第十八回 アブラムの更名



第 十 七 章


 この章はアブラムの名の変更することであるが、ここにまた彼が既に与えられた約束の拡大されかつ明瞭にせられることがしるされている。彼は既に恵まれていたが、ますます恩寵に進んだ。彼の一生を見れば、神のめぐみ はますます深く、ますます広くかつ明瞭となっている。すべての神の約束は初めは幾分漠然としているけれども、試誘こころみに勝ちてしたがい遂げることによってますます明瞭にせられるものである。


一 神アブラムに顕れたもう

 『アブラム九十九歲の時ヱホバ、アブラムにあらはれて云々』(一節)。これまで神は御言みことばによりて、或いは異象のうちに語りたもうたが、今は御自身彼に顕れて語りたもうのである。


二 神はアブラムに御自身の名を示したもう

 『我は全能の神(エルシャッダイ)なり』(一節)。エルシャッダイとは生命を支える神という意味である。シャッドは『胸』或いは『乳房』の義で、生産をなさしめることを含む。アブラムは子孫を与えられる約束を得たけれども、サライが既に年老いているゆえに、他の手段を用いてこの約束を成らしめんとした。それゆえ神は今、御自身全能者である、生産をなさしめる神であることを示したもうのである。霊的の子を産むことは信者の特徴である。信者には皆この願望がある。私も二十五年前に救われてから直ちに霊魂を救いたいとの願いが起こった。しかし実際、霊の子を生むことは、『全能の神』によるのである。


三 神の御前みまえに全きあゆみをなすべき命令

 『わが前にあゆみて完全まったかれよ』(一節)。もはやサライの声を聞きて自分の元気工夫を用いず、聖前みまえに全き歩みをなせよと命じたもうた。信者の生涯に種々の完全がある。

 一、良心の完全 (ヘブル書九章九十四節

 これは良心の呵責から全くきよめられた状態である。主イエス・キリストの血はかく良心の咎めを取り除きて完全ならしめたもう。

 二、性質の完全 (マタイ五章四十五四十八節

 これはまた愛の完全とも言うことができる。しき者の上にも善き者の上にも日を照らし、正しき者にも正しからざる者にも雨を降らしたもうごとく、その対手あいての如何にかかわらずして愛することのできる愛の完全である。

 三、奉仕の完全 (ヘブル書十三章二十一節

 主イエスを死の中より復活せしめたもうた神は、キリストの血を当て嵌めて我等の良心を全うし、愛に全うしたもうばかりでなく、すべての善き事につきて我等を全うして神に奉仕せしめたもうのである。

 四、信仰の完全 (テサロニケ前書三章十節

 パウロはテサロニケの信者の信仰の欠けたるところを全うしたいと願ったことであるが、この信仰の完全こそ第十七章の御命令の主意である。ヤコブ書一章三、四節には、信仰のためしは忍耐を生ずるものであると言い、また全くかつ備わりて缺くるところなからんために忍耐をして全き活動はたらきをなさしむべきことを教えている。前章で学んだとおり、アブラムの信仰の欠けたるところは特にこの忍耐の足らないことであったから、神はいま御自身の全能の神であることを示して、信仰の完全なる歩みをなすべく命令したもうのである。

 歴代誌下十六章九節には、神は『おのれにむかひて心をまったふする者のために力をあらはしたまふ』とあるが、ロンドンのリーダー・ハリスという人は英国上院の牧師であったが、少しでも罪ありと思えば街頭に跪座して祈ることでも敢えてした。彼はまた高貴の婦人の饗筵の間にトラクトを配付することをも恐れなかった。彼も欠点のない人ではなかったけれども、その心が神に対して完全であった。


四 既に与えられたる約束を拡大されること

 神は十二章二〜三節及び十五章四、五節の約束をば一層明瞭になし、またその範囲をも拡大なしたもうたのである。その契約はすなわち(一)神とアブラムの間の契約(二節)、(二)多くの子孫を得せしめること(六節)、(三)多くの国民の父となること(五節)、(四)これは永久の契約たるべきこと(七節)、(五)カナンの全地を与えて永久の産業となさしめたもうこと(八節)であった。これらの約束は文字通りに成就し、なお成就せんとしている。カナンの全地は長く異邦人に占領されていたが、ユダヤ人はこの地が契約によって神より与えられたものであることを決して忘れなかった。欧州大戦争の前にトルコはこれをユダヤ人に売却せんとしたけれども、彼らはこの地は神より与えられた嗣業であるから買い取るべきものでないと言ってこれを承諾しなかったという。その後果たしてトルコの手を離れ、ユダヤ人の手に帰することとなったが、完全なる独立国として充分なる発展を遂げる日も必ず来ることであろう。

 とにかく神はかく御自身に従順なる者に対してその約束をますます明瞭になし、これを拡大し堅からしめたもうのである。


五 アブラムの名をえられること

 名はその性質を表すものであるから、新しき名の与えられるは新しき性質の賦与されたことを意味するのである。

 第二章のところで神の七つの御名みなについて語ったが、これは七つのご性質を表す言葉であった。また黙示録二章十七節に『新しき名をしるしたる白き石をあたへん』とあるも、新しき性質を与えられることである。またキリストの御弟子みでしのうちペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人のみ特別に新しき名を与えられたことがしるされている。彼らは殊に特権を与えられていたように見える。しかして三人とも殉教者となった。

 今ペテロについて言えば、ペテロ後書一章一節に彼は『イエス・キリストのしもべまた使徒なるシメオン・ペテロ』と自らの名を録している。『僕』は主に対する自己の態度、『使徒』は奉仕の職分、『シメオン』は罪人つみびとたりし旧名、『ペテロ』は救われて聖徒となれる彼の動かざる『岩』なる性質を表す。

 そのごとく今アブラムがアブラハムという新しき名を与えられたのは新しき性質の賦与を意味している。しかしてこの名の変更した仕方は、アブラムに一字の気音(h)を加えられたのである。この気音による文字『ハ』は、気息を吹き出さずして発音することのできざる字である。サラの名の変更もまた同様である(英訳ではSaraiからSarahとなる)。すなわちヨハネ二十章二十二節に主が弟子たちに格別なる特権を与えんとて息を吹きたもうたごとく、ここでも神は彼らに息を吹き入れて子孫を生むべき特権を賦けたもうたのであるとジューク氏は説明している。


六 契約のしるしとして割礼の式を定められること

 アブラハムとその子孫はこの契約に与ることのしるしとして割礼を行うべく定められた(十節)。しかしロマ書四章十一節にあるごとく、この割礼によって恵みを受けるにはあらず、これは内部に受ける恵みの経験の表徴たるべきものであった。真の割礼は申命記三十章六節にある『なんぢの心と汝の子等こどもの心に割禮をほどこし云々』とあるそれでなければならぬ。新約においては一層明らかに『肉の体を脱ぎ去るもの』である(コロサイ二章十一節)と示され、またピリピ三章三節には真の割礼を受けたる者の実際を説明して、

  一、神の御霊みたまによりて礼拝をなし
  二、イエス・キリストによりて誇り
  三、肉をたのまぬ者

であると言っている。

 コリント後書六章十六節以下に記されてある約束は、その実質においてアブラハムに与えられた契約と同じものである。されば我らは同七章一節にある意味においての割礼を受けねばならぬ。またガラテア書六章十四〜十七節を見れば、パウロが肉体に受けた迫害の痕跡は彼の霊的割礼の徴であった。そのごとく我等も真に心に割礼を受くれば必ずその徴があるべきである。


七 サライの名えられ、約束の子の母となること、かつその子の名あらかじめ示されること

 神はアブラハムの信仰を励まさんがために細かきところまで示したもうた(十五節)。約束の子はただアブラハムの子であるばかりでなく、またサラより生まれるべきであった。しかしてその子はイサクと名付けらるべきことをも明らかに示された(十九節)。かくアブラハムもサラもその嗣子の如何なる者であるかを明らかに意識することを得せしめたもうた。かくのごとく我等も意識的にイエス・キリストを内住せしめ奉るのでなければ霊的子孫を生むことはできないのである。



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