の建設者でありその先祖であった。彼らは驚くべき航海上の権力を持っていた。
ヘテはヘテ
ここにセム族の先祖たちが記してある。二十二節にあるとおりセムの子はエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラムである。
アルパクサデは無論ユダヤ人の先祖になったのである。ヘブルという名はアルパクサデの子なるエベルから出たのである。二十五節にエベルの名が出るけれども、その前に二十一節に『セムはエベルの
今一つの注意すべき大切なることは、セムの子の一人がエラムであるということである。エラムはかの名高い大きなエラム帝国の建設者であり、その先祖であったに相違ない。第十四章の一節にエラムの王ケダラオメルという人物が出て来るが、だんだん古物研究の結果エラム帝国の人々はセム族でなくアーリア族であることが疑われぬようであるので、高等批評家は創世記十章に明らかな誤謬があるとなし、これを証拠として聖書を攻撃するのである。しかしながら古物発掘の結果エラム帝国の始めはやはりセムの子であったということの証拠が発見された。すなわちフランスの有名な考古学者がスサという所(スサはエラム帝国の首都で、エステル記一章二節にあるシュシャンと同じ所である)でだんだん古物を掘り出す中にごくごく古い記念碑が出てきたが、この記念碑の文字は普通にエラム語で使った文字でなく、太古のセム族の用いた
この第十章は一見すれば何ら霊的の意味がないようであるけれども、考古学者の研究によって聖書の神の
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