アブラハムの生涯の特質は信仰、イサクの生涯の特質は子たること、ヤコブの生涯の特質は奉仕である。さればアブラハムにおいて信仰の霊を見、イサクにおいて子たる霊を見たるごとく、ヤコブにおいて奉仕の霊を見ることである。二十九章一〜二十五節は妻を得るための奉仕、二十九章二十六節〜三十章二十四節は子を得るための奉仕、三十章二十五〜四十三節は所有を得るための奉仕であるが、更にこれを七つに区分して学ぼう。
ヤコブは欠点多き者であるけれども、また神の選びたもうた僕である。彼はユダヤ人の先祖たるべき子を生むべき妻を取らせんとて遣わされたのである。しかし同じ目的をもって遣わされたエリエゼルと比較して見よ。非常に多くの相違がある。二十四章を見よ。エリエゼルはまずその出発において著しく異なっているばかりでなく、彼は(一)祈禱深く、(二)神を拝し神を崇め、(三)成功した時にも神に感謝し讃美した。ヤコブも無意識的には導かれているけれども、祈禱も礼拝も感謝讃美もなかった。後に回顧して神の御導きであったことを認識するけれども、その当時においてはこれが神の導きであることを悟らず、全く無意識的に導かれて行ったのである。彼は信仰も極めて幼稚であったから、導かれる道も分からなかったのである。されども神は頌むべきかな。かかるヤコブをも御約束のごとく絶えず伴って導きたもうた。我等も同じことではなかろうか。今までの生涯において意識的に神に導かれていると覚えなかったことも、今よくよく回顧すれば過去十年二十年の生涯のごく細かいところまで実は主に導かれていたことを悟ることである。無論これは感謝すべきことではあるが、自ら神の御
ここにおいてもエリエゼルの場合と大いに異なっている。リベカが迎えられた時に兄ラバンは直ちに与えたが、今はそうでない。ラバンははなはだ狡猾な者であり、またあまり富んでおらず、
ヤコブは父を欺き、兄より家督の権を奪ったのであるが、今はラバンに欺かれた。彼は罪を犯せし者として、その播きし所を刈り入れるべくここに奉仕したのである。
ヤコブはラバンの欺瞞をば非常に怒ったけれども、彼はいま何をも
彼は人を欺き、また欺かれて、多妻主義の結婚をなした。さればその家庭には必ず嫉みと争いと苦痛と悲哀とがあったのである。この家庭の苦痛は子供の名に現れている。これを研究すればラケルとレアの心の中の有様が分かる。
○ルベン(見る) 三十一、三十二節
レアの苦難は夫が真実に愛せぬというところにある。いま子が出来たからこれからは愛せられるであろうと言ったところにその悩みが顕れている。
○シメオン(聞く) 三十三節
レアの心の中に真の信仰が見える。神は見、また聞きたもうと信じたのである。されども『今
○レビ(結ぶ) 三十四節
『
○ユダ(讃美) 三十五節
夫は我を愛せざれども我は神を
○ダン(
ラケルは苦しめられた。また子なきために嫉みを起したのである。前にも言ったようにハムラビイルの法典によれば、妻に子がなければ
○ナフタリ(争い) 七、八節
再び
○ガド(福) 十、十一節
これはレアのこれまでの態度と違う。彼女は神与えたもうと言わずして幸運であると言った。或る人はこれはレアの堕落であると思うけれども、そうではない。これは
○アセル(楽しみ) 十二、十三節
幸運によって神を
○イッサカル(値) 十四〜十八節
今一度ここに神の名が出て来る。ガド、アセルの生まれたる時にこれを神の賜物と言わなかったが、このたび自分の胎により子を与えられた時に神の名を言っている。彼女がなお神を信じている
○ゼブルン(住む) 十九、二十節
神を
○ヨセフ(加えられる) 二十二〜二十五節
これはラケルに生まれた
これらの命名の理由を見れば彼の家庭の有様が知られる。二人の女が何故に子を求めたか、自分に子がなければ
ヤコブは既に妻と多くの子をもったが何の所有もなかった。しかし今は帰国せんと言い出した。ラバンは自分には神を信じなかったけれども、ヤコブのために祝福せられたことをよく知っているから、彼の去ることを好まなかった。ヤコブは『我は
ヤコブは『
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