第二十一回 アブラハムの信仰の失敗(第二)



第 二 十 章


 自分の妻をば妹と詐称したというこのような話が創世記中に三度しるされている。すなわちアブラハムが飢饉を避けてエジプトに下った時と、このところと、二十六章に見ゆるイサクの失敗の場合とである。かく同様の失敗が三度も録されてあることは、これによって我等に深い教訓を与えるためであると思う。今この章から七つの点を挙げて学ぼう。


一 この失敗の場合 (一〜十節

 アブラハムの生涯を見れば、彼はずいぶん種々困難なる点につき勝利を得ている。すなわち故国を出ることにおいても、親族を離れることにおいても、財宝の問題においても、みな立派に勝利を得ている。けれども彼が失敗したのは、一つは不忍耐で、今一つは人を懼れたためである。すなわち忍耐をもって神の約束を待ち望むべきところを、自分の元気を出し実に恥ずべき手段をもって神の約束を成さんとしたことと、人を懼れるために詐言を用いたことである。

 このところでは人を懼れたために失敗したのである。彼はかつて飢饉のためにエジプトに下ったが、このたびはペリシテびとの国に入った。たぶん家畜が多くなって牧草の豊富な地を要したからであろう。或いはカナンの地の人々がソドムの滅亡をアブラハムがこの地に移住してきたためであるように誤解したので、それを避けんとしたのかも知れぬ。いずれにしても彼は神の御導きを求めず、自己の判断に従ってペリシテ人の地に移ったが、その所の人を恐れて詐言を語るに至ったのである。


二 この失敗の不合理 (十一節

 されどもかくのごとき恐れは誠に理由なきことであった。何故なれば十七節を見るに、アビメレクは信者ではないが信者に近い人であったようである。アブラハムが恐れを起したのは彼が信仰の大胆を欠いたためである。いつでも人が堕落するのは漸次的であるが、彼も偶像教の中に住んでいるうちにいつとはなしに誘われたのであろう。人が偶像教徒の中にいる間、サタンはいつでも人をおどして故なき恐怖を起さしめる。


三 この失敗の方法 (十二節

 一つの罪はいつも他の罪を伴う。嫉妬が悪口を、貪欲が詐欺を伴うごとく、人を懼れるよりして詐言を言うに至る。詐言とは如何なることを言うか。辞書を見れば『いつわりとは欺く意向をもってなしたる陳述である』とある。アブラハムがサラを妹であると言ったのは十二節にあるごとく全くの虚言ではなかったが、人を惑わさんために言ったのであるからやはり詐りであった。


四 この失敗の秘密 (十三節

 アブラハムがかく詐言を用いたのには深い隠れたる原因があった。しかして懼れの生ずる時にこれが顕れたのである。十三節を見よ。かねてよりかかる場合にかく言うことによって災害を遁れんと謀ったのである。十二章において失敗し悔い改めたけれども、根本的に棄てなかった罪の根が再び芽ざしたのである。一度失敗した時にその失敗の原因たる罪の根まで徹底的に悔い改むべきことをここで学ぶべきである。


五 この失敗の原因とその愚 (十一節

 既に言ったごとくこの失敗は人を懼れるところから来たのであるが、その源は不信仰である。彼は人が彼を殺してサラを妻にれるであろうと考えたが、これは人間の考えである。神は決してそのようなことを許したもうはずはない。神は各人それぞれに生涯の事業を与えておいでになる。これを遂行する間は保護の御手みてを離したもうことはないのである。『我はわが生涯の事業を遂げ終わるまでは不死の身である』とはよく言える言葉である。アブラハムはこの時この信仰を缺いていた。しかし幸いにして彼はこの失敗によって深く自己の荏弱を悟り、これを悔い改めて信仰の絶頂まで進むに至った。アブラハムがもし神の約束を心に留めていたならばかかる失敗はしなかったであろうが、懼れのために神の約束を忘れていたのである。我等もこれによって懼れと不信仰に所を得られぬように教えらるべきである。


六 この失敗の大いなること (十一〜十三節

 サラは神の驚くべき約束の成就さるべき器である。しかるに彼はこれを放置してほとんど危害に遭わしめんとした。これを見ればこの失敗は実に容易ならざることであった。我等がこの世と妥協する時もその通りである。誠に霊的の子を産むべき教会をそこなうことは小さきことではないのである。我等は事に処するに感情、便利、習慣に捕らわれず、主義に立ち、高い道徳的標準に従わねばならぬ。


七 失敗の赦されること (十四〜十八節

 ここに今一つ学ぶべきことは、神がこのことを如何に処置したもうたかということである。信者が罪を犯した時に、神はその人を厳しく取り扱いながらも、他の者の前には彼を弁護したもう。他人がこれを厳しく取り扱うことは許したまわぬ。民数記十二章を見よ。モーセがエチオピアの女を娶ったことはたぶん間違いであったであろうけれども、アロンとミリアムがこのためにモーセをそしったのは罪である。またヨブ記四十二章七節を見れば、神はヨブの三人の友を怒りたもうたとしるしてある。ヨブは立派な人ではあれど、自己の義を立てんとしたことなど無論欠点があった。しかし神は三人の友が彼を厳しく論じたことを怒りたもうた。ロマ書八章三十一節以下に『神もし我らの味方ならば、たれか我らに敵せんや』『誰か神の選び給へる者を訴へん』『誰かこれを罪に定めん』『我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ』と録されている。神がアブラハムの味方で在したから、彼の欠点にも拘わらず彼に害を加えることを許したまわなかったのである。しかしてモーセが自己を謗った姉のために祈ったように、ヨブが自己を訴えた三人の友のために祈ったように、今アブラハムもアビメレクのために祈った。神は彼の祈りを聴いてアビメレクを赦したもうた。これによっていかに神がアブラハムを尊重したもうたかを見ることができる。およそ物の価はこれに対して払った代価によって定まる。そのごとく神はキリストの血によって贖いたもうた信者を愛し、これを尊重したもう。母はその子のために産みの苦しみを嘗めたためにその子を愛することが深い。我等も霊魂のために犠牲を払い、産みの苦しみをなして、初めてその霊魂を愛するようになる。かくてまた神が何故にアブラハムをかく愛し、守り、尊重したもうかの秘密を知ることができる。



| 総目次 | 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 |
| 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 附録1 | 附録2 |