第四十九回 就眠の栄光



第四十九章二十八節第五十章


 我等はいま最後の幕に至った。この最後の話において二人の始祖の就眠のことが書いてある。

 ヤコブの就眠とヨセフのそれを対照するははなはだ興味ある、また教訓あることである。ヤコブは回顧し、ヨセフは展望する。けれども二人とも驚くべき信仰をもって大勝利を得たのである。


一 ヤコブの最後の勧め

 人の臨終の言葉ははなはだ厳かな、また大切なものであるが、ヤコブの臨終のこの厳かな大切な言葉は何であろうか。もはや学んだ通り四十八章においてヨセフのために家督の権の祝福を呼びくだした。これは最も大切なることではあるまいか。否、四十九章においてその子等の将来の事どもに関する預言を述べているが、これこそ最も大切なることではあるまいか。否、これよりも更に大切なことがある。すなわち自己のしかばねの葬りのことである。人間の目から見ればこれははなはだ愚かなことと見ゆるかも知れぬ。けれども実は非常に深い意味があり目的がある。ヤコブは前に研究した通り子等の将来を預言した上に、少しの祝福の言葉を付け加え、それより厳かな命令をもって、自己の屍をばエジプトに葬らずしてカナンに携え行き、そこに葬るべきことを命じた。そして少しの間違いのないように、国(カナン)と所(マムレの前)と田地(マクベラの畑)を指示し、それからその墓は洞穴であること、以前ヘテびとエフロンの所有であったこと、アブラハムが買った所であることを告げ、その畑にほかの墓があるかも知れぬから間違わぬように、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レアの葬られてあるその洞穴であると詳細に語ってそこに葬ることを命じた。この命令には非常に大切な意味が含んでいる。というのはヤコブがその臨終に当たって心の重荷となっていたことはもちろん自己一身のことではなかった。神の約束をもって与えたもうたカナンの国のことであった。それゆえにその子孫にこれを忘れぬように、必ずその国に帰ることを重んぜしめるために、自己の屍をばそこに運んでいって葬らしめたのである。これは信仰の命令である。信仰と希望の溢れる心より出た命令であった。外部から見れば臨終の言葉としてあまり大切な問題でないようであるけれども、彼はいま自己から離れ、死を懼れる恐怖から離れ、鷲の翼を張って天の処に上るような信仰を表したのである。


二 哀  哭 (五十章一〜六節

 四十八章二節を見ればヤコブは預言の言葉を語るために寝台の上に腰を掛けていたが、いま預言と最後の命令を終わったから、再び足を上げて寝台の上に横たわって、安心の中に永眠に就いたのである。これを見るやヨセフは非常に悲しんで、父のかおし涙を流し接吻したが、兄弟等の嘆きについては何もしるしていない。ヨセフが真実の愛をもって溢れる心をもって哭いたが、これは当然のことである。特別に父に愛せられ、長い間離れており、神の特別なる奇蹟的摂理によって今一度面会し、父の終わりの年の間親しく交わったことであるから、今その死によって地上においては再び会うことなき離別を深く感じたのである。兄弟たちの哀哭と愁いについて何も記されておらぬが、エジプトびとは七十日間公然の嘆きをした。これは無論エジプト人の習慣であり、かつヨセフのゆえをもってしたことであろうけれども、また彼等がヤコブ自身を尊敬するようになったので、真実なる態度をもってこの習慣を守ったに違いない。ヨセフは喪の衣を着、髪を切らず、髭を剃らなかったから、直接王に会うことを憚って、人を通してカナンの地に父を葬ることの許しを願い、王の許可を得てカナンへと出発したのである。


三 葬  式 (五十章七〜十三節

 このヤコブの葬式は恐らく聖書中にある葬式のうち最も立派な盛大なものであったろう。ユダヤ人の王等の葬りの時にもこのような盛大な葬式のあったことはなかった。国なき賓旅、寄寓人として軽蔑されたヤコブの葬りにこのような葬式があろうとは夢にも思われないことであった。当時エジプトの国は世界第一の大帝国であったが、七〜九節を見ればその大帝国の王パロのすべての臣、パロの家のすべての長老としより、エジプトの地のすべての長老、これは何千人であったかわからぬ。これにヨセフの全家に属するしもべたち、これも数百人であったろう。またヤコブの家の僕たち、その上、車と騎兵との大いなる軍勢が伴って行った。しかしてカナンの国に来ると、カナンびとはイスラエルびととエジプトびとの区別が判らぬからこれはエジプトのはなはだ大いなる哀哭なげきであると言って、その所すなわちアダデの禾場うちばをアベル・ミツライム(エジプト人の哀哭なげき)と名付けた。この盛大なる葬式についてはもちろん神の御目的があったに相違ない。すなわちヤコブの子孫なるイスラエル人はこの非常な出来事をばどうしても忘れることができなかったであろう。彼らにとってその一生涯の最も盛大壮麗なる出来事がその父をカナンに葬ったことであるから、これによって彼らの心が必ずカナンに結びつけられたに相違ない。これはこの葬式につける神の御目的であった。


四 エジプトに帰ること (五十章十四節

 この葬式が終わってからヨセフの兄弟等は今一度エジプトに帰って来た。せっかく自分の国に帰ったのであるからそこに留まりそうなものであるのに、何故今一度エジプトに下ったか、もちろんヨセフはパロに約束したからその約を守って帰るのは当然であるけれども、彼らがみな今一度エジプトの国に来たには深い理由がある。彼らが今エジプトの国から出てしまうのは神の御旨みむねではなかった。このような堂々たる風にしてエジプトの国をづべきものでなかった。神が彼らをエジプトの国から導き出したもう道は、彼らが苦しみ、悩み、奴隷のように圧迫せられ、自ら逃れ出でることあたわざるを自覚したる後、神の奇蹟的御権能によってでることであった。これによって我等の学ぶべきことは、我等の救いもやはりその通りであるということである。人間の願いは立派な堂々たる風にして救われたいことであるけれども、かくしては神の栄えが顕れない。神の御栄えの顕れるためには、我等は必ず神御自身の奇蹟的御工みわざによって救われねばならぬ。


五 ヨセフの兄弟等の不信仰 (十五〜十八節

 彼らが無事エジプトに帰るや、ヨセフの兄弟等の心に今一度不信仰が恐ろしく働き出した。彼らは互いに語って、いま父が亡くなったから必ずヨセフが我等の古い罪を咎め復讐するに相違ないと言い、すぐに代表者(たぶんベニヤミンであろう)をヨセフに遣わして父の名をもって熱心にヨセフの赦罪と続いて恵みを施すことを求め、しかしてヨセフの柔らかい返事を受けてから彼等自身出て来て彼の面前にひれ伏し、ヨセフのしもべとなるように約束した。これによって遙か以前のヨセフの夢の今一度成就することを見た。これは実に感傷的な話である。しかして深い教訓が我等に与えられている。すなわち不信仰がどれほど深く人の心に根ざしているかを示す。生来の心はよく自分のうちわだかまっているそのおもいを標準として人を判断するものである。彼らもそのようにヨセフの心を判断した。彼が純粋な愛をもって敵を愛することができるとはどうしても考えられなかった。自分等の卑劣な心をもってヨセフを判断したのである。その通り我等の心も、生来の心をもって神の純粋な透徹した愛を想像することができぬ。イザヤ書五十五章七節に『よこしまなる人はその思念おもひをすてゝヱホバにかへれ』ということがある。神の思いは我等の思いのようなものではない。あたかも『天より雨くだり雪おちてまたかへらず』(同十節)であるが、人間にはこの『またかへらず』の意味が分からぬ。神の恵みは一度くだるならば決して天に帰ってしまわず、必ずとどまる。ちょうどヘブル書六章七、八節に書いてある通り、雨は善い土にも悪い土にも区別なくってくるが、善い土は立派なを結ぶけれども、悪い土は雑草と荊棘いばらとを生ずる。これはちょうど神の寛容と仁慈にれて悔い改めることをせず、かえって害せられる人の心の状態である。しかしいずれにしても神の恵みは雨のごとく降ってまた天に帰らぬものである。しかるに兄弟等は自己の邪推深い卑劣な、限りある心をもってヨセフの純粋な透き徹る寛大仁慈の心を曲解したのである。


六 ヨセフの豊かなる赦罪 (十九〜二十一節

 兄弟等のこの言葉を聞くや、ヨセフは急いで彼らの不信より起こる懼れを止めた。

 一、彼は十七節の終わりに書いてある通り、兄弟等の言葉を聞いて泣いた。さきには兄弟等の悔改くいあらための憂いを見て悲しみにたえず、密室に退いて泣いた(四十二章二十一〜二十四節)。またベニヤミンを見て、自己を兄弟等に顕したく情に迫って再び密室に退いて泣いた(四十三章二十九、三十節)。しかしここでヨセフが流した涙は前の二回の涙とは全く別の涙であった。すなわち兄弟等の不信仰を見てはなはだ心を傷めて泣いたのである。人の心の最も激しい痛みは、信ぜらるべき人に信ぜられぬことである。長い年の間、愛と恵みと驚くべき寛大なる精神を明らかに顕したのにかかわらず、故なく誤解せられ、曲解せられ、信用されないのは如何に苦しいことであったであろうか。しゅイエスがラザロの墓で涙を流したもうたのはやはりその通りである(ヨハネ十一章三十五節)。或る人はこの主イエスの涙を同情の涙であると思うけれども、間もなくラザロを甦らせたもう御心みこころであり、死の力を破壊して望みの音信おとずれを携え来り、よみがえりの力を顕したもう主が、死を悲しむ彼らの悲しみに同情して涙を流したもうならば、それは偽善ではあるまいか。さればこれは同情の涙でなく、彼らの不信を見て嘆きたもうたのである。同じように今ヨセフも涙を流したのである。我々もこれによって大切な教訓を学ぶべきである。ヨセフの兄弟等はこの涙を見て一層深く悔い改め、自分の不信仰の恐ろしさがしみじみとわかるようになったであろう。ヨセフの涙は彼らを譴責するよりもいっそう強く彼らの心に徹底したに相違ない。

 二、ヨセフは兄弟等の心から懼れを取り除き、安心を起させるために、彼らの思いを神に向けしめた。『汝等なんぢらは我を害せんとおもひたれども神は……』(二十節)。はなはだ面白い言葉である。私の一人の友は自分の書斎にこの言葉を掲げている。もはや今までの講義に幾度も見た通り、ヨセフの生涯の成功の秘訣は、如何なる事情境遇にあっても神を意識的に認め、神を自己の心中に崇め、神を重んじ、誰にでも神を発表したことである。彼がかつて夢を見た時にも無邪気にこれを父と兄弟に発表し、エジプトに売られてからもポテパルの前にも神を言い顕し、ポテパルの妻に恐ろしく誘われた時にもこれを拒む理由は神を畏れるためだと言明し、ひとやにて二人の囚人の夢を解く時にもこれは自己の知識によることでなく神の力であることを示し、パロの前にて夢を解いた時にも同じくこれは自分の力でなく神の助けによると大胆に発表した。ヨセフの成功の秘訣はここにある。神は彼の心にすべてのすべてであった。神は常に彼の目にあり、また彼の心にありたもうた。されば今、彼が兄弟等の恐ろしき罪を赦す秘訣はやはりこれであった。事物の第二原因を見ず、第一原因すなわち神御自身を見て、如何なる災い、如何なる不幸に遭遇しても神よりいずることであることを承知して、人を審く心なく、復讐する考えなく、ただ神の中におり、神に包まれ、神に目をつけ、神の心を悟り、神の愛を味わい、すべての重荷を神に委ねたことである。されば彼が兄弟に復讐せぬこと、また罪を赦すことは、決して人情によってでなく、また一時の感情によってでなく、いわおのごとく動かない主義にることであった。神を畏れ、神を敬い、神を信じ、神にしたがう基礎の上に立ってなしたことであった。

 三、ヨセフは涙を流し、主義ある勧めをもって心を安んずべく諭し、またその上に慰めの言葉を付け加えた。過去のこと、現在のことについて懼れる必要がないばかりでなく、これよりのち引き続いて養い慰め保護することを約束して彼らを安んぜしめた(二十一節)。これはみな主イエスの実に幸いなる美しい型ではないか。我々にもこの型を通して今一度主イエスの深い愛と恵みとを味わわしめよ。


七 ヨセフの永眠の勝利 (二十二〜二十六節

 我等はいま創世記の最後の言葉に至った。ヨセフの生涯の最後は信仰の勝利である。既に言った通りヤコブの就眠とヨセフの就眠とを対照すれば面白い相違がある。二人とも厳かな風にして誓わしめたが、それはいずれも自分の葬りの問題であった。ヤコブは四十九章二十九〜三十一節にある通りに、厳かに命じて自分の死屍ししをエジプトの国に葬らずしてカナンの国に持ち行きて葬らしめた。しかるにヨセフはそれと反対に自分の死屍をエジプトの国に留め置き、特別の葬式をせしめずして、神がその定まれる時にイスラエルびとをカナンに帰らしめたもうにあたって、その死屍をかの地に葬ることを誓わしめた。ヨセフはエジプトの国の総理大臣であるからヤコブの葬式よりもなお一層盛大な葬式があるはずであった。必ずエジプトびとが我らの想像できないほどの栄えと貴きとをもって葬ったに相違ない。けれどもヨセフは命令の上に誓いをまで立てさせて全くこれを禁じた。このヤコブとヨセフの二人は共に信仰によって誓わせた。深い意味と、遠大な目的をもって自分の葬式を重んじて命じた。ヤコブがカナンの国に葬られたいと望んだのは、これによってイスラエルの国はエジプトでなくカナンであることを示して明らかに憶えさせたのである。ヨセフが自分のしかばねひつぎの中に納め、始終イスラエル人の目の前に置いて、カナンに帰り行くべきことを思わしめたのも同じ目的である。この柩は忘れることのできない象徴であった。ヨセフは自分の子孫がヤコブの盛大な葬式を忘れることができても、自分の骨が柩に置かれて彼らの中に在れば、恒に彼らに憶えさすしるしとなると思ったのである。されば彼らには二つのしるしがあった。すなわちカナンに葬られたヤコブの骨、エジプトにある葬られざるヨセフの骨である。これらは恒にイスラエル人の心中に自らの賓旅また寄寓者であること、カナンに行くべきことを忘れ得ざらしめた。これはヨセフのこの命令の驚くべく遠大な目的であった。ヘブル十一章二十二節を見よ。これは注意すべきことである。聖書に書いてある人物で、最も出来事の多い波瀾あり変化ある生涯はヨセフのそれである。しかるに聖霊は、彼の生涯のうちから最も意味深い最も重大なる出来事を撰ばんとて、エジプトに売られたことを取らず、誘いに打ち勝ったこと、罪なくしてひとやに入ったこと、夢を解くこと、エジプトを救ったこと、兄弟等を赦したこと、世界中の人の生命を助けたことさえも取らずして、ただ彼が自分の骨につける命令をなしたることを撰み出して彼の驚くべき信仰の生涯を説明したもうた。これははなはだ不思議なことではなかろうか。もし百万人の霊的キリスト信者に質問して、ヨセフの生涯の最も重大な、最も肝要な出来事は何であるかと問うたならば、それは彼が自分の骨について命令したことだと言う者は一人もなかろう。これは聖書が聖霊の霊感によって書かれたということの証拠である。人間の思念の及ばないところである。しかしこの命令はヨセフの心を明らかに顕している。かれの国はこの世の国でなく天の国であり、彼の望みはこの世の望みでなく来世にける望みであった。またこの命令によって彼の信仰が絶対的で完全なる信仰であることをあかししている。

 創世記は神が天地を造りたもうたということをもって始まり、エジプトにおける柩をもって終わっている。



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