第十九回 アブラハムの禱告



第 十 八 章


 ヘブル一章一節を見れば、神は往昔の時代において種々の方法をもって語りたもうたが、今この末の世には御子みこイエス・キリストによって語りたもうとしるされている。すなわち神は人にその旨を知らしめる方法を時代によって異にしたもう。昔は天使が人の形にて顕れて神の御旨みむねを伝えたこともあった。そのことを憶えてこの十八章を見ねばならぬ。マムレのかし林でアブラハムに顕れた三人の一人はキリスト、二人は天使である。

 この十八章の始めと十九章の始めとを比較してみよ。面白い対照をなしている。十八章においては天使は生命と幸福の音信おとずれを伝えんためにきたり、十九章においては審判の音信をもって来た。また十八章においてアブラハムは天幕の入口にて彼らを迎え、十九章においてロトはソドムの門にて彼らの来るを見た。これは殊に注意すべきことである。アブラハムもロトもともに故郷を去ってカナンの地に向かって旅し、ともにカナンに住みて艱難を共にしたのであるが、一朝利害の問題のために相別れてより、次第に相異なれる生活に入った。アブラハムはどこまでも天幕生活を続けたのに反して、ロトはソドムに家を建てて住み、アブラハムはその地に在りてもやはり旅人であったが、ロトはソドムを故郷としてその住民となった。しかして今天使はアブラハムに祝福の音信をもってきたれるに、ロトには審判の音信をもって来る。これは深く味わうべきことである。

 この十八章は三つに区分される。一〜八節九〜二十二節二十三節より終わりまでである。


一 アブラハム神に供え事う (一〜八

 ヘブル十三章二節を見れば、アブラハムは初めにこれは誰であるか知らずして懇篤に接待したのであるが、実は神をば歓迎してこれに供え事えたのであった。黙示録三章二十節を見よ。これはキリストの御言みことばである。キリストは我等の饗筵に臨み、しかして我等にも御饗筵にあずからせたもうのである。さて神のために饗宴を設けることは、愛と感謝と讃美をもって神を悦ばせ奉ることである。人の欲するところは、信用され愛せられることであるが、神もまた信ぜられ愛せられたく思し召すのである。神は『わが子よ なんぢの心を我にあたへよ』と仰せたもう(箴言二十三章二十六節)。父たる者は皆その子の感恩の念に満ちた心の喜びを見たく思う。そのごとく神もこれを求めたもう。さればヘブル十三章十五、十六節は神の悦びたもう供え物であり、テサロニケ前書五章十六〜十八節は神の悦びたもう御旨みむねである。我等はアブラハムが神の前に饗筵を設けて接待したように、神に悦ばれる霊的饗筵を設けるべきである。


二 アブラハム神と交わる (九〜二十二

 ここにアブラハムが神との親しき御交わりをかたじけのうすることがしるされている。交わるということは双方にとって共に幸福なことである。たとえば私の子供の小さい時には、私はこれを膝の上にのせて愛して喜んだが、今は彼も二十五になったから、私と同じような程度をもって事物を理解し、互いに相語り合うことができることになった。かくして相交わることは私にとっても彼にとっても幸福なことである。或る信者はちょうど小さい子供のようで、いつも甘いお菓子ばかりを欲しがる。けれどもいつまでもかくあるべきでない。必ず成長して神と交わり得る者とならねばならぬ。さてここに神がアブラハムと語りたもうたことは、

 第一、奇蹟的に子の生まれることでった(九〜十五節)。ここに『なんぢの妻サラに男子をとこのこあらん』との音信を聞いてサラが『心にわらひて』とある。哂うことにも二種ある。詩篇百二十六篇二節にある『そのときわらひはわれらの口にみち』とある笑いは信仰の笑いであるが、ここの『哂ひ』は不信仰のそれである。アブラハムは十七章において既に信じている。サラも信ぜねばならなかったのである。

 第二はソドムの審判さばきについてである(十六〜二十二節)。神はソドムの『罪はなはおもきよりわれくだりて云々』と言いたもうたが、ソドムの罪の中にても格別に憎むべきことは男色であった(ロマ書一章二十七節)。現時英国にてはこの罪に対して六年ないし十年くらいの刑に処している。神はこの罪の一般に行われおることのためにソドムを亡ぼしたまわねばならなかったのである。さていま神は『我爲わがなさんとする事をアブラハムに隱すべけんや』と仰せたもうた。アモス三章七節を見れば『それしゅヱホバはそのかくれたる事をそのしもべなる預言者に傳へずしては何事をもなしたまはざるなり』とある。そのごとくここでも神はソドム、ゴモラを亡ぼさんとしたもう時に、まずこれをアブラハムに示したもうのである。神はいつでもその信用すべき者にその為さんとする事を示したもう。ルカ十章二十一節を見よ。ここに『此等これらのこと』とあるは、同十章十二節以下しるされる審判のことである。神はこの世の恐ろしき審判をこの世の智者学者に隠して嬰児みどりごに示したもうのである。さて神に信用され御交わりに入り、神のなさんとしたもうことに同情し、これを悟り得る人は如何なる者であるかを、アブラハムの例によって学ぶことができる。すなわちアブラハムは

 一、祝福のくだとなって他の人に神の祝福を及ぼすべきものであった(十八節)。
 二、その子孫と家族を治め、これに命じて神の道を守り行わしめる者であった(十九節)。

 ここに格別に伝道者の心得べきことがある。家庭をよく治める者でなければ、神との交通に入りその御経綸にあずかることはできぬ。余はいつもバックストン師の家庭を見て感ずることである。その反対にサムエル前書三章一〜十四節を見よ。エリは祭司長で立派な人であったが、その子らを治める力がなかったために祭司長の職は取り除かれた。

 三、アブラハムはそのきたらんとする審判を聞くや否や自己を忘れて直ちに彼らのために禱告した。神はアブラハムの心を知っていたもう。彼がソドムのことを聞いて必ず冷淡に聞き流すことをせず、熱心に禱告することを知っていたもうたから、まず彼にこれを示したもうたのである。


三 アブラハム神の前に立って禱告すること (二十三〜三十二節

 アブラハムは大胆に神の御前みまえに立って執り成しの祈禱を献げた。『なんぢ義者たゞしきものをも惡者あしきものともに滅ぼし給ふや……天下をさばく者は公義たゞしきを行ふべきにあらずや』と議論している。彼は五十人、四十五人、四十人、三十人、二十人と義者の数少なきを予想して禱告を進めてきたが、ついに十人でその禱告をやめた。実際、ソドムには四人しか義者はいなかった。十人に足らなかった。彼が十人でその禱告をやめたのは信仰の失敗である。ついにソドムは亡ぼされたが、彼が大胆に執り成して祈ったためにロトの一家は救われたのである。アブラハムは滅亡の幻を明らかに示されたから、かく大胆に祈った。我等が彼のごとく熱心でないのは滅亡の幻を見ないからである。



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