第二十三回 アブラハムの至上の試練
神は種々の点においてアブラハムを試みたもうたが、今は至上最大の試みをなしたもう時が来た。アブラハムがこの試練を経て善しとせられたる物語が本章の記事である。これより七つの点を挙げて順次に学ぼう。
一 極端なる試み (一、二節)
人はみな境遇に試みられ、悪魔に試みられ、神に試みられることであるが、悪魔の試みは人の心のうちに悪を引き出すために誘うのであり、神の試みは人の心のうちより善きものを引き出さんとて試験したもうのである。アブラハムに対する試みは、彼が何物よりも勝りて神を信じこれに従い愛し奉るかという点であった。そのために彼は故国を棄て、親族を棄て、所有を棄て、肉の手段も、イシマエルをも棄てたのであるが、最後に神の御約束によって生まれたただ一人の子、嗣子をも献げねばならなかった。これは奇蹟的に賜われる子であり、これによって万国民が祝福さるべきための者であったが、これも献げねばならぬのであった。ウェスレーは、如何なる恩寵でも直ちにこれを神に帰し奉らねばならぬと言っている。もし帰し奉らないならば、これは心に留まって腐敗し、また更に新しい恩寵を受ける妨げとなる。それゆえに神はかくアブラハムを試みたもうたのである。すなわち彼が神をば一切の一切として愛し奉るやいかにと試みたもうた。我等も主より来る喜びも力もすべて主に帰し奉って、ただ主御自身のみを愛し奉るべきである。
二 即座の従順 (三節)
『アブラハム朝夙に起て云々』。これは彼の躊躇なき従順の行為である。もし彼が少しでも躊躇したならばそこにサタンの乗ずる機があったであろう。けれども即座に順い、『朝夙に起て……おもむき』たるところに彼の勝利がある。
三 従順の秘訣 (四〜八節)
従順の秘訣は信仰である。アブラハムは神の御約束は必ずそのイサクを通して成就すると確信していた。されば五節に『我と童子は……復爾等に歸ん』と言った語にて知られるごとく、彼はイサクが必ず生きて帰ることを信じて疑わなかった。もしこれが真実神の命でなかったならば、彼の行為は恐るべき残忍か狂気の所為であったであろう。しかも彼は決して熱狂的の人でなく、これまでも冷静に考え深い信仰をもって歩んで来た人である。この時にも彼は神がサラの死ねるごとき胎をも顧みたもうたことを思い、今またそのごとくにイサクをも甦らしめたもうことを信じ、この信仰をもって極めて冷静にイサクを献げたのである(ヘブル十一章十八、十九節)。神が最上の献げ物を命じたもう時に神は必ずよくこれを返したもうことを信ずることによって服従することができる。
四 極端なる大胆 (九、十節)
彼は実際にイサクを殺さんとした。前に言えるごとく神はイサクを甦らしめたもうことを信じたが、彼を殺さずして返したもうべしとは予期しなかった。ヤコブ二章二十一節を見よ。『我らの父アブラハムはその子イサクを祭壇に獻げしとき、行爲によりて義とせられたるに非ずや』と言っている。彼は真実に献げたのである。さてヤコブ書のこの言葉はパウロの主張する信仰によって義とせられることと齟齬するというので、ルターはこの書をば藁の書翰であると言っている。しかしこの書は決して異端でなく、またパウロの言うところを齟齬してもおらぬ。ただパウロの言うところの信仰は心の信仰で、ヤコブの言うところは頭脳の信仰であり、パウロは信仰の霊を論じ、ヤコブは信仰の形を言っているだけの相違である。パウロが引用しているのは十五章のことであって、この時にアブラハムは義と認められたのであるが、ヤコブの引照したのはこの二十二章のことで、この時アブラハムの信仰は具体的に成就したのである。
イサクはもはや二十歳くらいであったにもかかわらず、幼時のごとく素直に順った。我等はアブラハムの大胆なる信仰に驚くことは勿論であるが、それとともにイサクの大胆なる従順にもまた大いに驚嘆すべきことである。その生命の取られることをも否まずして父のなすがままに任せたのは驚きても余りあることである。
五 試練の目的の示現および神の道の明示 (十一〜十四節)
アブラハムの全き従順が表れた時に、神はこの試練の目的を示しまた御自身の道を示したもうた。すなわち試練の目的は彼が何物にもまさって神を愛するか否かを試みんためであった。神は『わが子よ 汝の心を我にあたへ』よと仰せたもう(箴言二十三章二十六節)。我らの心を神に献げ、恩寵よりも賜物よりも神御自身を愛し奉ること、これが神の要求である。このことさえも彼は順い、神は満足したもうのである。かくアブラハムが試みを経て善しとせられた時に、神は御自身の途を啓示したもうた。それは『ヱホバエレ』である。神自ら燔祭を備えたもうことであった。ここに自然宗教と超自然宗教との区別がある。自然宗教においては神の怒りを宥めるために我等が犠牲をせねばならぬと教えるのである。それゆえに偶像教においてはいわゆる人身御供と言って、人を犠牲として献げることは珍しからぬことである。さなくとも或いは難行苦行をなして怒り深い神の心を和らげ受け納れられんとするのである。けれども超自然宗教すなわち神の啓示による教えは、ヨハネ三章十六節である。十字架である。神が御独子を犠牲として我等をして和らがしめたもうことである。このことが今アブラハムに具体的に示された。すなわち彼がその信仰を具体的に表した時に、神も御自身の途を具体的に啓示したもうたのである。
六 誓いによる約束の確保 (十五〜十九節)
神は十二章三節において約束を与え、十七章七節において契約を立て、ここにおいて誓いを立てたもう。これはその御旨の決して変わらざることを彼に確保せんためであった。すなわちヘブル書六章十三節以下にあるごとく、ただアブラハムばかりでなく後に約束を嗣ぐ者に対して、その御旨の変わらぬことを充分に示さんとしたもうのである。ルカ一章七十三節にもこの誓いのことが引かれている。我等も『己の前に置かれたる希望を捉へんとて遁れたる』者であれば、この誓いによって『强き奬勵』を受くべきである(ヘブル六章十八節)。
『是等の事の後』すなわちモリヤの山における犠牲の後、その故郷における親族の消息が届いた。すなわち弟ナホルに多くの子が生まれ、その孫として娘が生まれたことを告げ知らされた。この娘こそ後にイサクの妻となったリベカである。イサクの従順と犠牲の報賞としてこの報知が来たのである。これは主イエスの十字架の後に花嫁たる教会が備えられることの型である。もう一度この二十二章にある信仰上の最上の試練の話を繰り返して読めばはなはだ深く教えられることである。すなわち試練の目的、試練に対する従順、試練に堪える秘訣、試練に顕れる神の極端なる愛と智慧と恩寵につきて学ぶことができる。イサクを献げることはもちろん神の御独子を与えたもうことの最も明らかなる型である。神は必ず我々の信仰と従順を試みたもうけれども、それは御独子を我々に賜るためである。その試練の目的を悟り、その黒雲の裏に輝く日光を見ることができるならば、これは信仰の幸福、信仰の勝利、信仰の報賞である。
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