第四十七回 家督権の祝福



第 四 十 八 章


 この章はヨセフが家督権の祝福を得ることであるが、前にも言った通り、ヤコブの伝はこれまで主としてヨセフのことであったが、終わりに至って今一度ヤコブ自身のことが出る。すなわちヤコブが信仰をもってヨセフとその子等を祝することである。これを七つに分けて学ぼう。

一 ヨセフの信仰 (一、二節

 ここに大いに注意を要することがある。ここと四十九章一節とを比べて見よ。四十九章一節ではヤコブがその子等を呼び寄せてこれを祝福することが見えているが、ここにはヨセフが信仰をもって自ら進みきたり父の祝福を受けんとしている。他の兄弟等は信仰をもって祝福を受けることをなさなかったが、ヨセフはこれを求めたばかりでなく、二人の子等をも伴って行った。ヨセフは霊的本能があって、父イスラエルには神の祝福を呼び下す権利も力もあることを知ってこれを重んじたが、兄弟等はこのことを弁えず、父の祈りはただ口でその願いを言い顕すのみであると思った。エレミヤ十七章五〜八節を見よ。そこに人をたのむ者とヱホバを恃みとする者との相違がしるされている。六節の中ほどに『彼は善事よきことのきたるをみず』という句がある。すなわち何人なんぴとにも善きことの来るものであるが、神を恃む者はこれを見て信じ祈り求めるけれども、人を恃みとする者はこれを見ることができぬ。不信仰をもって人間に頼る者と神に信頼する者との区別はこれである。しかしてこれが四十九章四十八章の相違である。ヨセフは霊的本能をもってこれを見ていたから進んで祝福を蒙ったのである。


二 祝福の基礎 (三、四節

 ここにヤコブが神の祝福を呼びくだす信仰の基礎がある。人の多くは自然に心に浮かびずる思いにしたがい、その時の感情によって祈る。けれども真に祝福を受ける祈りはそのようなものではない。ヤコブはその子に祝福を呼び下すために、まず三つのことを思い出し、その記憶の上に祝福を呼び下す権利を主張した。すなわち

 一、ルズにおいてかつて神彼に顕れたもうたこと
 二、そこにて彼を祝福したもうたこと
 三、神彼に約束を与えたもうたこと

 殊にこの約束は彼の子孫を蕃殖はんしょくせしめそのすゑにこの地を嗣がしめる約束であったから、彼は大胆に祝福の預言を発表したのである。

 ルズはすなわちベテルである。ベテルで神の彼に顕れたもうたのは二十八章三十五章である。二十八章は彼の救いの時で、三十五章は彼のきよめの時である(三十五章九〜十二節)。この十一節を見よ。『國民たみおよびおほく國民たみなんぢよりいで云々』とある。すなわちユダヤ一国だけでなく多くの国民が出るということである。ヤコブはこれを憶えて祝福したのである。これは神の祝福を呼び下す方法である。すなわち彼は神の自己に与えたもうた約束に基づいて祈った。使徒行伝四章二十四節以下の名高い祈禱の例を見よ。

 一、神の造物主たる力
 二、神の御言みことば
 三、神のしゅイエスを立てたまえること
 四、神の預言

この四つの事実を訴えて祈りを捧げている。これはいつでも祈禱の方法である。


三 祝福に関する条件 (五〜七節

 家督の権は、他の子等の受ける分に対して二倍の分を受けることである。ヨセフは十二人の一人で他の兄弟等と同様にその分を受けるはずであるけれども、これに二倍の分を与えたのである。しかしながらヨセフの二人の子等がヤコブの子等に加わって十二支派を立てたから、ヨセフの名は先祖等のうちに出ないのである。どういうわけであるか今これを説明することはできないが、とにかく二人の子の名がヨセフに代わったのである。

 さてこの二人の子はヤコブには孫であるけれども、ヤコブの子となりルベンとシメオンのごとくになるということであるが、今ではこれが実に幸福なる特権であったとわかるけれども、その当時にあっては実に非常な犠牲であった。彼らは当時威勢類なきエジプトの総理大臣の子である。後に彼の跡を継いでまた総理大臣となる望みもあった。しかるに今、人間の目から見れば卑しいユダヤ人とならねばならぬ。さればヨセフがこの特権を受けるには当時最大なる犠牲を払ったことを知らねばならぬ。こうしてこの二人はヤコブの子となり、その後ヨセフに生まれる子はヨセフの子となるべく定まったのである。ここに七節の言葉が不思議な風に挿入してある。ヤコブは今ヨセフを祝福する前に彼の母である最愛の妻のことを憶い出したのであろう。彼女はそこで死んでヨセフとベニヤミンの他に子供がなかったから、彼女が生んだ子であるかのごとくこの二人の孫を我が子とするという意味を含んでいると思う。ヨセフはエサウと違って家督の権を軽蔑しなかった。その当時、家督の権の価値を見ることはできなかったけれども、喜んで自分の地位と子等の運命をなげうって、家督の権を受けた。すなわちこれは祝福を受ける道である。見ゆるところのものに頼らず、かえって見えざるところのものを重んじて、天にある宝を得んためにその手にあるものを棄てたのである。二人の子等を犠牲にしたと共にヨセフ自身をも犠牲にした。すなわち彼の名は十二の先祖のうち含まれず、かえってその子等の名が加わるように甘んじて承諾したのは犠牲であった。犠牲を払うのはいつでも祝福を受ける条件である。


四 祝福の奥義 (八〜十四節

 今一度ここに『われあはれまんとする者をあはれみ、慈悲を施さんとする者に慈悲を施すべし』(ロマ書九章十五節、出エジプト三十三章十九節)という神の絶対権が見える。何故かは知らざれどしばしば神は長男を棄てて次男を撰びたもうことである。例えばカインは棄てられてアベルが受け入れられ、イシマエルは棄てられてイサクが立てられ、エサウは拒絶されてヤコブが祝福された。ここにもエフライムが次男でありながら長男なるマナセを越えて家督の権を受けた。ヨセフ自身もルベン、シメオン、レビ、ユダなどの年上の兄弟を越えて撰ばれて家督の権を受けたのである。今日でも神はたびたび次男を撰んで長男を立てたまわぬことがある。今ヤコブは聖霊に導かれ、神のむねに随い、手を交叉して右の手を次男の上に置いて長子の分を与えた。彼は疑いもなく自分の経験を憶えたであろうけれども、自分の経験に基づいてなしたのでなく、必ず神に導かれ、預言の力をもって行なったことである。


五 祝福の与え主 (十五、十六節

 もはや見た通りヤコブは祝福を呼びくだす権利を神の予定の約束の上に置いたことであるが、今その祝福の与えぬし御自身の権能と慈悲と摂理とを憶え、三位一体の神を捕らえて祝福を下したもうように求めた次第である。

 一、『わが父アブラハム、イサクのその御前みまえに歩みし神』(英訳参照)。これは全能の神である(十七章一節)。アブラハムをその国より呼びだしたもうた神、すなわち父なる神を指すと思う。この父なる神がアブラハム、イサクに与えたもうた同じ祝福の自分の子孫に与えられることを願うのである。

 二、『わがうまれてより今日けふまで我をやしなひたまひし神』。これはしゅイエスを指している。主イエスは真のパンである。ヤコブは自分の罪深い生涯にもかかわらず驚くべく育てられ養われて来たことをおぼえ、その子孫も同じように育てられ養われんことを願うのである。

 三、『我をもろもろ災禍わざはひよりあがないだしたまひし天使てんのつかひ』(英訳参照)。これは聖霊を指すことと思う。聖霊はこの世を渡り旅しつつある我等の伴侶となりたもう神である。主イエスはもはや天に昇りたもうたけれども、聖霊はこの地にって我等の旅路を導き、すべての災いより救い出したもうのである。ヤコブは自分の経験よりして格別に聖霊のご加護をばその子孫のために祈るのである。

 旧約聖書において幾度も『アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神』としるされているが、この三人の生涯を比べて考えてみれば、それは三位一体の神を暗示すると思われる。アブラハムの神は父なる神であり、イサクの神は、イサクの代わりに犠牲を備えたもうた神、主イエス・キリストを指し、終始さまよい行き旅しつつ困苦を嘗めたヤコブの神は、疑いもなく我等信者の伴侶となりたもう聖霊を指す。これは真に祝福の与えぬしである。さればヤコブはこの真の祝福の与え主を呼び、いと厳かに祈願を捧げ、かく守り育て贖いたもう神にヨセフの二人の子等を懇ろに委ね奉ったのである。


六 祝福の性質 (十六〜十九節

 これははなはだ難しき所である。この困難なることを悟るために、ヤコブの子等の立場と位置を考えねばならぬ。

 ヤコブはレアによって六人の子を得、最愛の妻ラケルによって二人の子を得た。その他の四人は使女つかえめの子であった。しかしてこの家族に三つの権があった。すなわち家督の権、系譜の権、祭司の権である。このうち祭司の権は後に付け加えられた権である。これらの権は誰に与えられたかと言うに、既に学んだ通り、長子ルベンははなはだしい不倫の罪により家督の権を失い、次男三男なるシメオン、レビも三十四章に書いてある恐ろしき罪によって同じくこの権を失ったようである。四男ユダもまた三十八章の罪によって同じく家督の権を嗣ぐことあたわず、この権はラケルの長子ヨセフに与えられた。また系譜の権はルベン、シメオン、レビにも与えられず、四男ユダに与えられた。祭司の権はルベン、シメオンにも、また系譜の権をもつユダにも、家督の権をもつヨセフにも与えられずして、三男レビに与えられた。これは何故であるか解らぬ。無論祭司の権は永久的のものでなく、ただモーセの時からキリストの顕れたもうまでの間の権で、キリストが祭司長となりたもうたことによってレビの権はなくなった。系譜の権は言うまでもなくキリストの先祖となる権で、すなわちユダの王権であった。ところが家督の権は祭司の権よりも系譜の権よりも大切なものであるように見えるから、この家督の権の祝福は最も深い、広い、長い、また高いものであるはずである。家督の権をもっているヨセフはキリストの先祖ではなかった。黙示録二十一章十二節に書いてある、新しいエルサレムの門の上にしるされる十二の支派の名の中にもヨセフの名は加わらないのである。さらばこの家督の権は実際何の点でまさるものであるか、この権の価値は何であるか。ただ十二の支派のうちにヨセフは一人で二人の子等を通して二つの分を受けただけのことであったか。否、決してそのくらいのことではなかったのである。この問題ははなはだ解し難いことである。今このことを憶えてエフライムとマナセに与えられた祝福を学ぼう。

 この祝福は二つに分かれている。

 一、十六節の中程から書いてある通り、この二人の孫はヨセフの名をもってとなえられず、かえってアブラハムとイサクの名をもって称えられることである。すなわちイスラエルの十二人の先祖等の中に数えられること、

 二、十六節の終わりと十九節の終わりとを見れば、彼らは『多衆おほく國民たみ』となること

である。もはや学んだ通り三十五章に書いてあるヤコブに対する神の約束には、なんじは唯一の国民となるばかりでなく多くの国民となるべしとある。しかして十人の兄弟の祝福はユダ国一国民の先祖となることであるけれども、エフライムとマナセに対してはこの多くの国民となる約束が与えられている。この約束は成就されたであろうか。否、まだである。こののち成就されるであろうか。しかり、必ず将来において成就すべきものである。或る人の考えではこの約束はもはや成就されている。すなわちアングロ・サクソンはこのエフライムとマナセの子孫であって、今世界に広がって多くの民となっているのはすなわちこの預言の成就であると。しかしこれは信じがたい説である。恐らくキリスト再臨後、今一度ユダヤ人がエルサレムに帰るから、その時この約束の文字通り成就することを見ることができるであろう。


七 祝福の印せられること

 ヤコブはこの祝福に祝福を付け加えた。かくエフライムとマナセが祝福せられたことはすべてのイスラエル人の模範である。ヤコブはまたヨセフに約束を加えて、神が今一度イスラエル人を先祖たちの国、すなわちパレスチナに導きたもう時に受くべき分としてシケムの地を与えた。このシケムはシメオンとレビによって取られた所であったけれども、これをシメオン、レビに与えずにかえってその残酷暴虐のために彼らよりその地を取り上げ、彼らによって迫害せられたヨセフに特別の賜物として授けたのである。


結   論

 この四十八章を今一度見れば特に記憶すべきことが二つある。

 一、ヤコブがこのヨセフの二人の子等の上に祝福を呼びくだしたのは、公然ではなく全く密かにしたということである。ほかの兄弟たちはその時そこにおらなかったばかりでなく、この事実を知らなかったようである。四十九章に兄弟等の祝福せられる話を見ても、マナセとエフライムの話は出ず、かえってヨセフがやはり十二人の兄弟の一人としてその内に含まれて十一人と共に祝福を受けた。されば十一人の兄弟等は四十八章の出来事は何も知らなかったのである。

 二、ここに我々の学ぶべきことは信仰の大切なることとその力である。既に言った通り、ヨセフは信仰の目をもってこの族長イスラエルの祝福を呼び下す力と権のあることを判然と見た。それゆえに信仰の足を運んでそこに行き、信仰の手を出して自分の二人の子を携え行き、進取的信仰をもって祝福されたが、他の十一人の兄弟等はこの族長の祝福を呼び下す力を覚えず、不信仰のために非常なる損失を受けた。これは我々にとってはなはだ重要なる教訓である。善きことのきたることを見ざる者は必ず不信仰の者である。信仰があれば善きことの来るを見、大胆にこれをわがものとして神の永遠の祝福を受けることができる。



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