第三十五回 潔めの完成
第三十四章において全く神なき有様を見たが、三十五章は神をもって充たされている。これはヤコブの潔めの完成である。ここに七つの要点がある。
一 ベテルに帰るべき命令 (一節)
既に学んだ通り、ヤコブは帰国すればすぐにベテルに帰るべきはずであった(二十八章十八節以下)。しかるにその誓いを果たさずしてシケムに住んだのは間違いである。そしてそこにて大失敗をしたのであるが、今は、汝が三十五年前に兄エサウの顔を避けて逃れる時に約束した、あのベテルに至り、そこにて壇を築きて礼拝せよと、懇ろに命じたもう。伝道の書五章四節にある通り、神に誓いを立てたならば必ず果たすべきものであるが、ヤコブはこれを果たさなかったから、神は彼を懲らしめた上でさらにこれを命じたもうたのである。神は長い間忍んで、ヤコブの不注意と不従順と不信仰にもかかわらず、ペニエルで与えたもうた恵みを完成せんとなしたもうのである。神は、ヤコブが堕落したる状態を見たもうて急にこれに干渉し、目を醒ましてシケムのうちより出で、ベテルに立ち帰るように命じたもうた。これははなはだ大いなる恵みであった。幸いにして神は我らを放任したまわず、その間違った道を棄てて立ち帰るまで我らを追いかけて、我らを戒め、懲らしめ、御自身に引き付けたもう。神は誠に誠実なる神にて在す。
二 ヤコブの従順 (二〜四節)
彼は従順に御命令に服従し、綿密にこれを実行した。ヤコブ自身は決して神を離れず、また偶像を拝しないけれど、家族の偶像を拝することを無頓着にしていた(二節)が、今は家族に対する責任を顧みるに至った(十八章十九節と比較せよ)。堕落する者はまずその家族に対する責任を軽んずるところから堕落するのであるが、悔い改める時にはまずここから始まるのである(ヨシュア記二十四章十五節、使徒行伝十六章三十一節を参照せよ)。四節にある耳環は偶像を拝む時にこれを掛けたものであろう(ホセア書二章十三節、申命記七章二十五、二十六節を見よ)。ただ偶像のみでなく、それに関する何物を惜しみ顧みるべきでない。ギデオンはこれによってその家を陥れる罠を作った(士師記八章二十四〜二十七節)。さればヤコブがもしこれらのものをかく尽く放棄してしまわなかったならば、必ずその子孫を罪に陥れたであろう。幸いに彼は全く服従した。この時のヤコブの潔めは根本的のもので、家族をも実地に聖別したのである(使徒行伝十九章十八、十九節を参照せよ)。
三 驚くべき神の保護 (五節)
三十四章においてヤコブの子等は恐怖すべきことを行ったのであるから、彼らがこの地を去るに当たって周囲の邑々が復讐を企てるは当然のことである。けれども、彼が根本的に悔い改めたから、神はこれに保護を加えて事なからしめたもうた。神はかかる恐るべき罪の結果からでさえ守りたもうた。これは神の驚くべき憐憫である。
四 ヤコブ、ベテルに帰ること (六節)
彼は如何なる気持ちをもってルズに帰ったであろうか。必ず彼は三十幾年の流浪の生涯を回顧してその間における神の御保護を覚えて誠に感慨無量であったろう。彼はカナンに帰ってから神の恩恵に感じてはいたが、あまりにその所有のことを考えて、その親たちのことをさえ忘れていた。しかるに今、母の乳媼デボラの死に遭って、そぞろに父母のことを思い起したことであろう。十四〜十六節を見れば彼はベテルから父の許へと帰ったことが見える。
五 ベテルの神 (七節)
三十三章二十節を見よ。シケムにおいて彼は神をエル・エロヘ・イスラエル、すなわち自己の神と呼び奉ったが、今は自己の名すなわちイスラエルの名を付けずして、エル・ベテルすなわちベテルの神、大いに救いを施したもう神と呼び奉った。三十五章一節に注意せよ。神はペニエルにおいての顕現を憶えて壇を築けよとは仰せられず、イスラエルの新しき名を記念すべきため壇を築けよと仰せられず、ベテルに帰ってそこに壇を築けよ、すなわち救いの神を憶えよと仰せられた。これは謙遜の途である。ペニエルにおいて驚くべき経験があったからこれを記念することでなく、彼はいま非常に堕落したのであるから、初めに罪の赦しから求めねばならぬ。私共は堕落したことを悟った時、すぐに今一度高い恵みを求めるけれども、謙ってまず罪の救いから求めるべきである。
六 ペニエルの恵みの回復 (九〜十二節)
『神かれに言たまはく 汝の名はヤコブといふ 汝の名は重てヤコブとよぶべからず イスラエルを汝の名とすべしと その名をイスラエルと稱たまふ』。これはペニエルの恵みである。ここにペニエルの経験が今一度新たにせられ、また拡大されたのである。ペニエルにおいては神は彼に自己の名を言い顕さしめたもうたが、今は御自身の御名を言い顕したもうた。ペニエルの恵みは見ゆるところ、聞こゆるところによったが、今は異象も何もない。けれどもさらに確実になし、また拡大されたのである。三十二章二十九節を見よ。神はその時に御自身の名を言いたまわなかったが、本章十一節には『我は全能の神なり』と仰せたもうて、さらに約束を与えたもうた。三十二章二十八節を見よ。彼の名がイスラエルと変えられたのは、神に対して力ある者、すなわち神を動かし進め、働かせ奉る力ある者となったということのしるしであったが、このたびは働きたもう神の御名が示された。たとえ彼がイスラエルであっても、神が全能者でなければ何にもならぬ。神を動かす力あるイスラエルとせられたる上に、今は働きたもう神が全能の神として顕れたもうて、祝福が全うされるのである。これはペニエルの完成である。すなわち自己の受けた恵み、すなわち変えられた名に目をつけず、かえって恵みたもうた神に目をつけ、恵み主を重んじ恵み主を信じ、恵み主御自身を知り奉ることである。
七節は祭壇であったが、これは記念の碑である。その上に酒と膏とを沃いだ。これは灌祭である。士師記九章十三節に『神と人を悅こばしむるわが葡萄酒』とあるは、普通の宴会のことでなく灌祭の葡萄酒を意味しているのであろう。イスラエル人はカナンの国に入るまではこの灌祭をば献げなかった(民数記十五章二、四、五節)。これは喜びの献げ物である。ルカ十五章における放蕩息子の帰った時の饗筵と同じく、ヤコブは恙なく故国へ帰ったから記念の柱に灌祭を献げたのである。聖書に灌祭のことの録されるはこの所が始めである。ここに葡萄酒と共に膏も注がれた。膏は光を与えるものである。酒と膏は喜びと光の型である。これは全く神に受け納れられたことを悦ぶペニエルの祝福の完成である。ペニエルの祝福がベテルにおいて完成されたのは、聖潔の恵みが救いの所において完成されるものであることを示している。
この話に深い大切な教訓が含まれている。すなわち証のために記念物を建てることである。これは救いと恵みを続ける一つの条件である。心に信じ口に言い顕すことは根本的な霊的世界の法則である。全聖書を通じてこの大切なる真理の実例を見ることができる。たとえばイスラエルの人々はヨルダン河を渡った時に記念のために十二の石を建てた。またマタイは一切を棄ててキリストに従った時に記念のために宴会を設けて友人を招き、その前に証言をした。我々も謙遜をもって、受けた恵みを記念するために証をなすべきである。
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