第二十四回 アブラハムの信仰の告白



第 二 十 三 章


 この章はサラの死と葬りの記事であるが、ここに預言的意義も含まれている。すなわち二十二章はイサクの十字架で、二十四章はイサクの新婦を娶ることであるから、その中間に来る二十三章は母サラの死、すなわちユダヤ教のすたることを意味している。アブラハムの生涯において、彼がイサクを献げたる後二十五年は極めて平和無事で、特に記すべき出来事はサラの死とイサクの結婚であった。二十二章において彼の信仰の絶頂が見えているが、この二十三章にいては彼の性質の美点が現れている。今これを七つの方面から観察しよう。


一 彼の妻に対する愛 (一、二節

 聖書に婦人の年齢のしるされてあるのはサラばかりである。彼女はかく老年に至って死んだが、アブラハムはキリスト教的のきよき愛をもってその妻のために哀しみいた。人多くは年の若い妻を愛して年老いてその愛が衰える。けれども彼はそうでなかった。かつてブース大将がその妻の葬式の時になした演説は、涙なくして読むことのできないほど彼女に対する尊敬と愛の真情の表れたものであった。彼がその妻に対して深い同情と潔い愛のあったことは、彼の大人物であった証拠である。今アブラハムにおいても同じことである。二節に『アブラハム至りて』とあるは、彼は家畜を飼うためにベエルシバにおり、サラはヘブロンにいてそこで死んだので、アブラハムはヘブロンに至りて哀しみ哭いたということであろう。


二 彼の質素単純なる生活 (三、四節

 アブラハムはカナンの地にて立派な家を建てることはできたのであるけれども、常に『賓旅たびびとなり 寄居者やどれるものなり』と言っていた。彼はいま年老い、かつ富める者となりながら、質素な賓旅生活を続けていた。ヘブル十一章九、十節を見れば、彼が天幕に住んでいたのは神の営み造りたもう基礎もといある都を望むからであった。彼はもはや老年に及んだけれども、その目的はいよいよ明らかで、見えざるものを望んで進んだ。彼は実に我等の信仰の模範である。


三 信仰の確信 (五〜九節

 東洋の人々は多くはそのしかばねを故郷に葬らねばならぬと思っている。アブラハムも習慣から言えばカルデヤへ妻の屍体を持ち帰るべきであるけれども、彼はこの地が神の与えたもうた地であると信じていたからそこに葬ったのである。五十章二十二〜二十六節を見れば、ヨセフは兄弟等に遺言して必ず自分の屍体をカナンの地に携え帰るように誓わせた。これはまた彼の信仰の告白であった。ヨセフは大人物で、その生涯には驚くべき事蹟が多くあるにもかかわらず、聖霊はヘブル書の記者をして特にこの一事をば彼が信仰によってなしたる最大事として挙げしめたもうた(ヘブル十一章二十二節)ことは注意すべきである。もし我らがヨセフの伝記を書いたならば必ず他のことを撰んだであろうが、聖霊はそうではない。これは聖書の霊感の書たる所以である。さればアブラハムがカナンの地にその妻を葬ったという一事は、彼がこの地の長くその子孫に与えられることを信ずる信仰のあかしとして重要視すべきものである。


四 この世よりの分離 (六節

 ヘテびとは親切に『我等の墓地はかどころ佳者よきものえらみてなんぢの死人を葬れ』と申し出た。けれどもアブラハムは断然とこれを断って自分のために墓を買った。彼はヘテ人とその墓地を共にすることをいさぎよしとしなかった。これによってこの世から離れたる彼を見ることができる。


五 この世に対する慇懃と正直 (九節

 彼の紳士らしき慇懃なる態度を見よ。彼は決して世と妥協せぬけれども極めて慇懃なる態度をもってこれに接した。ヘテびとより土地の賜りを受けず、借りず、彼らの申し出をば丁寧に辞退して価を払って買い求めたるその仕方を見よ。これらのこともすべて彼は信仰によって行ったのである。彼にとりて神はすべてのすべてであった。


六 彼の天的思念 (十一〜十六節

 彼は何のために土地を買ったかといえばただ墓地を求めたのみである。彼がこの地に在りていつまでも天幕にのみ住みて地上に何らの経営もなさざるを見て、人々はこれを軽蔑したであろう。されど彼の思念は常に天に属していたのである(使徒行伝七章四、五節)。


七 彼の先見 (十七〜二十節

 ある人が英国より帰り、『英国人は怜悧ではないが智慧がある』と評したそうである。この言葉はまたもってユダヤ人を評すべき語である。ユダヤ人は政事家として常に驚くべき先見の明のあることを示しているが、彼らの先祖アブラハムにおいて殊にそのしかるを見ることである。ここに彼が墓を買ったことがしるされているが、彼はその前に今一ヶ所墓を買った(使徒行伝七章十六節)。すなわち彼は墓地二ヶ所を有したのである。後に至ってユダヤ国が二つに分裂したけれども、いずれの方にも先祖の墓があって神の与えたもうた地であることをあかししている。ここに彼が子孫のために図る驚くべき先見が知られる。

 さてこの墓のことにつき高等批評家は聖書に誤謬ありとするけれども、それはアブラハムの買った墓の二ヶ所あることに気付かざるためである。以下の聖語を比較してみれば明らかである。

 一、アブラハムがシケムにてハモルの子等よりかねをもて買い置きし墓(使徒行伝七章十六節
 二、ヤコブ パダンアラムよりきたりて……その天幕をはりしところの野をシケムの父ハモルの子等こらの手より金百枚にてかひとり云々(創世記三十三章十八、十九節
 三、アブラハムその妻サラをマムレの前なるマクペラの野の洞穴ほらあなに葬れり これすなはちカナンの地のヘブロンなり云々(創世記二十三章十九、二十節

 すなわち事実はヤコブがシケムにて野を買わざる前に、いつかは明記されざれどもアブラハムがその洞穴ほらあなを買ったのである。使徒行伝七章十六節はこの墓なる洞穴のことを言い、創世記三十三章十九節はその墓の周囲の野のことを言ったのである。これは二十三章に詳記せるヘブロンの墓とは別である。批評家が誤謬とするはこの二つのことを混同するよりきたる間違いである。南の方なるヘブロンの墓にはサラ(二十三章十九節)、アブラハム(二十五章十節)、イサク(三十五章二十九節)、リベカ、レア、ヤコブ(四十九章三十一節)等が葬られ、北の方なるシケムにはヨセフの骨が葬られている(ヨシュア記二十四章三十二節)のである。



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