第七回 審判の始め
大 洪 水 前
大洪水の歴史的事実なることは聖書以外にも疑うべからざる幾多の証拠がある(附録を参照せよ)。しかし主イエス御自身、洪水の真実なることを印したもうた以上、我ら信者は必ずしも聖書以外の証拠によってのみ信ずるものではない。しかし我らが殊に学びたいのは、これによって教えられるきわめて厳かなる霊的教訓である。この六章から九章までは聖書の中でもはなはだ厳かなる部分である。主イエスはその御再臨の問題について語りたもうた時に、ノアの時代の実例によりて厳粛に警戒を与えたもうた故に、我らは畏れ慎みて警戒を受くべきである(マタイ二十四章三十七節)。
もちろんここに預言的意味もある。すなわちエノクが死せずして直ちに天国へ携え挙げられたのは、御再臨の時に携え挙げられるべき聖徒の型であり、方舟に依りて救われたノアとその家族は、来らんとする患難時代を通して救わるべきユダヤ人中の聖徒の型である。けれども我らはかかる預言的研究を措きて、現在の我々に当て嵌むべき霊的教訓を学ぶこととしよう。この第六章において三つの学ぶべき点がある。すなわち(一)洪水の前にこの世の有様は如何にありしか(一〜十三節)、(二)洪水の前に真の教会の有様は如何にありしか(九〜十三節)、(三)方舟による救い、すなわちキリストの十字架による救いは如何(十四〜二十二節)。
一 洪水前のこの世の有様
一、人口の増加ははなはだ大いであった。(六章一節)
二、人間の勢いははなはだ大いであった。(六章四節)
ここに解しがたき点がある。すなわち二節に『神の子』と『人の子』という二つの組がある。これにつき或る人はこの神の子は天使であると言い、或る人はアダムのほかに神の造りたもうた人間であると言い、また或る人は神の子はセツの子孫で、人の女子はカインの子孫であると言っている。いずれにしてもその間にできた子供等ははなはだ力の強い巨人というものであった。
三、人の名声がはなはだ大いであった(六章四節)。我らはいま太古の世にいかに文明が進んでいたかということを知ることはできぬが、或る人はエジプトのピラミッドは洪水前に建てられたものであると考える。もしそうであるとすればその時代の人の学問、特別に数学は非常に進んでいた。また天文学なども大いに進んでいたに相違ない。とにかく洪水以前の人間ははなはだ偉いものであったと思われる。
四、洪水の前の世界において妥協的精神ははなはだ大いであった(六章二〜四節)。当時の人の有様が非常に悪しきにかかわらず、神の子等、すなわちセツの子孫がかかる悪人と結婚するは大いなる妥協の道である。すなわちこの世の習慣と神の国の習慣の間の隔てが取り除かれ、神の民というものが全くこの悪しき世に呑み込まれてしまったのである。
五、洪水の前の人々の外部の悪ははなはだ大いであった(九〜十三節)。この九〜十三節の五つの節の間に『この世は暴虐に満てる』ことが二度記され、また『乱れ』という字が三度記されている。すなわちこの社会は乱れた社会、暴虐の満ちた社会であった。言い換えれば無法の時代であったのである。
六、洪水の前の人々の内心の悪ははなはだ大いであった。
ヱホバ人の惡の地に大なると其心の思念の都て圖維る所の恒に惟惡きのみなるを見たまへり (六章五節)
この五節の言ははなはだ強い極端な言である。すなわち人の心が悪いばかりでなく、その心の思いの図るところが悪しきのみであると書いてある。その程度についても『都て』と言い『惡きのみ』と言い、その上に『恒に』と加えてある。如何に当時の人の内心の悪の大いなりしかを表さんとて聖霊は語を重ねてなお足らぬを覚えたもうたように見える。
以上は大洪水の前の社会の有様であるが、これは現在の社会には何の関係もないであろうか。主イエスは、御再臨前の社会の状態はちょうどノアの大洪水前のそれと同じ様であると仰せたもうた。我ら今この社会の現状を見れば、この御言を憶わずにはおられぬ。人心はだんだん悪くなる、社会は乱れている、暴虐残酷なことが絶えず新聞紙上に現れている。されば主イエスの御再臨が近づいて来ると思わねばならぬ。畏れ慎むべきことである。
二 洪水前の教会の有様
ノアとその家族は疑いもなくキリストの教会、すなわち救わるべき真のキリスト信者の型である。さればこの方面の研究ははなはだ大切なる有益なる教訓を与えるのである。
一、ノアは神の前に義とせられた人であった(六章九節)。既に見たとおりその世の人がはなはだ悪しきに拘わらず、彼は幸いにも神の御前に義とせられ、また同時に義人であった。これは実に教会の有様である。この悪しき世の中にキリスト信者はキリストの贖いによって義とせられ、聖霊によって生まれ更わったものである。
二、ノアはただ義とせられたばかりでなく、全き人と称えられている(六章九節)。これはもちろん内心的に潔められているとの意で、神に順い神に事え、聖霊に満たされたる状態である。もはや見たとおりその世の人は内心的にはなはだ悪しき者であったけれども、ノアだけは透き徹るように潔き心で神の御前に全き人であった。これはキリストの教会にあるべき真の状態のよい写真ではなかろうか。
三、ノアは神と偕に歩む人であった(六章九節)。聖書のうちに神と偕に歩むと録されたのはエノクとノアの二人だけである。既に見たとおりその世の社会は乱れて暴虐に満たされていたけれども、ノアはキリストのごとく柔和と謙遜と愛に満たされ、キリストと同じ性質、同じ目的、同じ願望があった。かくキリストと同じ心をもって神と偕に歩む人であった。これは今の時代の真の教会の特権であり、また経験されるところのことである。
四、ノアは『ヱホバの目のまへに恩を得たり』(六章八節)。既に見たとおりその時代の人々は、いわゆる神の子等すら世の人と妥協し、全く神の恩寵を等閑にし蔑ろにして、神を喜ばすとか、神の御前に恩寵を得るなどということは何でもないことと思った。しかしノアの悦びと楽しみとは、神を悦ばしその御目の前に恩寵を得ることであった。これも我ら信者のしかあるべきことである。
五、ノアは来らんとする審判につきて神を信じた(ヘブル十一章七節)。既に言ったとおりその世の人々の勢力がはなはだ強大で、当時の巨人たちが亡ぼされるというようなことがあろうとは思われぬほどであったが、ノアは見ゆるところによらずただ神の言を信じて、必ずこの大いなる人物をも亡ぼしてしまう審判の来ることを深く信じたのであるが、今の時代においても同じ確信があるべきはずではなかろうか。現在の教会の欠点はこの確信のないところにあるのではなかろうか。信者の中にも来らんとする神の審判を信ぜぬものがあるというに至っては、ああ!
六、ノアは方舟を造った(ヘブル十一章七節)。ノアは自ら義とせられ、潔められ、神と偕に歩み、神に悦ばれ、来らんとする審判につき神の言を信じたばかりでなく、御告を蒙りて自己と家族のために方舟を造った。『主イエス・キリストを信ぜよ、さらば汝も汝の家族も救はれん』(使徒行伝十六章三十一節)。我らも来るべき審判の日、再臨の主のみもとに逃れることのできるよう、自らも備え、家族のためにも備えるべきである。
七、ノアは義を宣べ伝えた(ペテロ後書二章五節)。ノアはただ方舟を造り、自己と自己の家族を救う道を設けたばかりでなく、大胆に不信者を警戒し、悔い改めさせるために神の義と神の忍耐と救いの道を宣伝した。既に見たとおりその世の人々はただ人間の名声ばかりを重んじ、名誉、身分ばかりに心を奪われていたのである。けれどもノアは大胆に人間の名誉身分のはかなきことを宣べて、忠実に神の義と救いを伝えたのである。これははなはだ美しい絵である。キリストの教会はまさにこの通りであるべきはずである。すなわち義とせられ、潔められ、神と偕に歩み、神の御前に恩寵を得、来るべき審判につきて神の言を信じ、自己と家族のために方舟を備え、亡びつつある霊魂に神の恵みを宣伝することは我々の特権であるが、これは果たして我々の経験であるか。もしそうでないならば何故であろうか。我らにもノアと同じ恵みは与えられぬであろうか。同じ力は賦けられぬであろうか。されば遅くならぬうちに、ノアによって警戒されまた教えられ、真心から彼を学んで聖霊に満たされ、忠実に主イエスの御再臨を待ち望みたいものである。
三 方舟による救い、すなわち十字架の救い
聖書のうちにキリストの贖いの型がたくさんある。すなわち野に挙げられた蛇、屠られた羔羊、鞭をもって撃たれた巌、逃れの邑などの如きものであるが、就中誰にもよく知られているのはノアの造った方舟である。すなわち大洪水の逆巻く怒濤は神の審判の型で、ノアとその家族の入った方舟はキリストの十字架、キリストの贖い、キリストの救いの型である。されば創世記六章十四〜二十二節をば敬虔と畏れをもって学ぼう。
一、方舟には戸、すなわち入口があった(六章十六節)。同じようにキリストの救いに入るにもその入口なる門があって、何人でもそこから入らねばならぬ。キリストは『我は羊の門なり』(ヨハネ十章七節)と言い、また墻を越えて入り来る者は盗人であると仰せられた。墻は大切なものである。これは羊が檻を出て迷わぬためのものであるが、入口として用いられるべきものではない。この墻とは何を言うのであるか。これはキリスト教の教理である。教理は大切なものだ。けれどもただ教理を信ずることによって救われるものではない。必ず贖罪という真の門から入らねばならぬ。
二、この方舟には導光牖があった(六章十六節)。この牖を通して光が入り来るのであるが、この牖は脇の方に向かずして上の方に向いている。ただ上の方からのみ光が来る。方舟の中にいる者はただ上の空を仰ぎ見るのみである。そのごとくキリストの贖いによって光が来る。またこの贖罪によって我らは上を仰いで天を見ることができる。
三、方舟の中には食物があった(六章二十一節)。すなわちノアとその家族を養うために屠るべき動物もあったのである。これはキリストの贖いの何たる絵ぞ。キリストの贖いには霊魂を養う霊の糧がある。すなわちキリストの肉を食い、その血を飲んで、霊の生命を養うことができる(ヨハネ六章五十三〜五十八節)。
四、この方舟の中に真の救いがあった。七章十六節に書いてあるとおり神はその方舟の戸を外より閉じたもうた。その戸が閉じられてから内の人は出ることができず、外より入ることもできなかった。そのようにキリストの十字架の内に完全なる救いがある(ヨハネ十章二十八節)。
五、方舟のうちに全き安全があった。六章十四節に書いてあるとおりノアは瀝青をもってその内外を塗ったのであるから、水は少しも入ることができぬ。レビ記十七章十一節およびその他のところを見れば、この『瀝青』と訳した語はまた『贖罪』と翻訳されている。いま我らをしてキリストの中におらしめて安全ならしめるものはキリストの贖罪の血である。
六、方舟の中に犠牲として献ぐべき牲があった。すべての動物はその類に従いて牝牡二つずつ方舟に入らしめられたのであるけれども、七章二節にあるとおりすべての潔き獣は七つずつ入っていた。これは必ず犠牲のために用いるものであったに相違ない。
そのようにキリストの中に我らが犠牲として献げる材料は豊富に備わっている。自己のためばかりでなく、凡ての人のために献げる供え物となすべきものがキリストの中に備わっているのである。
七、終わりに、方舟の中に生命の種が保護されていた(六章十九〜二十節)。方舟の外に生きているものは一つも残らず滅亡された(六章十七節)。けれども生命を継続すべき種が方舟に入って保護された。ちょうどその通りキリストのうちに永遠の生命の種もあり、その生命を継続する恩寵もある。キリストの外はただ死と暗黒と滅亡とばかりであるけれども、キリストのうちには光明も糧も救いも安全も贖いも永生も豊かに入っている。これは実に幸いである。この幸福なる音信を読む時に、我らは果たして何処におるか、方舟の内におるや否やを自ら省み、自ら試みねばならぬ。
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