第十回 契約の始め



第九章八 〜 二十八(二十九)節


 聖書のうちには種々の契約がある。第一、ノアに対する契約、次にアブラハムに対する契約、第三、イスラエルに対する契約、第四、ダビデに対する契約、しかして新しき契約なる新約である。神はただその御言みことばいだし約束を与えたもうばかりでなく、御自身の変わりたまわざることを示すために懇ろに契約を立てたもうのである。既に言えるごとくノアとその家族を救い出し、更生の生涯に入らしめ、驚くべき恩恵を垂れたもうたが、なおその上に彼らを励まさんとて契約を立てたもうた。この九章八〜二十八節は二つに分かれている。すなわち第一、神の契約、八〜十七節、第二、人間の失敗、十八〜二十八節である。


一 神の契約 (九章八〜十七節

一、この契約の立てられし原因 (八章二十一節

 われ再び人のゆゑよりて地をのろふことをせじ は人の心の圖維はかるところその幼少時をさなきときよりしてあしかればなり

 これははなはだ不思議なる原因である。神が今一度洪水をもって世を亡ぼさないという契約を立てたもうた原因は、人の心の謀るところが幼い時からつねしきのみであるからと仰せられた。

 元来人間というものは罰によりて改善されるものでない。罰によって幾分か罪を犯すことを禁ずるけれども、罰は救済的のものではない。罰はおもに報復的であるから、人類は罰せられ亡ぼされても、それによって癒さるべきものでない。それゆえに神は驚くべき愛をもって契約を立て、これより今一度洪水をもって人を亡ぼさぬように断然契約なしたもうたのである。

二、契約の条件

 神の立てたもう他の契約には条件がついているけれども、この契約は全く無条件である。これによって神の慈悲深く善なるご性質が明らかに現れている。もちろんこの契約は物質的なる恵みの関係であるが、神はマタイ伝五章にあるとおり『その日をしき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にもらせ給ふ』神である(四十五節)。これは神の愛の一方面である。

三、この契約の範囲 (九章十節

 この契約には一切の受造物が包含されている。哀しいかな、洪水の時、人間の罪のはなはだしきために下等動物までも共に亡ぼされたのであるが、今はまた人間も下等動物もみな区別なくしてこの契約の祝福にあずかる次第である。

四、この契約の性質 (九章十一節

 この契約の性質は神の寛容である。これからノアの時の大洪水のような一般におよぶ物質的な滅びが人類に臨まぬのである。人は如何に罪を犯しても、如何ほど神に叛いても、如何に極端な滅ぶべき状態にあっても、神は人を亡ぼさず、驚くべき忍耐をもって悔い改める機会を与え、この世の終わりまで罪に対する罰を延ばしたもうのである。これはこの世の人の仕方と全く反対である。この世の仕方は罪を犯せば直ちに捕らえて罰をくだすことであるが、神は新しき方法を用い、寛大なる愛をもって人を取り扱いたもうのである。

五、この契約のしるし (九章十二、十三節

 この契約の徴は虹である。もちろん以前から虹というものがあったのであるけれども、このたび神の契約の徴として面前に現れて来たのである。この虹ははなはだ美しきもので、神の恩寵の型である。この徴は何人なんぴとにも見えて、神の罰と神の愛との二つを憶えさせるものである。聖書に書いてある契約にはいつも特別な徴が付いている。例えばアブラハムに対する契約の徴は割礼であり、イスラエルに対する契約の徴は安息日であり、新約にはその徴としてバプテスマと聖餐式の二礼奠れいてんがある。かくのごとくみな目に見ゆる物質的な徴が付いている。無論我々は信仰によって歩むけれども、神はその信仰を励ましまた堅くするために目に見ゆる徴を与えたもうた。我々もこの虹を見るごとに神のひろやかな愛を憶えて感謝すべきである。

六、この契約の徴の目的 (九章十四、十五節

 この契約の徴の目的は言うまでもなく人間の見ることのできるため、また神の見たもうことのできるためである。これは明らかに録してある。ただ人が見るばかりでなく、神がこの契約の徴を見たもうのである。これは契約の記念と言ってもよい。無論神の御忍耐は限りなきものに相違ないけれども、この驚くべき契約を憶えたもうのでなければ、再び人類を亡ぼしたもうべき場合が幾度もあったであろう。けれども『わが契約を記念おもはん』(十五節)、『われこれて……永遠とこしへの契約を記念おぼえん』(十六節)とあるごとく、御自身の契約の徴を見たもうて亡ぼすことをなしたまわぬのである。我々もこの虹を見て神のご契約を憶えるはずである。これはこの徴の立てられた神の御目的であったのである。

七、契約の徴の現れる時 (九章十四節

 『われ雲を地の上に起す時虹雲のうちに現るべし』とあるごとく、この契約の徴は困難と苦痛の時に見ゆるものである。空は晴れ渡り、日は照り輝き、雲は何処にも見えぬ時には、虹のこの契約を憶い出す必要を感ぜぬけれども、黒雲天を蔽い、非常な暴風雨の起こる時には、我々の心のおそれを鎮め、神のご慈愛とご誠実とを憶えさせるために徴の虹を要するのである。もちろん雲の見ゆるごとに必ず虹が我々の目の前に現れるわけではないが、雲の上はいつも太陽の光線が照らしているから、我々は信仰によって天にのぼりて(エペソ一章二十節二章六節)神とともに虹を見ることができる。これははなはだ幸福な教訓である。この契約は永遠の契約である。しかしてこの契約の徴は、うち沈みやすい我らの心に恒に神のご慈愛とご誠実とを保証するものである。


二 人間の失敗 (九章十八〜二十八節

 今まで神のご慈愛とご誠実の変わらざるご契約について学んだことであるが、哀しいかな、ここにもう一度人間の驚くべき悲惨なる失敗を見ねばならぬ。ノアがこのような風に失敗することができるとはほとんど想像せられざることである。神の前に義とせられ、きよめられ、神の御目おんめの前に恵みを得、また神の特別なる器として用いられ、義と審判と愛を宣伝し、ついにその家族と共に恐るべき亡びから救われ、その世の人の惨憺たる滅亡の光景をその目に見て方舟はこぶねから出て、新しく神に恵まれ、永遠の契約を与えられ、その契約のしるしを見たるに拘わらず、なおかくあわれな堕落に至ることができたとは、実に信ぜられざるほどに不思議なことである。けれどもこれは事実であり、人間の真相である。我々はこれによって大いなる警戒を受けねばならぬ。さればこれよりその失敗の次第を学ぼう。

一、ノアの罪、すなわち酒に酔うこと

 ノアは農夫となって葡萄ぶどうを作り、その葡萄酒を飲んで酒に酔うて恥ずべき淫慾的裸体を露したのであるが、彼が自分の働きの結果のために罪を犯したということには実に厳かな警戒が含まれている。自己の仕事、自己の職業、自己の商売の成功、或いは自己の伝道の盛んになったことによって罪を犯すことは、誠に悲しむべきことながらむしろ当然である。もちろん酔うということは、ただ酒に酔うばかりでなく、種々なる意味の酔うこともある。すなわち人は商売の繁盛に酔い、事業の成功に酔い、人の栄誉に酔い、人生の快楽に酔う。人の心を興奮させ、心を奪って神より離れさせるに至るはみな酔うという経験と同じことである。想うにノアは自分の働きと盛んな職業に全く心を奪われていた。しかしてこれが彼をして失敗せしめるもととなったのである。我らも今までどんな驚くべき経験があっても、どれほど神と交わり、神とともに歩む者であっても、やはりノアと同じ経験を踏んで失敗することができるということを覚えておらねばならぬ。

二、罪 人つみびと

 この物語をよくよく考えて読んでみると、ノアがこの罪を犯すように誘惑する者があったように見える。第一、ノアのこの罪はただ酒に酔ったということばかりでない。ヘブルの原語を見れば『葡萄酒を飲み、天幕の中にあって裸になった』というのは別の罪を暗示している。しかして酒に酔い裸体となるこの罪を誘惑した者は誰であったかといえば、ハムの子カナンであった。カナンの名は初めてここに出ている(十八二十二二十五二十六二十七節)セムとヤペテの子等の名は少しも記されざるに、ただハムの子カナンの名が出ている。よくよく読めばかすかながらノアの罪はその孫カナンに関係した罪であるということが現れている。

三、恥 辱

 二十二節を見れば、ハムすなわちカナンの父は、ノアの裸体を見て二人の兄弟に告げたということである。実にはじを知らざる仕方である。或いは嘲り笑ったのか、或いは恐ろしく非難する意であったか、とにかく耻を知らずして自分の尊敬すべき父の罪を露したのである。誠に人の心ははなはだ悪しきものである。かくも恐るべき経験を通ってきた人が、かくも厳粛に警戒せられてきた人が、この耻を知らざる罪をばどうして犯すことができるか想像することができぬ。これによりて見れば罰というものは人の心をただ暫時威嚇するのみで、その悪しき状態を矯正することのできるものではないということが分かる。

四、悲しみ

 幸いにして二人の子等セムとヤペテはハムの非常に耻を知らざる態度を見て深くおそれまた悲しんで、如何にもして父の罪を隠し、その裸体の見えざるように着物を取って肩にかけ、後退してその裸体を蔽い隠した。新約に書いてあるとおり、愛は多くの罪を蔽うものである。たとえ親がどんなひどい罪を犯したのであっても、その子等のなすべきことは、必ず心の中に憂え悲しんで親の間違いを露さぬように弁解すべきはずである。

五、詛 い

 ノアは酔いが醒めて自分の罪を悟り、もちろん苦しんで悔い改めたに相違ないけれども、またそれと同時に罪の原因をはっきりと覚えたのである。二十四節に『若き子』とあるは英語の改正訳にあるとおり『最も若き子』であって、すなわちカナンを指す。普通の説に、これはハムのことだとするけれども、六章十節七章十三節九章十八節を見れば、ハムは一番若い子でなく二男であるようである。さればこの『最も若き子』は孫のカナンであろう。二十五節を見れば、ハムは詛われずハムの子カナンが詛われている。これによってカナンとノアの罪との関係があるということが明らかである。この詛いのことばにはハムの名が少しも出ておらぬのである。さて聖書におけるこの詛いという問題にははなはだ面白い大切な教訓がある。第一に悪魔が詛われ(三章十四節)、第二にアダムのために土が詛われ(三章十七節)、第三にカインがこの地より詛われ(四章十一節)、第四にここにカナンが詛われたのである。しかしてカナンの子孫は十章十五〜十八節に書いてあるとおり、カナンの国に住まうようになって実に詛われた者であった。ヨシュア記を見ればイスラエルの人がカナンの地を占領した時に全く亡ぼされたのである。ハムのほかの子孫はもちろんツラン族で、バビロン、アッシリア、エジプトなどに住み、全く世に属する者である(十章六〜十四節)。けれどもカナンの子孫のように詛われてはおらぬ。聖書にある他の詛いは主に主イエスを信ずることによって取り去られるけれども、サタンに対する詛いとここにあるカナン人の詛いは取り去られず、実に恐ろしき結果をきたしていることを見る。もう一つのことはカナンの子孫が、自分の兄弟につかえて奴隷たるものであるということである。このことは二十五、二十六、二十七の三節に録されてある。もしカナンの子孫がアフリカ人種であればこの詛いは実地に成就している。今までアフリカ人のうちに人を支配するというような資格のあったことがない。この黒人はいつまでも治められ支配される奴隷的人種である。

六、セムの祝福

 ノアはこの機会において今二人の子供に神の祝福を招いた。すなわちまず第一にセムを祝福した。この祝福の言葉は珍しい言い方である。すなわち『セムの神ヱホバはほむべきかな』である(二十六節)。セムは直接に祝福せられるとは言わずして、セムを選び、セムを守り、セムにしたがわれ、セムの信ずるところの神ヱホバは讃むべきかなと言ったのである。セムの祝福はみな神に関わっていて、神と自分との関係によって祝福されて来るのである。それは今一度カナンがそのしもべとなるということが付け加えられている。この祝福の珍しき言い方の理由はこれである。すなわちセム族の多くの者はやはり神より離れ偶像崇拝に陥った。けれどもノアの言った祝福は神に従うところのセム族、すなわちアブラハムの子孫に関わるからである。

七、ヤペテの祝福

 ヤペテの子孫は無論アーリア族で、すなわちヨーロッパに住まう人々である。この祝福にはヤペテの子孫が拡がってセムの国を占領するというような意味がある。この祝福は驚くべき風に成就せられた。しかして今一度カナンが奴隷となるという詛いが繰り返されて、彼らがヤペテの子孫に支配せられるということが付け加えてある。

 この九章の終わりの節はノアの死であるが、ノアが死んだ二年前にアブラハムが生まれている。しかしてアダムはノアの父ラメクの時に死んだのであるから、アブラハムは世界の始めからの歴史をばラメクとノアの二代を経てアダムから伝えられたのである。

 さてこの九章における人間の失敗の悲惨なる物語を読んで我々の受ける大切な厳かな教訓はこれである。第一、我々は如何ほど恵まれ、如何ほど幸福なる経験を持っても、気を付けねばもう一度罪に陥ることができるということ、もう一つは聖書の真実なることである。普通に人の伝記というものはその人の美点ばかりを書き記して欠点短所を隠すが常であるけれども、聖霊は誠実に我々を警戒し教訓せんために、神の子供等の恵まれたことばかりでなく、その失敗と罪をもありのままに書き記して我らを導き、また徳を建ててくださるのである。



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